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第4章 第10話 離れ方

 十月に入ると、伴走制度の終了時期が現実的な議題になった。


 いつまでも続ければ依存が深くなる。急に切れば崩れる。生徒会室で開かれた合同会議は、最初から空気が重かった。

 教師側は学期末での一斉終了を提案した。事務処理としては最も簡単だ。

 だが真白は、その簡単さが怖かった。


「終わるなら、終わり方を作らないと」

 真白が言う。

「作るって、具体的に?」

「少なくとも、“今日で終わりです”で切るのは違う」

 九条はそれに対し、終了までの手順書を提示した。面談回数の縮小、代替窓口の明示、最後の確認項目。見事に整っている。整っているからこそ、真白は身構えた。

「きれいすぎる」

「必要だから整えた」

「整えた通りに人が終われると思ってる?」

「終われるようにするのが制度だ」

 九条の正しさは、相変わらず痛い。痛いから、真白はつい感情の方へ寄りたくなる。だが感情だけで終わらせれば、また別の依存を生むことも知っている。


 昼休み、悠真は相談役ではない生徒たちを集めて、雑談の延長みたいな場を作っていた。伴走が終わったあと、同じクラスで何が残るか。答えを出す場ではなく、ただ感想を持ち寄る場だ。

「終わっても、結局また相談したくなると思う」

 誰かが言う。

「そりゃそうだろ」

 別の誰かが返す。

「でも、相談したいのと、相手がずっと持つのは別」

 悠真はそう言って、机の上のプリントを指で揃えた。

 真白はその光景を教室の外から見ていた。

 悠真は中心になろうとしていない。誰かの答えにもならない。

 ただ、終わったあとの空気だけを先に作っている。そういうやり方があることを、真白は知っているのにまだ羨ましい。


 放課後、結菜は相談ノートを返しに来た。表紙の角が少し丸くなっている。

「これ、どうしたらいいですか」

 またその言い方だ、と真白は思う。けれど前ほど苛立ちはしなかった。

「どうしたいの」

「捨てるのは嫌です」

「じゃあ持って帰れば」

「でも、それだと朝比奈さんとのノートのままだから」

 真白はそこで少し考えた。ノートは物だ。だが、そこに意味が入りすぎている。

「中の紙だけ抜いて、自分のノートに貼れば」

 結菜は目を瞬かせた。

「そんなことしていいんですか」

「誰がだめって言うの」

「……朝比奈さん」

「わたしを基準にするの、まだ残ってるわね」

 そう言うと、結菜は困ったように笑った。けれどすぐに、まっすぐ「はい」と認めた。その素直さは、以前より少しだけ健全だった。認めれば、そこから外せる。


 会議のあと、九条は校舎裏で真白に言った。

「君は終わりを情緒で扱いすぎる」

「そっちは手順で扱いすぎる」

「どちらも間違いではない」

「そういう時だけ便利よね、その言い方」

 九条は珍しくすぐに返さなかった。落ち葉がアスファルトの上を擦る音だけが一度通り過ぎる。

「終わり方は、親の都合でも子どもの都合でも決まらない」

 九条が言う。

「関係の都合で決まる」

 その一言に、真白は少しだけ息を止めた。制度や感情ではなく、関係。九条がそう言うのは珍しい。

「……あんた、最近ちょっとずるいわね」

「褒め言葉として受け取っておく」

「褒めてない」

 それでも、少しだけ笑った。終わり方を考えることは、別れの技術を学ぶことに似ている。依存を壊すためではなく、残るものを変えるための。


 帰り道、悠真は真白の歩幅に合わせてゆっくり歩いた。

「九条とまた揉めた?」

「揉めたってほどでもない」

「それ、一番長引くやつ」

「うるさい」

 夜風は冷たく、街路樹の葉が少しずつ色を変えている。

「真白」

 悠真が名前を呼ぶ。

「終わらせるのって、切ることじゃないから」

「分かってる」

「本当に?」

 真白は答えなかった。分かっているつもりだ。けれど、相手が歩けるようになる前に手を離すのも怖いし、歩けるようになったあとも手を離せない自分はもっと怖い。

 その沈黙を、悠真は責めなかった。ただ横を歩くだけに留めた。その距離が、今の真白にはありがたかった。誰かの答えではなく、答えを急がせない距離。支えにもいろいろあるのだと、真白は遅れて理解する。


