かざる言葉は
前作:「きみがため」
そのときは、前触れなく訪れた。
「北東より魔獣接近! 個体数100は下りません!」
蒼白な表情で天幕をくぐった使者は、珠光の足もとに膝をつこうとして叶わず、その場に崩れ落ちた。
荒い息を吐く少年の顔には、見覚えがあった。第七師団において最年少の16歳。あどけなさが抜けきらぬ顔だが腕は確かで、真面目な性格が功を奏して同僚たちから可愛がられている者だ。
珠光と言葉を交わした回数は数えるほどだが、その働きぶりは聞き及んでいる。しかし、経験の少なさを考慮され、今回の討伐においては後方部隊へと配属されていたはずだが。
その少年が、なぜここにいるのか。激しい戦闘区域をくぐりぬけてきたのだろう、いたるところに負った細やかな傷と、破れた隊服が痛々しい。
眉をひそめた珠光は、梏杜の前へ進み出て少年を助け起こした。
「珠光さま……!」
「待機部隊はどうしました」
『後方支援はお任せあれ』と胸を張った、いけすかない男を思いだす。
あれはたしか、口ばかり育った貴族の三男坊だったか。親の傘をきたクソ餓鬼。珠光の評価は底辺に近い。ことあるごとに声をかけられるのが、たまらなくわずらわしい。
奴は、本人の望み通り、後方からの急襲に備える待機部隊につかせてやった。他でもない梏杜の指示だ。そうでもなければ、誰が好き好んであんなどうしようもない男に命綱を握らせるものか。
沈痛な面持ちで、使者は首をふった。
「……みうけ、られません」
「逃げたか」
梏杜が冷ややかに笑う。ただでさえ近寄りがたい主の酷薄な笑みに、哀れな使者はすくみ上がってしまった。
いたずらに部下を怯えさせるなと、常であれば苦言を呈するところだ。しかし、いかんせん今は非常事態。まして、珠光自身も、腹にすえかねているのが正直なところである。
それみたことか、とため息を吐く珠光を、梏杜は楽しげに見つめている。冷笑のなかに浮かぶ愉悦は、どこまでも冷ややかに鋭い。
梏杜は、万が一にも自身が害されないという絶対の自信を持っている。だからこそ、こうしてわざと危機を招いて、せせら笑うのだ。邪魔な膿を出すいい機会だとでも思っているに違いない。
……なんとも、悪質な。
「私がいきましょう。――ベルデ!」
珠光は、すぐさま剣をとり、騎獣を呼び寄せた。歴戦をかいくぐってきた相棒は、聡い子だ。滑るように飛びこんできたベルデは、指示するまでもなく四足を折り、上体を下げて珠光を背中へと導いた。
艶やかな毛並みをひと撫ですると、ベルデは、ゴロゴロと機嫌のいい声を漏らして珠光に甘えた。二又の尾が大袈裟に揺れる。額にそそり立つ三本の角が特徴の、トライホーンと呼ばれる種族だ。強健で賢く、愛らしい見た目に反して、地上戦においては右に出るものがいない。
叢林の支配者とされる種だけあって、その気性は総じて荒い。珠光以外の者がその背を借りようものなら、瞬く間に地へ叩き伏せられた。
そもそも珠光に慣れているのだって、幼生の時分に傷ついた身を助けられた恩義によるものなのだ。トライホーンは気位が高い。人に屈する獣ではない。
唯一の例外は、梏杜だけだ。唯一にして絶対の主は、そのひと睨みでベルデを屈服させた。あの瞬間、全身を走った衝撃を、珠光は忘れられない。打ち震えた。これほどの存在に仕え、その唯一となれる喜びを噛みしめた。そして同時に、凡庸な己との差を思い知った。
身を起こしたベルデが、そのまま天幕の外へ飛びだそうとした間際。梏杜の愛剣が突き出され、進行方向を妨げる。停止を余儀無くされたベルデが、やや不満そうに身を沈めた。
ベルデにとって、梏杜は、おそらく人の中で唯一の上位者だ。従わざるを得ない相手というのは、他に存在しないだろう。珠光は『従いたい相手』ではあれど、決して梏杜と同格にはなりえない。ベルデ自身の心象は別として、優先順位で劣るのは仕方ないことだった。
