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第3章 第11話 言葉じゃないもの

 凪紗を止めるための公開対話の場が設けられた。


 皮肉なことに、対話で始まった問題を、また対話で収めようとしている。体育館の壇上に、凪紗、真白、九条、そして教員代表が並ぶ。生徒たちは半分期待し、半分怯えながら見ていた。


 最初に話したのは九条だった。凪紗の手法が責任を曖昧にし、受け手にだけ決断の負荷を押しつけること。沈黙の善意が、言葉より強い圧になっていること。論理は完璧だった。だが凪紗は首を傾げるだけだ。

「そう思うなら、そうなんじゃないですか」

 その一言で、会場の何人かが凪紗側へ寄る。断定しない方が逃げ道があると、信じてしまう。


 次に真白が話した。気持ちを伝えるには言葉が必要だということ。話さないことまで善悪で裁き始めたら、そこにはもう対話はないということ。真白の言葉はまっすぐだった。だがそれでも、凪紗に心酔した生徒たちの表情は動ききらない。彼らは今、正しさよりも、分かってもらえた感覚を求めている。

 凪紗は静かに言った。

「朝比奈先輩たちは、結局言葉で決めたいんですね」

 真白はその瞬間、喉の奥が凍るのを感じた。違うと言いたい。だが、自分が今までも言葉で流れを整えてきたことを、完全には否定できない。

 九条が助け舟を出そうとした、そのときだった。

「もういい」

 体育館の下手から、悠真の声が飛んだ。


 それは普段の彼の声ではなかった。低いのに鋭く、抑えようとしていない。会場が一瞬で静まる。悠真は壇上へ上がらない。

 ただ、床の上から凪紗を見た。


「考えない。分からない。君は何も言ってないから」

 ざわめきが走る。だが悠真は止まらない。

「何も言ってないのに、分かるって顔だけさせて、勝手に自分で決めた気にさせるのが、一番汚い」


 真白が息をのむ。九条でさえ言葉を失う。

「ぼくは君のことなんか分からない。分かる気もない。でも、君が間違ってることは分かる」


 声がひどく荒れていた。整っていない。上手くもない。なのに、一言ごとに会場の空気が変わる。

「苦しい奴に、考えれば分かるなんて言うなよ。分からないから苦しいんだろ。言葉にできないから困ってるんだろ。黙って一緒にいるふりして、答えだけ押しつけるな」


 そこには説得の形がなかった。気持ちだけがむき出しで叩きつけられている。だから真白は、初めて真正面から殴られたような衝撃を受けた。言葉なのに、言葉として整っていない。けれどだからこそ、気持ちがそのまま届いてしまう。

 凪紗の周りにいた生徒の何人かが、初めて視線を揺らした。九条はそこでようやく、何が起きているかを理解した顔をする。自分たちが使ってきた“言葉”と、今悠真が投げつけている“気持ち”は違う。なのに、伝わるためにはやはり言葉の形を借りるしかない。その矛盾ごと、悠真の声は会場を裂いていた。


 悠真の言葉が落ちたあと、体育館の空気はしばらく戻らなかった。誰もすぐには拍手しない。

 賛成もしない。反論もできない。

 ただ、凪紗の周りにいた生徒たちが、自分の中にできていた“分かった気”を初めて疑った顔をした。その小さな揺れだけで十分だった。

 説明では届かなかった場所に、感情が直接触れたのだと、真白には分かった。


 だが同時に、真白は別の恐怖も感じていた。あの言葉は強すぎる。届きすぎる。もし悠真がその気になれば、真白や九条とは別種の中心になれてしまう。だからこそ、悠真本人が誰より苦い顔をしているのが、真白には救いだった。彼は支配したいわけではない。ただ、失いたくなくて叫んだだけだ。その不器用さが、今だけは唯一の救いになる。


 体育館を出たあと、真白はすぐには動けなかった。

 足元の床が、さっきまでより少しだけ柔らかくなったみたいに感じる。

 悠真の声がまだ耳の奥に残っていた。言葉として整っていないはずなのに、言い返せない形で残っている。

 あれは説得ではなかった。正しさの提示でもなかった。ただ、怒りと焦りと、真白をこのまま向こう側へ行かせたくないという気持ちだけが、形も順番も無視して飛んできた。

 その不格好さが、今の真白には何より痛かった。


「……ああいうの、ずるいわよ」

 ようやく絞り出した真白の声に、少し離れた位置で壁にもたれていた悠真が顔を上げる。

「知ってる」

「知ってるで済ませないで」

「済ませてない。済ませたかったら、あんな言い方してない」


 九条は二人の少し後ろで、珍しく口を挟まずに立っていた。いつもならもっと早く、状況の整理か皮肉の一つでも入れるはずなのに、それがない。真白がそちらを見ると、彼はようやく低く言った。