 十月、伴走制度の見直しは最終段階に入った。項目の削減、終了面談の新設、拒否の練習会。真白たちの案はかなり取り入れられたが、その分だけ別の問題も浮き上がる。支援を終えたあと、急に不安定になる生徒が出始めたのだ。

 制度が悪いのではない。終わらせ方も以前より丁寧だ。けれど、手を離されたあとに自分で立つ時間を、誰も簡単には引き受けられない。

 支えられた側には寂しさが残り、支えた側には「もっと続けるべきだったのでは」という罪悪感が残る。


 真白はその日の午後、旧校舎につながる渡り廊下で、伴走を終えた二年生と話した。

「終わったのに、終わった感じしない」

 その生徒は手すりにもたれたまま言う。

「連絡しちゃだめってわけじゃないんでしょ。でも、していいのか分からなくて」

「してもいいし、しなくてもいい」

「その“どっちでもいい”が一番困る」

 真白は苦笑した。分かる。自由は、時々不親切だ。決めてもらえないことは、置き去りにも似る。

「でも、どっちでもよくない形にすると、また戻る」

「戻るって?」

「支えてもらう形に」

 生徒は黙り、風で揺れた前髪を指で押さえた。真白はその横顔を見ながら、自分の言葉が今どれだけ突き放して聞こえているかを考える。手を離す話は、どうしても一度は冷たく響く。


 会議後、九条は資料を閉じながら言った。

「離れ方の設計が、いちばん難しい」

「設計って言い方がもう冷たい」

「でも必要だろう」

「必要だけど」

 九条は珍しく声を少し落とした。

「続ければ支配に近づく。終わらせれば切り捨てに見える。そのどちらでもない形を作るなら、設計するしかない」

 真白は反論しかけて、やめた。今回は九条の言葉が妙に響いた。自分だって、感情だけでは越えられない局面があると分かっている。


 その夜、悠真は真白に言った。

「離れ方って、結局、離れる側の都合でもあるよね」

「残る側の都合でもある」

「だから揉める」

 真白はキッチンで冷えた麦茶を飲みながら、窓の外を見た。外灯に照らされた庭木の影が揺れている。

「親離れとか子離れって、たぶん片方だけの決意じゃ済まないのよ」

「うん」

「だから面倒なの」

「真白らしい結論」

「褒めてないわね」

「褒めてない」


 翌日、拒否の練習会で、真白は参加者に向かって短く言った。

「“もう大丈夫です”が言えないなら、“今日はここまで”でもいい」

 はっきりした終わり方を渡すのではなく、小さな区切り方を増やす。関係を切るのではなく、距離を測り直すための言葉を配る。その発想は、ようやく真白の中で形になり始めていた。


 帰り際、九条が横に並ぶ。

「それ、いい言い方だった」

「最近素直すぎない?」

「素直じゃないと間に合わない場面もある」

 真白はその一言に少し驚く。九条が“間に合わない”を口にするのは珍しい。たぶん彼も、制度や理屈だけでは届かない部分を見始めているのだ。


 廊下の先で悠真が待っていた。三人が並んで歩くのに、以前ほど不自然さはない。けれど方向は同じでも、見ている場所が違うことだけは、誰にも分かっていた。真白は窓に映る自分たちの影を見ながら思う。離れ方を学ぶことは、たぶん一番遅い成長だ。だからこそ、手放す時の言葉を急いで決めてはいけない。

 見直し案の最終稿には、終了の言葉の例がいくつも並んだ。〈ここから先は、自分でやってみて〉〈困ったら戻ってきていい〉〈でも、まずは自分で決めてみて〉。どれも正しいようで、少しずつ温度が違う。