「俺もいこう」
「なりません」
すかさず制止した珠光を鼻で笑って、梏杜はベルデに手を伸ばした。武官らしい無骨な手指は、常に最前線に立ってきた彼の経歴を示している。
黒手袋に覆われたそれが、ベルデの鼻先を撫でた。鋭い牙を震わせて、されるがままに身を任せるベルデは随分と上機嫌だ。騎獣はパートナーに似るという。梏杜に溺れる珠光の相方は、やはりどうしようもなく梏杜に心酔している。
ため息を吐きたくなる気持ちを抑えて、珠光は主の瞳を見返した。――だめだ。わかっているのに。囚われると知っていて、それでも。彼の視界に映ることが、彼の手足となることが、最大の喜びなのだから。
「珠光」
梏杜の声に、珠光は弱い。押し黙った珠光に、梏杜はクツリと喉を鳴らした。不遜な笑みは主の十八番だ。相手を煽って不要な争いを招き、そうして釣り上げた獲物を粘着質になぶるのだから趣味が悪い。
「貴方は……、すこしはご自分の立場をお考えになって下さい」
「それはお前の役目だ。俺は好きにする」
「梏杜さま」
「俺が死のうが生きようが、この国の存続に影響はしまいよ。俺が持つのは剣だけだ。他国においては抑止力にもなろうが、誰が好き好んで臥龍の膝下を脅かすものか」
無感動に言い放つと、梏杜はベルデの背にひらりと飛び乗った。珠光の背後から腕を回すと、長く伸びた手綱を奪ってしまう。
途端にベルデが唸り、身をかがめた。梏杜を背に乗せるときはいつもこうだ。地上最速の獣としての誇りをむき出しにして、その限界を極めようとさえする。ギクリと身をこわばらせて、珠光は慌ててベルデのたてがみを掴んだ。
天幕の外に詰めていた兵たちは、とうの昔に道を開けている。ベルデが飛びこんできた時点から、動いていないのだろう。叢林の支配者を妨げるものは、存在しない。
「いくぞ、珠光。久方ぶりに大きな狩ができそうだ――」
重低音の笑い声。耳に直接吹き入れられて、くらりと眩暈を感じた直後、ベルデは驚くべき初速で飛びだした。たてがみに身を伏せてなお、珠光の肢体は後ろに流れる。
細い背中を危なげなく受け止めながら、梏杜は笑っていた。心の底から沸き上がる愉悦に、身を奮わせていた。主の心にあるのは、これから屠るあまたの獲物だけなのだろう。
なにが剣だ。馬鹿を言うな。
梏杜の一太刀が降らせる血の雨を、どうして無視することができようか。
いつか地龍さえも屠るのでは、と畏怖される闇の御子を、どうして敵にまわすことができようか。
諦めたように背を預けながら、珠光は重苦しいため息を吐いた。――哀れな貴族のお坊ちゃんは、どのような最期を迎えるのだろう。
陰惨たる光景を思い浮かべながら、ざまあみろとせせら笑う一方で、後処理を思って頭痛を覚える。
梏杜の手を煩わせることなく、斬り捨ててしまいたかったのに。その程度のこと、珠光にもできる。できなくてはならない。都度、最前線に飛びこんでいく上官など、たまったものではない。
根っからの戦闘狂なのは知っているが、縛りつけてでもおとなしくしていてもらいたいと思う。しかし、珠光にはもちろん、他の誰であれそんなことは不可能だった。梏杜を楔づけられるものなど存在しないのだ。
――たとえ、実兄たる国王陛下であってさえも。
あまりの傍若無人。仕方なく、珠光が、くどくどと説教じみた台詞を吐く羽目になるのだ。
「三桁を超す魔獣の群れに、正面から突っこむおつもりですか」
「不満か?」
「そういう御身を顧みない行動は謹んでいただきたいと、常々申しております」
梏杜が笑う気配がした。背中に触れる、筋肉質な胸が震えている。まったく、随分と機嫌がいい。珠光の気など知ったことではないのだろう。何者にも縛られない主が誇らしくもある、……が、しかし厄介なものだ。
「俺が死ぬとでも思っているのか」
