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桜華押(Sakura-Monogram)  作者: 枕木悠
プレリュード
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プレリュード①

 大正一三年、西暦一九二四年の春。

 上野公園のベンチに座り、その背に深くもたれ、蒼村シンロクはシガレロを指先で回しながら、空を見上げていた。

 時折横から吹く風が、蒼村が吐いたシガレロの煙を流す。

 蒼村の傍に佇む桜はその風に花びらを奪われている。

 もう春の終わりが近い。

 梅雨に季節を変えるために、春は消えていく。

 この世界も時代を変えるために、古い時代を消していく。

 時代の変化とは、目まぐるしい。

 それは大正時代の東京に限られたことなのか、あらゆる時代、あらゆる場所に当てはめられる感想なのか、それは分からないけれど。

 東京の変化はとてつもなく、早いと感じる。

 東京のあらゆるものが新しいものに変わっていく。

 思想、哲学、文学、言葉、状況。

 小さな時に見ていた東京の風景は、もうない。

 背の高い巨大な西洋式のビルディングが次々に建ち、空だけを見ようと思えばもう、どこにいても真上を見上げなければいけなくなった。

 今は散る桜の花びらが、蒼村が空を見るのを邪魔している。

 蒼村はシガレロを長く吸って短く煙を吐き、目を瞑った。

 何も考えるな。

 そう意識する。

 思考を遮断することに最近やっと、慣れてきた。

 考えることはすなわち未来に終わりを思うことだから。

 それは角砂糖が解けていない苦い珈琲のように刺激が強く。

 角砂糖そのもののように甘くて吐き出してしまいたくなるものだから。

 蒼村は思考を遮断することを覚えたのだ。

 どれくらい目を瞑っていただろうか。

 遮断した思考に音が飛び込んでくる。

 ベルの煩わしい音だ。

 この音は、最近の東京の煩わしさの要因の一つだ。

 蒼村はゆっくりと目を開けた。

 ちょうど空に箒に跨った魔女が横切る。

 その魔女が着ているものも西洋式。

 黄色のワンピースに、黒いミリタリィ・ジャケット。

 彼女の首元には、イエロー・ベル。

 イエロー・ベル・キャブズの魔女だ。

 キャブズ、というのは魔女が箒の後ろに人を乗せて運ぶ職業のことだ。それは古い時代からある職業で、一般的に箒に跨り空を飛ぶことしか出来ない、魔法を上手く編めない魔女がなるものとして認知されていた。罪を犯し、呪いを掛けられ飛ぶことしか出来なくなった魔女が許される唯一の職業でもあるためにキャブズの社会的地位というものは低かった。

 しかし十年前、王都ファーファルタウでイエロー・ベル・キャブズという株式会社が設立されると状況は大きく変わった。

 イエロー・ベル・キャブズを設立したのは伊予宇和島の姫、伊達エリコ、という日本で有名な雷の魔女だった。彼女がキャブズをしていること、そして会社を設立したことに世間は騒いだ。身分制や普通選挙の問題と絡み、様々な議論が雑誌や新聞で展開された。その議論の熱が冷めやらぬ中、イエロー・ベル・キャブズの日本支店が新宿に出来てキャブズの求人が始まった。世間の予想を裏切り、求人には多くの魔女が殺到した。そのほとんどが今までも個人でキャブズをしていた魔女たちだったが、彼女たちがお揃いの黄色いワンピースに黒いミリタリィ・ジャケットを羽織り、イエロー・ベルを鳴らしながら、後ろに人を乗せて東京の街を飛ぶ姿は人々の目に優雅に映り、徐々にキャブズのイメージは変わっていったのだった。

優秀な魔女は大学の研究機関や軍に所属したりする。しかし魔女の全てがそういう生活を望むわけではない。魔法の研究は大嫌い。危ないこともしたくない。そんな風に考える魔女は珍しくない。そういう魔女たちは自分が魔女であることを明かすこともなく、隠すこともせずに、普通の人々の生活に同化し暮らしていた。たまにちょっとした魔法を編み周囲の人々の役に立って感謝されていい気分になる。そういう暮らしを送っているのだった。

 しかし、魔女は本能的に空を飛ぶものだ。

 退屈な毎日でない、と言ったら嘘になる。

 本当は自由に空を飛んでいたいのだ。

 そんな魔女たちにうってつけだったのはイエロー・ベル・キャブズの魔女になることだ。

 東京のキャブズの数はここ十年でぐんと増えた。だから東京は彼女たちが首から下げるベルの音で騒がしくなった。イエロー・ベル・キャブズだけでなく、他の色のベルのキャブズも次々に設立された。もう使う色がない、と新聞はこの状況について書いていた。とにかくキャブズという職業を選ぶこと、それは魔女のライフ・スタイルの一つとして、もちろんまだ彼女たちを蔑視する人々も多いが、この時代に確立されたのだった。

たった今蒼村の目の前を横切った魔女も、新しい時代のスタイルに順応した魔女の一人だ。

 彼女の群青色の髪の煌めきは、古い時代なら世間にキャブズであることを許されなかっただろう。その煌めきが保証する凄まじい水の魔法は戦争に動員される訳となる。

 群青色の魔女は一度蒼村の前を物凄いスピードで通り過ぎた。

 一瞬視線が交錯した。

 魔女は蒼村と目が合って、その表情を変えた。

 そして遠くの空で大きくバンク。

 一度雲を貫き。

 こちらに戻ってくる。

 蒼村は短くなったシガレロを地面に捨てて、靴の底で火を消した。

「もぉ、こんなところにいたのっ!」

 魔女は声を張り上げて言いながら空中で箒から降り、蒼村の五メートル手前に着地した。

 彼女のブーツの底がコンクリートに擦れ鈍い音が響いた。

 そして鳴る、ベルの音。

 魔女は大股で蒼村の方に近づいてくる。「もぉ、探したよ、お兄ちゃんっ」

 彼女の名前は蒼村リョウコ。リョウコは十四歳。蒼村とは九つ歳の離れた妹だった。

「何の用?」蒼村は目を瞑って聞く。

「なぁに、アンニュイな雰囲気出してるのっ?」リョウコの口調は荒い。ヒステリック濃厚、という感じだ。随分蒼村のことを探し回っていたようだ。群青色の魔女は一般的に攻撃的と言われている。リョウコもその例外ではない。「ほら、立って、後ろに乗って」

「あんにゅい、ってなんだ?」蒼村はその言葉の意味を知らなかった。

「格好付けてんじゃねぇぞ、この野郎って意味っ、」リョウコは箒に跨り蒼村を鋭く睨みながら早口で言う。「さ、早く乗って」

「へぇ、便利な言葉だなぁ、」蒼村は立ち上がり、リョウコに言われた通りに彼女の後ろに跨った。「それで、何の用なの?」

「私がお兄ちゃんを後ろに乗せるときなんて、アヤカ様が呼んでいるとき以外にないでしょ?」

「ああ、そうだと思ったよ、でも、久しぶりだな」

「飛ぶよ、しっかり掴まってて!」

「ああ」蒼村が頷く前にすでにリョウコは飛んでいた。

 一気に高く舞い上がる。

 リョウコはせっかちだ。ゆっくり飛ぶ、ということを知らない。

 高度をぐんぐんと上げ、厚い雲を貫いた。

 圧倒的な青空が広がっている。

 蒼村は上を見る。

 地上の反対だ。

 そこには空しかない。

 ふと、蒼村は思う。

 この空でさえ時代とは。

変えてしまうのだろうかと。



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