「今のは、ぼくらが普段使っているものと違う」

「分かってる」

 真白はすぐに返した。分かってしまったからこそ苦しい。自分はずっと、どんなに感情があっても、一度言葉に整えてから外へ出してきた。九条も同じだ。だが悠真は、最後にそれを捨てた。捨てたのに届いた。むしろ、捨てたから届いたようにすら見えた。

「言葉じゃない、って顔しないでください」

 悠真が言う。

「ちゃんと、言葉にはしてる。ひどい形だっただけで」

 その言い方が、真白には少しだけ救いだった。気持ちだけなら届かなかった。あれは、悠真の感情が言葉の形を借りたから届いたのだ。だからこそ、怖いのだとも思う。

「でも、あれが正解になるのは嫌」


 真白が言うと、悠真は即座に頷いた。

「ぼくも嫌だ」

「じゃあ、どうするの」

「分からない。分からないけど、あれを『これからも使える武器』にしたら終わる」

 九条はそこで初めて小さく息を吐いた。

「同感だ。再現可能な手法になった瞬間、それはまた別の支配になる」

 言いながら彼は、わずかに視線を伏せた。自分が今まで、再現可能な手法として言葉を扱ってきたことを思い出しているのだと真白には分かった。


 その日の夜、三人は短いメッセージのやり取りだけで終わらせられなかった。

 結局、真白の提案で校舎裏のベンチに集まる。冷えた空気の中、誰も最初の一言を選びきれない。

「ねえ」

 真白が先に口を開く。

「わたし、あそこで止まったの、悠真の言葉が正しかったからじゃない」

「うん」

「正しいかどうかなんて、あの時どうでもよかった。……ただ、痛かった」


 悠真はすぐには返さない。代わりに、足元の砂利を一度だけ靴の先で押した。

「痛くしてでも止めるしかなかった」

「分かってる」

 分かっているから、怒りきれない。分かっているから、真白は余計に混乱した。


 九条は静かに二人を見ていたが、やがて珍しく躊躇いのある口調で言った。

「朝比奈さん。君は、気持ちを伝えるには言葉がいると言った」

「言ったわ」

「たぶん、その通りなんだろう。ぼくはそこを、少し履き違えていたのかもしれない」

 真白は目を瞬いた。九条が自分の言葉の置き方を疑うのは、ほとんど敗北宣言に近い。だが彼は笑わない。

「言葉は道具になる。けれど、道具として使えることと、気持ちが乗ることは別だ。今日、それを見せつけられた」

「珍しく素直ね」

「こういう時にまで強がるほど器用じゃない」

 その返しだけは、少しだけ九条らしかった。


 翌朝、学校にはまだ昨日の余震が残っていた。

 だがそれは、単純な勝敗としてではない。凪紗の側にいた生徒たちが、急に沈黙したのだ。

 反論も擁護もなく、ただ自分の立ち位置を失った顔で席についている。

 真白はその様子を見て、昨日の出来事が終着点ではなく、むしろ始まりに近いことを理解する。止めたあとに何を残すか。言葉を受け取ったあと、人はどう立ち直るのか。その方がずっと難しい。


 昼休み、真白は保健室前の廊下で、凪紗の近くにいた一年生二人と鉢合わせた。二人とも気まずそうに目を逸らす。真白は追いかけるようなことはしない。ただ立ち止まって、「無理に話さなくていい」とだけ言った。その言い方が、昨日までの自分と少し違うことに気づく。前なら、もう一歩先まで整えていただろう。今はそこまで行けない。行かない方がいい気もしている。

 離れた場所からその様子を見ていた悠真が、あとで「それでいい」とだけ言った。珍しく、付け足しのない肯定だった。


 放課後、真白は机の上に開いたままのノートへ短く書いた。

 ――言葉と気持ちは、同じじゃない。

 ――でも、伝えるにはやっぱり言葉がいる。

 書いた字は少し震えていた。答えになっているのかどうかも分からない。

 それでも、昨日までよりは少しだけ前に進んだ気がする。

 終わっていないものはまだ多い。だが三人が見るべき場所は、もうはっきりしていた。倒すことではなく、そのあとに残る人たちをどう支えるか。

 その問いだけが、次の朝へ続いている。


 体育館の外へ出ても、生徒たちはすぐには散らなかった。誰かと誰かが目を合わせ、何かを言いかけてやめる。その逡巡が、さっきまでの会場の空気が本当に揺れた証拠みたいだった。真白は階段の手すりに指をかけたまま、深く息を吸う。まだ胸の奥が痛い。悠真の言葉を受けたからというだけではない。自分がこれまで、どれだけ“伝えるための形”を先に整えてきたかを突きつけられたからだ。


