第一章⑩
音が少ない昼間。
心地よい風が流れている。
静岡の浮月にある弓術場で蒼村シンロクは弓を引く。
矢は空気を裂き、ひゅうっと音を鳴らす。
矢は一直線に的の中心には向かわずに、右に大きくはずれた。
矢は芝に突き刺さる。
それを見て徳川アヤカは声を上げて笑った。「あははっ、シンロクってば、相変わらず下手くそねっ」
「うるさい虫の声だ、」アヤカに聞こえないように口の中で小さく言ってから、シンロクは弓を降ろし笑顔を作ってから振り返る。「おかしいなぁ、やっぱり姫様のお手本を見てからじゃないと、駄目みたいです」
「全く、しょうがないわねぇ」
アヤカは上機嫌な顔を見せて立ち上がり、弓を持った。
彼女は江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜公の孫で、つまりお姫様。幕藩体制解体後、この浮月の地に移り住んできた徳川家に仕えていたのが蒼村家だった。蒼村と、妹のリョウコはその子孫に当たり、その関係は大正時代になった今でも続いていた。つまり、二人はアヤカの家来。蒼村はまだ十五歳の小娘の言うことをなんでも聞かなければいけない立場だった。時代は変わっても変わらない愛らしいものとは、なんと煩わしいものかのかと、今日は思う。
「頑張って下さい、アヤカ様!」道場の隅に正座しているリョウコは手を叩いて声援を送る。
アヤカは的に向かって垂直に立つ。
弓を持ち上げ構える。
淀みない動きで弓を引き、しならせ、放つ。
矢は的の中心、わずかにはずれたところに刺さる。
「きゃあ! さすがアヤカ様!」リョウコは過剰とも言える声を上げる。「素敵ですっ!」
「まあ、こんなものだわね、」アヤカは気障に笑ってから蒼村を見る。「どう、参考になって?」
「ええ、とても、姫様のお手本を見たので、次は、はずしません」
蒼村は弓を構え。
放った。
矢はストンという音を立てて的の中心を射抜いた。
「姫様のおかげです」蒼村は笑顔で言った。
アヤカは面白くない、という顔をして弓を壁に掛け、そしてリョウコの太股に頭を乗せて横になった。「シンロク、それでどうなの?」
「ええ、まあ、心配はいりません」
「心配だわね」
「姫様が心配なさるのなら大丈夫ということです、」蒼村は弓の弦を調節しながら言う。「姫様の心配は当たりません、全てが杞憂、愛らしいことです」
「何よ、それ、」アヤカは蒼村を睨む。「愛らしいってなんなのよ」
「ヴィヴィアンヌ号は秋頃に横浜に着くようです、予定よりも少し遅れるようですね」
「ああ、秋かぁ、」アヤカは目を瞑って大きく息を吐いた。「まだ初夏だって言うのに、遠いなぁ、待ちきれないわぁ」
「いやしかし、遅れたことで少しやりやすくなったかもしれません、ご存じですか、西洋の百鬼夜行、えーっと、リョウコ、なんだったかな?」
「ハロウィン、」リョウコは発音よく言う。「だよ、お兄ちゃん」
「そうそう、」蒼村は繰り返す。「はろうぃん」
「はろうぃん?」アヤカは首を捻った。「知らないなぁ、で、それって何なの?」
「ハロウィンとは十月の終わりに開催される西洋のお祭りのことです、」リョウコが人差し指を立ててアヤカに説明する。「西洋ではその日、人々はそれぞれお化けに仮装し、百鬼夜行のように街を行進する、らしいのです」
「大名行列のようなものかしら?」アヤカは質問する。
「ああ、そうかもしれませんね、」リョウコは笑顔で返す。「私も細かいことは知らないんですけれど」
「船上でもその祭りが開催される可能性が高い」蒼村は矢を手にした。
「で?」アヤカは顔を蒼村に向けて言う。「だから何だって言うの?」
「侍とは亡霊でしょう?」
蒼村は弓を引き、薄い蒼の夏の空に矢を放った。