「まさか」
恐るべき速さで流れ去る景色を横目に、珠光は淡々と答えた。
「死なせませんよ、命に変えても」
まったく、他人のことなど言えないな、と、珠光は皮肉に口もとを歪めた。主従、揃いも揃って、大概狂っている。
万にひとつも害されることなどないと驕る梏杜も梏杜だが、万にひとつも害させてたまるものかと考える珠光も珠光だ。同じ穴の狢。わかっている。
もとより、珠光は、単身で飛びこんでいく心算だったのだ。勝算があるからこそのこと。梏杜のように、圧倒的な武力で制圧などという手段はとれないが、それはそれ、珠光には珠光の戦い方がある。
光色を身にまとう者のなかでも、もっとも地龍に近いとまで言われたほどだ。この身には、持って生まれた特異な縁がある。辿ることに迷いはない。梏杜を追うと決めたときに、使えるものはすべて使うと決めた。そうして得たすべてを、梏杜に捧げると決めた。
「――勝利を、貴方に」
常勝不敗。第七師団長にふさわしい、圧倒的な力でもって飾ってみせよう。
なんのてらいもなく言いきった珠光に、梏杜はことさら満足げに笑ってみせた。
枯れた地が続く、国境付近の荒野を駆けていく。ベルデの速度は一向に緩まないばかりか、ますます勢いを増していく。この圧倒的なスタミナこそ、叢林の支配者たる所以だ。トライホーンは、狙った獲物を延々とつけ狙い、ものにする。
たてがみに身を伏せていた珠光は、相棒の変化をいち早く察知した。ベルデの全身が、わずかにこわばっている。なだめるように背を軽く叩いて、珠光は身を起こした。
「きたか」
梏杜が問う。
「ええ」
短く答えた珠光は、地平をにらみ据えた。すこしずつ拡大されていく、その一点だけが、不自然に黒い。――魔獣の群れだ。
ベルデが、より一層、速度をあげる。梏杜に似て好戦的な相棒は、こういうときには心強い。怖気づくどころか、興奮もあらわに飛び込んでいく。
猛スピードで流れる景色のなかに、散見されるは干からびた肉塊か。魔獣の食べカスだろう。あのなかに、声を交わした者はどれだけ含まれているだろうか。
指揮官は愚鈍でも、下の兵に罪はない。掃討を任じられるのは決まって第七だが、必ずどこかの隊が共に派遣される。そのたびに、兵が死ぬ。
第七師団とて、無傷で任務を終えるわけではないが、損害は最低限。無駄死にはさせない。成果をもぎとり、その礎として、誇り高く散っていく。もとより少数精鋭の隊である。無様な散り際などみせようものなら、隊の恥、ひいては梏杜の恥だ。許せようはずもない。
「おとなしく震えていればいいものを――」
苦々しく吐き捨てた梏杜の怒気に同調して、ベルデのたてがみがブワリと膨れる。
「形式ばかりに囚われた張りぼての軍には、それが似合いだ」
「割りを食うのが末端の兵ばかりとは、……やるせないことですね」
「選択したのは己だろう。なんの上に胡座をかいているのか、わからぬわけでもあるまいに」
梏杜は嘲笑する。
「無意味に支払う犠牲を義務だと思っているのなら、とんだお門違いだ。あれは、ヒトに求めてなどいない。意思も都合も関係なく、奪うだけだ」
めずらしく饒舌な主の言葉を、珠光は黙して受け止めていた。
薄氷の上を行くような、まやかしの平和。その危うい均衡を、すこしでも長引かせるべくあがくのが、第七師団の役目だ。地を這う蟻は群れをなし、湧きでる『異変』の兆候へと食らいつき、消しつぶす。
あれの眠りを妨げることも、促すことも、ヒトには余る。どれほどの意味があるかもわからない理不尽な任務に、黙々と準じる、血濡れた守護者たちだ。
「人間はどこまでも愚かしくなるものか。仮にも自らが戴くモノに関して、見下げるほどに無知だ」
「無理もありません。声高々と叫ぶのは、まともな戦場など知らぬ、平和ボケした官吏ばかり。嘆かわしい現状です」
「お前ほどに、あれをよく知る者もいまいが」