「朝比奈先輩」

 振り返ると、対話サークルに出入りしていた二年の女子が立っていた。凪紗の近くでよく頷いていた子だ。泣いてはいない。けれど、表情の置き場が分からなくなった顔をしている。

「さっきの、どう受け取ればいいのか分からないです」

 真白はすぐに答えられなかった。ここで“こう受け取ればいい”と示した瞬間、また別の結論を押しつけることになる気がしたからだ。沈黙のあと、彼女はゆっくり言う。

「今すぐ受け取らなくていいわよ」

「でも、考えなきゃって」

「考えてもいいし、今日は考えなくてもいい。分からないままでもいいの」

 女子は唇をかんでから、小さく首を振った。

「……そう言われると、ちょっと楽です」

 その言葉に真白は、勝ったとも救えたとも思えなかった。ただ、今日はそれで十分だと自分に言い聞かせるしかなかった。答えを出さないことは逃げではない。そう言い切るためには、これから先、答えのない時間を本当に支えなければならない。


 少し離れたところでは、九条が教員代表と短く話していた。公開対話を一度きりの出来事で終わらせず、フォローの場を設ける必要があること、ただし“反省会”の形にした瞬間に再び本音の強制になること。

 九条は珍しく、結論だけでなくその後の余白まで含めて説明していた。真白はその横顔を見て、彼もまた今夜の出来事で少しだけ手つきが変わったのだと気づく。


 戻ってきた九条は、疲れたように目を伏せたまま言った。

「終わらせ方を間違えると、明日からまた別の中心が生まれる」

「分かってる」

「分かっているなら、今夜のうちに話しておきたい」

「三人で?」

「三人で。たぶん、それ以外だとずれる」

 その言葉に、悠真も黙って頷いた。いつもなら帰ろうとする時間だったが、誰も先に歩き出さない。公開対話の勝敗より、そのあと何を残すかの方がずっと重いと、三人とも同じだけ理解していた。


 校舎裏のベンチに移ってからも、会話はすぐには始まらなかった。

 風が冷たく、体育館から漏れる撤収作業の音が遠い。ようやく口を開いたのは真白だった。

「ねえ。わたしたち、今日たぶん初めて、同じ失敗の仕方を怖がってる」

 九条がわずかに眉を上げる。

「失敗、ね」

「違う?」

「いや。正確だ」

 悠真はその言い方を聞いて、少しだけ苦い顔で笑った。

「二人がそういう会話してる時、やっぱりぼくは入りづらい」

「知ってる」

 真白は即答したあとで、自分の返しが少し冷たかったことに気づいた。だが悠真は気にしない。

「だから、外から見る。外から見て、危ない時だけ止める」

「今日みたいに?」

「できれば二度としたくない」

 その言葉が本音であることは、真白にも九条にもよく分かった。だからこそ、あの激しさを方法に変えてはいけない。三人はその一点だけを、今まででいちばん強く共有していた。


 帰り際、体育館の裏口で、凪紗に近かった一年生の男子が一人だけ残っていた。話しかけるか迷っているのが見て取れる。真白は無理に近づかなかった。すると向こうから、小さな声が届く。

「……先輩たちの言ってること、まだよく分からないです」

「それでいい」

 真白が答えるより先に、悠真が言った。

「今日、分かる必要はない」

 男子は少しだけ目を見開き、それからぎこちなく頷いた。その仕草を見た時、真白はようやく確信する。今日必要だったのは、誰かを言い負かすことではなく、“今すぐ答えを持たなくていい”と許すことだったのだと。

「明日、あの場にいた子たちが何か答えを欲しがってきても、今日みたいな言い方はしないで」

 真白が言うと、悠真は少しだけ間を置いた。

「しない。あれは、もう使わない」

「使うな、じゃなくて?」

「うん。使った時点で、ぼくもそっち側になる」

 その返答に、九条が静かに目を細めた。

「やっと少しだけ、同じ話ができる」

「うれしくない言い方」

「褒め言葉として受け取ってくれなくていい」

 三人の会話は噛み合いきらない。だが噛み合わないまま同じ場所にいようとすること自体が、今夜の小さな前進だった。


 ベンチから立ち上がる前、真白はもう一度だけ悠真を見た。さっき体育館で吐き出された言葉の熱は、まだ彼の声の端に残っているのに、本人はそれをどう扱えばいいのか分からない顔をしている。九条もそれを見ていた。

 利用できるかどうかを測る目ではなく、二度と同じ形で再現させてはいけないものとして見ている目だった。

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