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第3章 第3話 考えてみてよ

 対話支援週間の二日目、校内には「昨日の一年生の子、すごいらしいよ」という噂が小さく広がっていた。


 名前はまだはっきりしない。どのクラスかも曖昧だ。ただ、「話しやすい」「無理に聞き出さない」「一緒に黙ってくれる」「言わなくても分かってくれる」という評判だけが先に歩いている。

 真白には、それが気味悪かった。話しやすい人間ならいくらでもいる。聞き上手だって珍しくない。なのに、この噂はどこか輪郭を拒んでいる。具体的な内容がないまま、善意だけが残る。そういう評判は、反論しづらい。


 昼休み、真白は職員室前で九条に呼び止められた。

「少し時間ある?」

「いやな言い方」

「あるんだ」

「そうだけど」

 九条は資料ファイルを真白に差し出す。中には、ここ数日で増えた相談会の参加者一覧と、自由記述欄を抜き出したメモが入っていた。どれも似た言い回しが多い。

 〈無理に言わなくていいと言ってくれた〉

 〈言葉にできないことも分かってくれた〉

 〈考えたら、自分でも答えは分かっていた気がする〉

「同じ文章みたい」

「そこが気になる」

「誘導してるってこと?」

「逆だよ。誘導してる形が見えない」

「それが最悪なの」

「そう」

 九条は淡々と頷く。

「言葉で導く場合は、どこかで痕跡が残る。言い回し、順番、選択肢、沈黙の置き方。でも今回は、受け取った側が“自分で気づいた”と言い切る」

「それ、真白の時にもたまに起きる」

 いつの間にか横に来ていた悠真が、平板な声で言った。

 真白はむっとして振り返る。

「たまにって何よ」

「今そこに食いつく?」

「食いつくでしょう普通」

「今は、その“たまに”よりさらに厄介って話」

「……分かってるわよ」

 悠真はそれ以上言わなかった。責めているのではなく、単に比較として置いただけだと分かる。その分だけ腹が立つ。真白はファイルを閉じ、深く息を吐いた。


 午後、対話支援週間の小企画として「気づきのペアワーク」が行われた。普段あまり話さない生徒同士で組み、相手の長所や気づいたことを伝え合うだけの簡単なものだ。だが教室に入った瞬間、真白は異様な静けさに気づいた。和やかではない。みんな、間違えないように本音を探している顔をしている。

「じゃあ、まずは“最近気づいた相手の変化”から」

 進行役の声に従って会話が始まる。しかし数分もすると、あちこちで困った笑いが生まれた。気づいていないと言いづらい。薄い言葉を口にすると、それが本音ではない気がする。正しい対話の場は、間違った沈黙を生みやすい。


 真白の相手になった女子は、何か言おうとして何度も口を閉じた。真白は待った。こういう時、変に助け舟を出すと余計に相手を追い込む。だが沈黙が長くなると、周りの視線が集まり始める。

「……別に、無理して言わなくていいわよ」

 真白はできるだけ軽く言った。

 女子ははっとしたように顔を上げた。

「ごめん。なんか、ちゃんとしたこと言わなきゃって思って」

「ちゃんとしてなくても、嘘じゃなければ十分でしょう」

「そうかな」

「少なくとも、今ここで黙るよりは楽になると思う」

「……朝比奈さん、そういうところ、ちょっと怖いけど助かる」

「褒めてないわよね、それ」

「半分は」

 周囲にも少しずつ会話が戻る。だが同時に、別の場所では違う現象が起きていた。例の一年生の周りに集まった生徒たちが、ワークの途中なのに自然にそちらへ流れていくのだ。注意するほど露骨ではない。けれど中心がずれていく。


 真白は休み時間に、その一年生を追いかけた。廊下の突き当たり、渡り廊下の窓際で見つける。陽が差す場所で、彼女は数人に囲まれていた。笑っているのに、声は小さい。聞き取れたのは、ほんの一言だけだった。