「……そうですね」
珠光は、黄金色の巨体を思い描いて、そっと嘆息した。ヒトの手に負えるモノではない。神にも等しき、偉大なる獣。――地龍。こんこんと眠りつづける支配者を、決して目覚めさせぬように。
細心の注意を払いながら、湧きでる不浄を狩りつづける。
いつかくる災厄を、ほんの僅かでも先延ばしできるならばと。珠光は、第七師団は、漏れでる余波にすぎぬ『不浄』――すなわち魔と化した生命を、狩りつづけている。
いよいよ目前に迫り、黒々と壁のようにそびえる魔獣の群れを、珠光は憎々しく睨みすえた。
狩る。
それが、珠光の、そして梏杜の、選んだ道なのだから。
「――まいります」
自分自身へむけた鼓舞の直後、ベルデの咆哮が、高らかに響いた。
渦を巻いた魔物を掻きわけ、その中心部まで、ベルデは迷うことなく飛びこんでいった。
視界は一面の、黒。泥のような邪気を滴らせ、元となった生物の名残をわずかにうかがわせる異形たちが、全方位にひしめいている。ここまで進んできた道筋も、またたく間に埋められた。
――辺りに、生者の気配はない。
おそらく早々に逃げだしたであろう後方部隊を除けば、この一帯に配備された兵は、数えるほどだった。第七の者は、命失くすその瞬間まで、孤独に抗ったことだろう。
救援を得られぬまま散っていった彼らを思い、珠光は唇を噛む。
梏杜が、鼻で笑う気配がした。
「ほうけている暇があるのか?」
重低音のつぶやきを残して、背中から人肌のぬくもりが消える。
直後、ふわり、と宙に浮いたベルデの手綱を、珠光はあわてて掴みとった。闇色の長衣をまとった肢体が、またたく間に後方へと流れていく様子が、横目にみえた。
まったく、制止などする暇もない。
梏杜は、軽やかに荒野へと降りたつと、その足で地を蹴って、さらに飛びだしていく。とても人間業とは思えぬ、その身のこなしは、獣の跳躍にも似ていた。
起伏の多い地上を駆けながら、愛剣を鞘から引きぬき、魔物の群れへと躍り入っていく、その背中。
仮にも指揮官の行動としては、論外もいいところである。
けれど、誰にも止められはしない。
まさに一騎当千。その身すべてを剣として魔を穿つ、聖者というにはあまりにも禍々しい、血塗れた軍神。
こちらに見向きもしない神など信じてはいないが、梏杜には、その名こそがふさわしい――。
梏杜の間合いに魔が入る前に、珠光はベルデの背から滑り降りる。ここまで連れてきてくれただけで、相棒の仕事は終わりだ。生存者がいれば、話は違っていたのだけれど。宥めるように、かるく背を叩くと、ベルデは不満げに鼻を鳴らした。
「すみません、ベルデ。あなたにまで暴れられたら、収集がつきませんから」
これは、ヒトの狩りだ。
珠光の知るかぎり最強の座にもっとも近い男が、その実力を遺憾なく発揮することを許された、数少ない場だ。
嬉々として斬りこんでいく梏杜の背中をみつめながら、珠光は嘆息する。
――なんとも、生き生きと。
「仕方のないひとだ」
手を出せば、まちがいなく機嫌を損ねられる。
わかっているが、珠光にも譲れないプライドがある。
引きぬいた細剣の切っ先を、勢いよく大地に沈める。深々と突きささり、直立する剣の柄に右手を添えた珠光は、フッと口もとを緩めた。
私は、貴方の隣に立っていたい。
背に守られるでもなく、諾々と従うでもなく、永劫、――傍に。
そのための代償ならば、いくらでも払おう――。
遊んでいた左手で、おもむろに刃を掴む。
ひややかな光沢をまとった白刃を伝い、滴り落ちる血が、乾いた大地に浸みこんでいく。
右の手のひらを握りこみ、より深く。
紅い文様を絡みつかせた盟約の剣を、珠光は、地の底へむけて押しこんだ。
「地の底にて眠れし龍よ。望むがまま、貪り喰らうがいい」
足元から大量にあふれ出る光に、珠光の視野は奪われる。
