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第3章 第8話 理解しない権利

 対話サークルの影響は学校の外にも広がり始めた。


 交流会で知り合った他校生が見学に来て、同じ仕組みを持ち帰ろうとする。教師たちは成功事例として扱い始める。凪紗は中心に立っているのに、あくまで「みんながそうしたいなら」としか言わない。その曖昧さがますます人を惹きつけた。

 真白は焦っていた。焦るほど言葉が硬くなる。対話の強制は危険だと言えば、それは本音を嫌う人間のように聞こえる。沈黙にも権利があると言えば、今度は向き合う努力を否定しているように聞こえる。どの言葉も、相手の善意に負ける。


 ある日、クラスで「本音確認シート」が配られた。進路、友人関係、家庭の悩み。共有は任意だが、書かない欄が多いと「後で個別に話そう」と担任が言う。善意の制度が、沈黙を逃がさない形になっていた。

「これ、嫌」

 真白が珍しく即答すると、九条はシートを見下ろして言う。

「構造としてはよくできてる」

「褒めてる?」

「褒めてない。壊しにくいと言ってる」

 その返しに、真白は笑う余裕もなかった。


 放課後、悠真は何人かのクラスメイトにそれとなく話を振った。確認シートが負担なら提出方法を変えた方がいい、匿名項目を増やした方がいい、共有前提に見えるのはまずい。表立って反対するのではなく、周囲の口から自然に同じ意見が出るように流れを作る。真白はそれに気づいていた。

「またやった」

「必要だった」

「分かってる」

「怒らないんだ」

「怒る元気がない」

 そう言ってから、真白は小さく付け足した。

「助かったのは本当だし」

 その夜、真白はようやく凪紗と正面から話すことになる。校舎裏の自販機の前、凪紗は缶ココアを両手で持っていた。あまりにも普通の一年生に見えて、余計に怖い。

「あなた、みんなを楽にしてるつもり?」

「してます」

「じゃあ、苦しくなってる子は?」

「考えすぎじゃないですか」

「考えさせてるの、あなただったら?」

「私は考えてみてって言ってるだけです」

「それが一番危ないって分からない?」

 凪紗は不思議そうに瞬いた。

「分からないです。だって、分かる人は分かるから」


 真白はそこで、初めて本気で言葉を失った。通じないのではない。前提がない。だから議論が成立しない。九条が分析で届かず、自分の言葉も刺さらない理由が分かる。相手は最初から“理解しない権利”を自分だけ持っているのだ。相手には考えることを求めるのに、自分は説明責任を背負わない。

 戻る途中、真白は珍しく取り乱した。

「意味が分からない。あんなの、どう扱えばいいの」

 九条も即答しない。

「分からない」

 その一言に、真白はむしろ少しだけ救われた。分からないと認める九条を見て、今の混乱が自分だけのものではないと分かったからだ。

 その後ろで悠真だけが、いつもと同じ速度で歩いていた。

 真白が凪紗と話したことは、すぐに九条と悠真にも共有された。九条は「前提がない相手だ」と言い、悠真は「前提がないんじゃなくて、前提を相手にだけ負わせてる」と言った。その違いが、真白には妙に印象に残った。九条は構造として捉える。悠真は負荷の置き方として見る。どちらも正しい。だが届く場所が違う。


 翌朝、確認シートの提出方法は修正された。記述は任意、未記入でも個別面談に直結しない。悠真が流れを変えた結果だった。教師は「生徒の声を受けて改善した」と言う。誰の声かは明かされない。真白はその匿名性に少しだけ安堵した。悠真は中心に立たなくていい。その方が、今はまだ安全だ。

 だが同時に、凪紗の周囲では逆の物語が生まれていた。学校は“分かり合い”から逃げようとしている、本音を怖がる大人たちが後退した、と。正しい改善が、別の側から見れば後退に見える。そのややこしさに、真白は眩暈すら覚えた。