 真白はそれを読みながら、結局どんな離れ方も一度は冷たく聞こえるのだと思った。親が手を放す時も、子どもが離れる時も、相手の耳には拒絶に似る瞬間がある。


 その日の夕方、真白は中庭で結菜と短く話した。

「伴走、年内で終わりにしようと思う」

 真白が言うと、結菜は驚かなかった。

「はい」

「それだけ?」

「そのつもりでした」

 拍子抜けして、真白は少し笑う。

「寂しくない?」

「寂しいです。でも、終わらない方が怖い」

 その答えに、真白はしばらく何も言えなかった。離れ方を教わっていたのは、自分の方かもしれないと思う。


 夜、九条は珍しく電話をかけてきた。

「終わりの面談、どうする」

「どうする、じゃなくて、やる」

「感情で崩さない?」

「崩れるほど若くない」

「十分若いよ」

 電話越しの九条の声は静かだ。真白は窓辺に寄り、外の闇に自分の顔を映す。

「離れるって、決める側も決められる側も、どっちも痛いわね」

「うん」

「でも、痛くない離れ方なんて、たぶん全部嘘」

 九条は少し間を置いてから答えた。

「そこまで言えるなら、もう大丈夫だ」

 その言葉に、真白は初めて終わりが近いのを感じた。敵が大きくなったわけではない。ただ、自分たちが扱う痛みの種類が、以前よりずっと生活に近くなっている。だからこそ、逃げ場もない。


 最終稿を閉じたあと、真白は生徒会室の時計を見上げた。秒針の進み方だけが妙に大きく聞こえる。離れ方を言葉にする作業は、思っていたより地味で、思っていたより疲れる。

 助ける言葉ならいくらでも出るのに、助け終わる言葉はこんなに少ない。

 たぶん誰も、子どもに「もう自分で歩いていい」と告げる親の気持ちを、きれいな言葉にできないのだろう。だからこそ真白は、整いすぎた文章を信じない。少し痛くて、少し不親切で、それでも嘘のない離れ方を残したかった。


 夜の会議室で最後の文面を詰めていると、窓の外の街灯が床に細い線を引いた。離れ方を文章にすることは、思っていた以上に生活の匂いがする。

 制度として書けば事務的になるし、気持ちとして書けば甘くなる。そのあいだで、誰かの背中を押しすぎず、捨ててもいないと言える言葉を探す。

 親が子に「もう一人でやってみなさい」と言う時の声も、たぶん本当はこんなふうに迷っているのだろう。突き放したいわけではない。ただ、ずっと代わりには生きられないと知っているから、あえて引くしかない。

 最終稿のあと、悠真は資料の束を持ったまま言った。

「真白、最近“終わらせる言葉”を怖がらなくなった」

「怖いわよ」

「怖いまま言ってる」

 その指摘に、真白は少しだけ視線を落とした。以前なら、終わりを告げることは見捨てることに見えた。今も完全には違わない。ただ、見捨てたくないからこそ、ずっと抱え込む方がもっと別の残酷さになると知ってしまった。親離れも子離れも、結局は怖いまま手を離すしかない。その怖さを消す魔法の言葉なんてない。だからこそ、少し不格好でも自分の声で言うしかないのだと、真白はようやく納得しつつあった。


 会議室を出たあと、廊下の非常口の窓から夕焼けが見えた。赤い光の中で、机や椅子の影が長く伸びる。誰かの背中を押すことより、誰かが自分で歩き出したあとに黙って見送ることの方が、今日の真白にはずっと難しかった。


 家に帰った真白は、机の端に残していた古い伴走記録を束ねて引き出しにしまった。全部をいつでも開ける場所に置いておくと、つい確かめたくなる。あの子は今どうしているだろう、あの場面の言い方は正しかっただろうか、と。けれど、過去の支援をいつまでも見張るように持ち続けるのは、別の形の執着だ。手を離すとは、今だけでなく、過去に対する役目も少しずつ下ろすことなのかもしれない。真白は引き出しを閉じ、鍵はかけずに立ち上がった。完全に消すのでもなく、いつでも開きっぱなしにするのでもない。その中間くらいが、今はちょうどよかった。


 翌日の最終確認では、教師の一人が「離れることをもっと前向きな表現にできないか」と言った。真白は一瞬だけ考え、首を横に振った。

「前向きにしすぎると、痛くないふりになります」

 教室が静まる。

「離れるのは、たぶん少し痛いです。支えられる側も、支える側も。そこを消した言葉は、結局また誰かを急がせる」

 言ってから、真白は自分の声が思ったより静かだったことに気づく。もう、綺麗にまとめることは目標ではない。痛みを痛みのまま置いた方が、かえって人は自分で距離を測れる。その感覚が、ようやく身体に近いところまで来ていた。

 そのあとで九条が小さく頷いたのを、真白は見逃さなかった。痛みを消さないまま制度に残す。


 その発想だけが、ようやく三人のあいだで同じ場所を向いていた。

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