真白く染まる視界のなか、かの偉大なるケモノの咆哮と、――梏杜の舌打ちを、聞いた。
*
その“声”を初めて聞いたのは、物心ついてすぐの頃だった。
『こえ、が……』
遠く離れた地から、響くような。呻くような。
言葉ともいえず、ときおり、耳鳴りのように延々と囁きつづける、声。
自分以外には聞こえない、地の唸り。
『きこえるの……こえ』
『ああ、気味が悪い。虫のような瞳をして、聞こえもしない音を聞く。重ねの光色持ちなんて、碌なもんじゃあないね』
生みの親も親類も、幼き頃に、身近にいたすべてのヒトは、それを忌避した。
向けられた嫌悪も、吐き捨てられた唾も、覚えている。
『声が、するのです。いつの頃からか……地の底から、響くような、声が』
梏杜に拾われて尚も、その“声”は、珠光を縛りつづけた。
『それが?』
――そして、梏杜は、それを一笑に付した。
『珠光。お前は俺のモノか、はたまた龍のモノか』
『は?』
『なあ? かの龍に宿縁づけられた光の子。――俺との縁より、そちらをとるとでも?』
不穏にゆれる、闇色の焔。猛々しい輝きを前に、ぞくりと肌は粟立った。その理由は。恐怖、畏怖、――否、
『……ご冗談を。貴方の他に、私がこの身を捧げる先はありません』
歓喜。
『ならば、その言葉、忘れるな』
わずかに細められた瞳。皮肉につりあがった唇。
一字一句、その瞬間の表情にいたるまで、覚えている。
『たとえ忌まわしき獣であろうと、俺のモノを譲る気はないぞ――』
傲慢なる闇の御子。どこまでも不遜に、たとえ神にも等しき獣を相手どろうとも、ただでくれてやるつもりはないと。
梏杜の執着を知った、その日。
珠光は、あらためて、主に楔づけられた。
地龍に押しつけられた宿縁よりも、はるかに固く。我欲に塗れた首輪をかけられた、そのとき。裏切ることも離れることも赦さぬと、雄弁に告げた、その瞳に。……かつてない高揚を、覚えた。
梏杜は、光だ。
珠光にとって、まごうことなき光そのものだ。
地龍という存在を上塗りして尚、あまりある、昏く蠱惑的な光だ――。
*
「――珠光」
気がつけば、不機嫌に顔をしかめた主が、目の前に立っていた。抜きはなったままの長剣からは、ヒトよりもやや濃い魔物の血が、絶えず滴り落ちている。
「梏杜さま……お怪我は?」
珠光の問いかけには答えず、梏杜は血を振りはらった愛剣を収め、無言で距離を詰めた。
射抜くようなまなざしに、主の怒りを、知る。
「禍々しい力の余波。純然たる“暴食”の欲望。無作為に喰らいつくす獣の陰」
抑揚すくなく状況証拠をならべたてた梏杜は、最後に珠光の手から細剣を取りあげた。血に汚れたそれを、手袋の上からとはいえ、ためらうことなく掴んだ梏杜は、冷笑する。
「あれがなにか、馬鹿でもわかる」
主の手のなかで踊る凶器から眼を離せないまま、珠光はそっと左の手のひらを抑えた。かさついた、乾いた血の感触がする。生々しい傷口は、すでにない。
珠光は、一般的な人間よりも、すこしばかり傷が塞がるのが早い。おそらく、重ねの光色――髪と瞳、両方に地龍との縁を宿した、希少な存在であることに由来するのであろう。
治癒ではなく、流血を止めるに留まるあたりが、なんともアノ獣らしいところだった。さしずめ、無為に流れる血を惜しんでのことか。まかり間違っても慈悲ではない。
……執着だ。
そうとわかっているからこそ、珠光は、ためらいなく血を流せる。
それを呼び水に、眠れる龍を“食事”に誘いだせる。
己の“声”は、聖銅を透過するばかりでなく、血を介せば、地の底にもまた響くのだと、知っている。
「珠光」
そして、梏杜は、それが気に食わないことも。
「アレを頼ったな」
「己の手札を、利用したまでのことです」
「ほう」
梏杜に奪われた細剣が、首筋に突きつけられる。