「考えてみてよ」

 それだけだった。なのに周りの生徒は、答えをもらったみたいな顔をしている。

「あなた、さっき何を言ったの」

 真白が声をかけると、一年生は少し首を傾げた。

「何って?」

「今の子たちに」

「別に。考えてみて、って」

「それだけ?」

「うん。あとは、その子たちが考えたことだから」

 あまりにも自然に言うので、真白は言葉を失う。嘘をついている感じはない。本当に、そう思っている目だ。背後から九条が近づいてきて、興味を隠さない声音で尋ねた。

「名前、聞いてもいい?」

「篠原凪紗です」

「凪紗さん。君は、相手の答えを先に知ってるわけじゃないんだ」

「知らないです」

「でも、考えれば辿り着くと思ってる」

「だって、みんな分かってますから」

 その一言で、真白の背筋に冷たいものが走った。分かっている。だから言わなくていい。だから自分で考えればいい。そこには責任がほとんどない。なのに、受け取る側は勝手に自分を追い込める。

「それ、押しつけにならない?」

 真白が問うと、凪紗は困ったように笑った。

「押しつけるなら、もっと言います」

「……」

「言わないから、自由ですよね?」

 その理屈はどこかで破綻している。だが、すぐに言い返せない。九条でさえ一瞬黙った。


 結局、凪紗は何も説明しないまま去った。取り残された真白は、しばらく言葉を失っていた。九条が珍しく先に沈黙を破る。

「面白い」

「最低」

「分析対象として」

「その言い換えが最低」

「でも、君も困ってる」

「……それはそうよ」

 放課後、真白は中庭のベンチで悠真に話した。凪紗のこと。言葉を使っていないみたいなのに、人の中に答えだけを残していく感じのこと。真白が言葉を探している間、悠真は何度も相槌を打たなかった。

「たぶん、ぼくには最初から分からなかった」

 やがて彼はそう言った。

「どういう意味」

「理解しようとしてないから」

「それでいいの?」

「いいかどうかじゃなくて、ああいうのって、分かろうとした時点で向こうの土俵に上がる」


 真白は黙る。九条なら絶対に言わない種類の言葉だった。九条は理解して、構造を掴んで、使えるところを探す。真白も、分からないままではいられない。だが悠真だけが、そこで立ち止まる。

「じゃあ、どうするの」

「まだ分からない」

「……それ、今いちばん聞きたくない」

「知ってる」


 夕暮れの中庭に、吹奏楽部の練習音が遠く流れてくる。校舎の窓が茜色に光っていた。真白は膝の上で指を組み、ゆっくりほどいた。

 分からないものを、分からないと言うこと。そんな当たり前のことが、今の学校では少しだけ言いにくい。みんなが本音と理解を信じ始めているからこそ、分からなさは後ろめたくなる。

 その夜、連携企画のグループチャットには、凪紗の名前こそ出ないものの、彼女を思わせるメッセージが並んでいた。

 〈昨日よりちょっと楽になった〉

 〈ちゃんと話さなくても分かってくれる人がいる〉

 〈ああいう人が中心にいてくれたらいいのに〉

 真白は画面を閉じた。言葉にしていないのに、言葉以上に強く広がっていくものがある。その事実を認めるのが、少し怖かった。


 翌日の朝、教室の空気は前日と同じようでいて、少しだけ違っていた。誰かが何かを言いかけてやめる。そのやめ方に、真白は前より敏感になっている。九条なら、その逡巡を“圧の痕跡”と呼ぶかもしれない。悠真なら、何も言わず視線だけ向けるだろう。真白はそこに立ちながら、自分が以前よりずっと多くのものを拾ってしまうようになったことに気づく。拾えることが強さだとは、もう単純には思えない。


 昼休み、三人が短く言葉を交わす場面も増えた。真白が先に苛立ちを見せ、九条が必要以上に整った言い方で返し、悠真がその両方を少しだけ崩す。噛み合っているのかいないのか分からない三人の会話は、けれど今の学校のどこよりも本音に近い気がした。誰も“分かり合えた顔”をしないからだ。分からないまま、それでも話す。それが今の三人にとって、いちばんましな形だった。


 その帰り道、真白はふと考える。もし自分が九条と同じように完全に割り切れたなら、もし悠真みたいに最初から分からないものを分からないと言い切れたなら、少しは楽だったのだろうか。けれど実際の自分は、そのどちらにもなれない。だからこそ、毎回迷いながら言葉を選ぶしかない。迷うこと自体を弱さだと思いたくない、と真白は初めて少しだけ思った。