 放課後、九条はぽつりと言った。

「君が混乱するのも当然だ」

「慰め?」

「事実確認」

「微妙」

「でも必要だろう」

 真白は返事の代わりにため息をついた。必要な言葉ほど、少しだけ腹が立つ。九条のそれはいつもそうだ。


 その日の最後、真白は一人で校舎の端まで歩いた。廊下の窓に映る自分の顔は、以前より少しだけ疲れて見える。言葉を選ぶことに慣れていたはずなのに、今は選んでも届かず、選ばなくても誰かを追い詰める気がした。今まで自分が使ってきたやり方が、今回の相手には通じない。その現実は、焦りと同時に、奇妙な無力感を連れてくる。


 そこへ遅れて、悠真と九条が別々の方向からやって来る。三人とも、同じものを見ていたはずなのに、考えていることは少しずつ違う。九条は構造を見る。誰が中心で、どこに圧が集まり、どの瞬間に人が自分で決めた気になるのかを追う。悠真は外側を見る。言葉にならなかった顔、輪の外で黙った人間、終わったあとに一人で残る側の温度を見ている。真白はその両方を行き来しながら、自分がどこに立つべきなのかを測りかねていた。

「何か言って」

 真白が先に言うと、九条は短く息を吐く。

「まだ足りない」

 悠真は少し遅れて、

「焦ると、相手の欲しい形になる」

 とだけ言った。その二つの言葉は方向が違うのに、妙に同じ重さで真白の中へ残った。足りない。焦るな。どちらも正しい。どちらも今の自分にはきつい。

 それでも、立ち止まってはいられない。今回の問題は、誰か一人を倒せば終わる話ではないからだ。空気は残る。正しさの顔をした圧も残る。だから三人は、毎回少しずつ違うやり方で、同じ場所へ戻ってくるしかない。真白は窓に映る自分を見ながら、小さく息を吐いた。明日もまた、うまくいかないかもしれない。それでも言葉を捨てるわけにはいかない。その不器用さごと抱えて進むしかないのだと、今はまだ納得しきれないまま、理解し始めていた。


 翌日の朝、教室の空気は前日と同じようでいて、少しだけ違っていた。誰かが何かを言いかけてやめる。そのやめ方に、真白は前より敏感になっている。九条なら、その逡巡を“圧の痕跡”と呼ぶかもしれない。悠真なら、何も言わず視線だけ向けるだろう。真白はそこに立ちながら、自分が以前よりずっと多くのものを拾ってしまうようになったことに気づく。拾えることが強さだとは、もう単純には思えない。


 昼休み、三人が短く言葉を交わす場面も増えた。真白が先に苛立ちを見せ、九条が必要以上に整った言い方で返し、悠真がその両方を少しだけ崩す。噛み合っているのかいないのか分からない三人の会話は、けれど今の学校のどこよりも本音に近い気がした。誰も“分かり合えた顔”をしないからだ。分からないまま、それでも話す。それが今の三人にとって、いちばんましな形だった。


 その帰り道、真白はふと考える。もし自分が九条と同じように完全に割り切れたなら、もし悠真みたいに最初から分からないものを分からないと言い切れたなら、少しは楽だったのだろうか。けれど実際の自分は、そのどちらにもなれない。だからこそ、毎回迷いながら言葉を選ぶしかない。迷うこと自体を弱さだと思いたくない、と真白は初めて少しだけ思った。

 そして、まだ終わっていないという感覚だけが、三人に同じ速度で残っていた。誰か一人の正しさに寄りかかれば楽なのに、それを選ばないから苦しい。それでも、その苦しさを省略した瞬間にまた別の誰かを押し潰すのだと、三人とも知ってしまっていた。


「理解しない権利」を巡る議題が校内で表に出たのは、二年のある男子が相談会への参加を拒否し、それをクラスメイトたちが「向き合う気がない」と責めたことがきっかけだった。男子は最後まで理由を言わなかった。言わないまま保健室に逃げ込んだ。教師たちは困り、クラスはざわつき、凪紗のサークル周辺では「言わなくても分かってくれる場に来ればよかったのに」と囁かれた。


 真白は保健室前の椅子に座る男子の隣に腰を下ろした。何かを聞き出すつもりはない。ただ、誰もが“話すか、分かってもらうか”のどちらかを迫る空気の外に、一度だけ一緒に座りたかった。