隊服の詰襟を、ぎりぎり割かない位置で、ピタリと静止する鋭利な刃。
ひやりと、冷気を感じた。
「――利用? 代償を支払う利用があるものか」
「私は、なんどでも、おなじことをくり返すでしょう。貴方が望まずとも」
鼻で笑って、梏杜の手に力がこもる。布地ごしに伝わる、押しつけられた凶器の感触。白い隊服に、刃先を伝った血の染みが浮かぶ。
切り裂かれるまで、あとどれほどか。梏杜が、その手を引けば、簡単に刃は、皮膚を、そして血脈を、とらえるだろう。
構わないと、珠光は思った。梏杜につけられる傷ならば、それが、どれだけ深くとも構わない。たとえ命を奪われようとも、そこには歓びしか生まれない。
――側を離れることに、すこしばかり後悔を覚えるだけのこと。
眉ひとつ動かさず、されるがままに身を任せる珠光に、梏杜は剣を捨てた。感情を消した顔で、淡々と吐き捨てる。
「覚えておけ……地を這う獣ごときに、お前の血肉をくれてやるつもりはない」
いつかとおなじ、仄暗い輝きをもった瞳。苛烈なまなざしひとつ残して、梏杜は踵をかえす。
――それを見て、珠光は、微笑んだ。
おなじ執着心ならば、梏杜に向けられるそれのほうが、はるかに深く心地よい。獣と梏杜。比べるまでもなく、甘美な歓びを与えるのは後者だ。
かの龍が、暇つぶしに向ける子供騙しの執着心など、毛ほどの価値もない。利用することに罪悪感も湧かなければ、梏杜へ向ける親愛がぶれることもない。
忠誠などとお綺麗な皮を被った、ドロドロとした執着心。もちろん、自覚している。
足元に転がる、細剣を拾いあげて、振りかえりもせずに離れていく梏杜の背を追う。
――真に、とらわれているのは、どちらか。
「こい、ベルデ」
梏杜の声に反応した相棒が、のそりと身を起こした。
「戻るぞ――」
自殺志願者は他にいるようだからな。つづいた梏杜の言葉には、隠そうともしない殺気がこもっていた。
機嫌を損ねたのは珠光だが、そもそもの元凶を庇ってやる義理もない。
「はい」
おとなしく従いながら、此度の件について、糾弾されるであろう待機部隊の責任者――例の三男坊――を思い、珠光はくすりと喉を鳴らした。
*****
しかし、珠光の予想に反して、梏杜による粛清――膿を洗い流す血の雨は、降らなかった。
それどころではない衝撃が、軍部を襲っていたのである。
「渡り人、ですか」
部下の報告を聞いた珠光の声は、かすかに揺れていた。
「はい。遠征の帰還時に師団長が拾われた、あの娘。まぎれもなく渡り人であると――陛下より、言伝が」
「なぜ……陛下が?」
「城にて保護されたのち、我々の出立に乗じて、脱けだした模様です」
聞こえる。声が。
地の底から響く、臥龍の声が。
「わかりました。あとのことは、私がなんとかします」
「は、……そのこと、なのですが」
「まだ、なにか?」
「渡り人の身柄は、第七師団に委ねる――、と」
ガタリ、と音を立てて、珠光は席を立つ。
「副長?」
「……すみません。……続きを」
なにを、焦っている。
まだだ。まだ、時間は、ある。
「師団長の判断次第、ですが。……もし、生かすのであれば」
梏杜は、生かすだろう。あの娘を、きっと。そして。
「珠光さまに、渡り人の世話を、任せよと――」
噛みしめた奥歯が、ギィ、と鳴る。
その音にまぎれることもなく、“声”が、響きつづけている。
「わかりました――さがって、結構です。梏杜さまには、私から報告しましょう」
退室の挨拶を口にして部屋を辞す部下の背中を見送り、珠光は、ため息を吐きだす。
『目覚ノ御子。アト少シ』
初めて人真似をした地龍の言葉が、珠光の耳の奥で、延々と反響していた――。
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タイトル上部、シリーズ名(きみがため、)のリンクから飛べます。