 中庭で悠真と別れたあと、真白はそのまま職員室へ向かった。ペアワークの感想用紙を提出するためだったが、実際には少し頭を冷やしたかった。廊下の途中で、凪紗の周りにいた一年生の一人とすれ違う。彼女は真白を見ると、ほんの少しだけ会釈した。


「さっきの子たち、あなたの友達?」

 真白が聞くと、彼女は首を振った。

「友達っていうか、話しやすい人、です」

「話しやすいだけで、あそこまで集まるの」

「集まるっていうか……いると安心するんです」

「何が安心なの」

 少女は考えるように視線を落とした。

「喋らなくても、分かったことにしてくれるから」

 その答えに、真白はぞっとした。分かってくれる、ではない。分かったことにしてくれる。そこにあるのは救いより先に、免除だ。自分で言葉にしなくていいという免除。けれどそれは、同時に相手へ答えを預けることでもある。


 職員室前の長椅子に座っていると、九条が後から来た。

「顔が悪い」

「失礼ね」

「言い直す。考えすぎてる顔」

「似たようなものよ」

 真白はさっきの一年生の言葉を伝えた。九条は少しだけ目を細める。

「それは厄介だ」

「分かる?」

「分かるというか、構造が見える。言葉にしなくていい代わりに、判断まで手放してる」

「そんな言い方したら、あの子たちには通じない」

「通じなくても正しい」

「その“正しい”がもう危ないの」


 九条は珍しく、すぐには返さなかった。代わりに廊下の先を見たまま言う。

「朝比奈さん、君は相手の中に残る形で言葉を置く。ぼくは相手の思考の逃げ道を計る。凪紗はもっと前の段階を握ってる」

「前の段階?」

「考える前の安心感」

 その表現は、真白にも妙にしっくりきた。だからこそ嫌だった。言葉にしないで安心だけを渡す。そんなものが武器になるなら、自分たちのやってきたことは何だったのかとさえ思う。


 その夜、真白は自室でノートを開き、凪紗の言葉をいくつも書き出した。

 考えてみてよ。

 言わなくても分かるよね。

 たぶん分かってると思う。

 無理に言わなくていい。


 どれも短い。短いのに、相手の中に長く残る。真白はペンを置き、机に突っ伏した。自分だって、相手が自分で決めたと思える場所まで言葉を運んできた。けれど少なくとも、そこには言葉の形が残っていた。今相手にしているものは、その形さえ曖昧だ。曖昧だから責めにくいし、曖昧だから誰の中でも増殖する。


 ベッドに入る前、悠真から一通だけメッセージが来た。

 〈考えたら分かる、って言い方、たぶん逃げ道みたいに見えてるんだと思う〉

 真白は返信しようとして止まった。逃げ道。たしかにそうだ。けれどその逃げ道は、誰かの手を引いて外へ出すためではなく、同じ場所に留まらせるためのものかもしれない。そう思った時、真白はようやく、自分が凪紗を怖がっているのだと認めざるを得なかった。


 翌朝のホームルームで、担任は「昨日のペアワーク、概ね良い反応でした」と嬉しそうに言った。真白はその“概ね”の中に、言えなかった人たちがきれいに沈められている気がして、少しだけ目を伏せた。

 教室が解散しかけた時、昨日の相手だった女子が机の横に来る。

「昨日、ありがとう」

「何に」

「無理して言わなくていいってやつ」

「別に。普通でしょ」

「普通じゃないよ。ああいう場って、だいたい“頑張ってみよう”って言われるから」

 真白は返事に詰まった。励ましが悪いわけではない。けれど励ましの形をした強制はたしかにある。

「……そう」

「朝比奈さんって、押してこないから話しやすい」

 またそれだ、と真白は思う。押していないつもりなのに、結果だけ見ると人は進んでいる。だから褒められても素直に受け取れない。

 そこへ悠真が通りかかり、女子に軽く会釈した。

「朝比奈の前で“話しやすい”って言うと、あとで本人が気にするからやめた方がいい」

「言わないでよ!」

 女子はきょとんとして、それから吹き出した。真白はむっとしたまま、少しだけ助かった気分になる。


 重くなりかけた空気を、悠真はこういう時だけ妙に雑に壊す。


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