「先生、呼ぶ?」

 男子は首を振る。

「じゃあ、何もしないでおく」

「それ、助かる」

「役に立たないわね」

「今はその方がいい」

 少ししてから、男子はぽつりと言った。

「分かってもらえないのは嫌だけど、分かろうとして踏み込まれるのはもっと嫌なんです」

 真白はその言葉を、すぐには返せなかった。理解しない権利。今までなら少し理屈っぽく聞こえたかもしれない言葉が、今日は切実に見えた。


 一方で九条は、その件を利用して学校側の方針を揺さぶろうとしていた。教師会議のメモを整理し、対話企画が“参加を断りにくい圧”になっている例を列挙していく。

「ここで学校側に修正させれば、凪紗周辺の求心力も落ちる」

「そううまくいく?」

 真白が問うと、九条は紙をめくりながら答えた。

「落ちるかは分からない。でも、理念の綻びは出せる」

「そのためにあの子を使うの?」

「使うんじゃない。事実を見せる」

「似たようなものよ」

 九条は一瞬だけ手を止めた。

「君は最近、その手の言い方が増えた」

「九条に似てきたって言いたいの?」

「ぼくはそこまで親切じゃない」

 腹が立つ。だが否定もしきれない。言葉を使う側として、今の状況を放置できない。だからこそ、誰かの痛みを“構造を変える材料”にしてしまいそうになる。


 その日の放課後、三人は空き教室で向かい合った。黒板には、九条が書いた「理解」「共有」「沈黙」「強制」という四つの単語が並んでいる。

「ここまではまだ言葉で追える」

 九条が言う。

「追えても、届かない」

 真白が返す。

「届かせる必要があるのかも、もう怪しい」

 悠真が小さく言った。

 二人が彼を見る。

「分かってもらうことが前提になってる限り、今の相手には勝てない」

「じゃあ、どうするの」

 真白が聞く。

 悠真は少しだけ考えてから、黒板の「理解」に一本線を引いた。

「ここを一回外す」

 九条が眉を寄せる。

「理解を外して何が残る」

「線だけ」

「抽象的すぎる」

「抽象でいい。分からない時にまで理解したふりする方がまずい」

 真白はその言葉に、ひどく疲れるような安心を覚えた。理解しなくていい、と言われること自体が今は珍しい。けれどそれは、同時に武器を一つ手放すことでもある。


 保健室前の件は、あっという間に別の形で広がった。〈理解しない権利〉という言い方だけが独り歩きし、「じゃあ分かろうとする方が悪いのか」という反発まで生む。真白は廊下でその会話を耳にして、足を止めた。

「悪いとかじゃないでしょ」

 割って入るつもりはなかったのに、声が出た。

「でも、分かろうとするのを拒否されたら傷つくじゃん」

 二年の女子が言う。

「傷つくわよ」

 真白は頷いた。

「でも、傷つくからって相手の境界まで開けさせる理由にはならない」

「それ、すごく面倒くさい」

「面倒くさいのよ」

 言い切ると、何人かが困ったように笑った。分かりやすい答えを期待した顔だった。今ほしいのは面倒くささの確認じゃない、とたぶん思われている。けれど、分かりやすい結論だけを配る方がもっと危ない。

 その場を離れたあと、九条が言った。

「うまくない」

「知ってる」

「でも必要だった」

「今日は同じことばっかり言うわね」

「同じことを何度も言わないと、今の空気はすぐ整いすぎる」

 その理屈には頷けた。悔しいが、こういう時の九条の感覚は自分に近い。

 ただ、その近さが続くと息苦しい。真白は自分でも分からない苛立ちを抱えたまま、校庭の端まで歩いた。後ろから追いついた悠真が、何も聞かずに缶のお茶を一本渡す。

「今日はそればっかり」

「今日はそれで足りる日」

「分かった顔してる」

「分かってないよ。疲れてる顔してるだけ」

 真白は缶を受け取りながら、少しだけ笑った。理解されるより、見えているだけの方がましな時がある。今はたぶん、そういう時だった。

 保健室前を離れたあと、真白は自分がずっと肩に力を入れていたことに気づいた。理解しない権利、という言葉を認めるだけで、こんなに疲れる。けれど認めなければ、たぶんもっと誰かを追い詰める。


 その程度のことで迷う自分を、今は弱いと思いたくなかった。


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