冬が来た
ドアノブが怖い。
静電気が来るからだ。
静電気が怖い。
無防備なわたしにちくりと刺すような刺激を容赦なく与えるからだ。
何故だ。
それは冬が来たから。
冬が来たからだ。
そんな季節になってしまった。
でも、冬は好きだ。
何故なら食べ物が美味しくなるからだ。家族揃って気を置くことなくみんなでつつく鍋料理は、この季節ならではの贈り物。鍋は作るのが楽しい。白菜に、豚肉、シメジに人参。スーパーで目を迷わせながら売り場を巡り、鍋の具を選ぶのが好きだ。
人目を気にせず、好きなものを好きなだけ選ぶ。買いすぎると母から怒られるので、そこはちゃんと自重する。母は昭和を絵に描いたような堅実さと強かさ、そしてつつましさを持った女性だ。そんな母の作る鍋は最高だ。叙勲を与えても良い。出来上がった鍋を想像しながらわたしは弟と一緒に買物を続けた。
もちろん、弟は荷物持ち。「頼りにしてるよ」と、そそのかす。高校生になった弟の隆博にとっては、身内である姉と一緒に買物をすることは不本意なんだろう。弟は恥ずかしがり屋で無口なやつだ。クラスでも目立たないと聞く。
そんな弟がクラスの誰かにこの姿を見られたら、真っ赤になって恥ずかしがるだろう。けれども、弟はわたしとの買物に付き合ってくれた。
「ねーちゃんだって、ぼっちで買い物するのは寂しいだろ?」
正論という剣は鋭く光る。いくじなしの盾はそれに無条件にひれ伏すべきだ。
わたしは黙って「うん」と頷いた。
スーパーの買い物かごが多くの肉、野菜、その他食材で埋め尽くされる。安いから、ついつい。
食べ盛りの弟がはふはふと頬を膨らませながら肉を口にする姿が目に浮かぶ。少年が男になる微妙な境目が、私の母性をくすぐった。
お会計を済まし、袋いっぱいに鍋の材料を詰める。うっすらとビニル袋から肉が詰まったパックが透き通る。
「ぼくが持つよ」
率先してビニル袋をもつ弟は、わたしに口を挟む隙を与えてくれなかった。気がきく男子は頼もしい。
弟に買い物袋を持たせてスーパーを出る。自動ドアがわたしたちに気付き、扉を開けてくれる。そこにはドアノブはなかった。わたしは、どこでドアノブに出会うのだろうかと少しばかりひやひやしながら、弟と一緒に家へと向かった。
文句を一言も出さずに弟は買い物袋を両手で持っている。重さに耐えかねてビニルの素材が細い線となり、弟の掌に食い込む。表情を変えることなく弟は鍋の材料を我が家に運んでくれた。会話はなくとも態度で示してくれればそれでいい。
無口な弟とわたしは家路を急いだ。徐々に寒くなる風が鍋を美味しくする。
ぐつぐつと煮込んだ具材が出汁に浸されて、野菜や肉の旨みを引き出してくれる鍋。寒い冬だって、鍋さえあればこれで乗り切れる。白菜がこんなに甘いとは知らなかった。豆腐がこんなに味のあるやつだとは気付かなかった。そして、しめの雑炊に老若男女の顔を緩ませる力があるとは思いもしなかった。それは言い過ぎかもしれないが、わたしが冬を好きになる理由だから許して欲しい。
やがて、わたしたちの住む団地について階段を一段一段と登る。弟は嫌な顔をせずに重い買い物袋を持ってくれた。
家さえ着けば、鍋に会える。寒い季節に現れる懐の暖かいやつに出会う為に、大きな壁がまた一つ私の前に立ちはだかった。
自宅のドア。
いや、怖いのはドアノブだ。
ドアノブが怖い。
静電気が来るからだ。
静電気が怖い。
無防備なわたしにちくりと刺すような刺激を容赦なく与えるからだ。
じりじりと自宅の金属製のドアノブにわたしたちは近づいていくと、わたしによこしまな思いがよぎった。
弟は今、両手がふさがっている。必然的にドアノブを握るのはわたしだ。冷徹な金属性のドアノブを握り、静電気という慈悲なき刃に倒れるのはほかでもないわたしだ。それは嫌だ。静電気は怖いから。ならば……。
「隆博、重かったでしょ。荷物、持とうか?」
弟の脚が止まった。さりげないわたしの一言に。
答えもしない静寂のときが、わたしの邪心を露にするようで心苦しい。凍てつく風に晒されたような気持ちだ。
「別にいいよ。それに、姉ちゃんにこんな重い荷物持たせているところ母さんに見られたらやかましいし」
「そうかな」
「うん。ぜったいそうだよ。『男の子が女の子に荷物を持たせるな』って」
大人の意見を武器にして弟はわたしの目論見を破壊した。もっともな意見だ。反論さえ出来ない。
わたしは「うん」と頷くと、清水の舞台から飛び降りる気持ちでドアノブに手を差し伸べた。
ドアノブが怖い。
静電気が来るからだ。
静電気が怖い。
無防備なわたしにちくりと刺すような刺激を容赦なく与えるからだ。
ひんやりとした団地の無機質なドアノブに手をかける。腕を通じ、肩に、脊髄に、脳に冷たさが伝わった。そして、わたしがもっとも恐れていた静電気は姿を表すことはなかったのだった。まったくの杞憂だ。
ゆっくりと目の前に広がる我が家の廊下がわたしたちを出迎えてくれた。
わたしと弟が玄関をくぐった瞬間、弟は重い荷物を降ろしてわたしに呟いた。
「ほっとしてる?」
わたしは弟の言葉の意味をまさぐった。
家に着いたからか。
寒い外から逃れられたからか。
それとも、ドアノブからの静電気が来なかったからか。
もちろん、弟には静電気が来るから……の件は聞かせていない。だが、如何にもわたしが静電気を嫌って、弟にドアノブを握らせようとしていたことが筒抜けになっていたかのような選択肢が思い浮かぶ。
無口な弟はすたすたと買い物袋を持って母親の待つ台所へと歩いていった。わたしは再び、吸い付くような冷たさを抱くドアノブを握り玄関の扉を閉めた。
今夜は鍋料理。だから、冬は好きだ。
おしまい。