表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

婚約破棄された筋肉令嬢、王城を半壊させる

作者: 江合 花果
掲載日:2026/03/25

 王国暦四百十二年、晩春。


 王立学園の卒業パーティーが、今夜幕を開けようとしていた。


 ホールには貴族の子弟たちが華やかに集い、魔法仕掛けの照明がシャンデリアを七色に輝かせている。楽団の演奏が優雅に響き、給仕たちが銀のトレイを粛々と運ぶ。


 誰もが知っていた。


 今夜、「あれ」が起きる。


 王太子レオンハルト・フォン・ヴィルトシュタイン殿下が、婚約者であるアンジェリカ・フォン・ゾンネンブルグ侯爵令嬢に婚約破棄を言い渡す、と。


 ホールの隅では貴族子女たちがひそひそ囁き合っている。


「かわいそうに、アンジェリカ様……でも、あの方は確かに横暴でしたわ」


「マリア様のことを随分とひどくいじめたとか。階段から突き落としたり、泥水を飲ませたり……」


「殿下も男爵令嬢のマリア様に惚れてしまったのでしょう。アンジェリカ様は今夜、学園を追われる身に……」


 しかし、だ。


 それらの囁きはすべて、今夜のうちに盛大に覆されることになる。


 なぜなら、彼女たちはまだ知らなかった。


 アンジェリカ・フォン・ゾンネンブルグという女の、本当の姿を。


-----


 午後八時きっかりに、ホールの扉が開いた。


 現れたのは、息を呑むほどの美少女だった。


 流れるような白金の髪。吸い込まれそうな深いアメジストの瞳。白磁の肌に映える、薄紅のドレス。背は細く、腰は細く、一歩ごとに揺れる裾が絵画のように美しい。


 その歩みは優雅だった。足音ひとつ立てず、ガラス細工のように繊細に、まるで床を踏んでいないかのように滑らかに——本当に、滑らかすぎるほどに——静かに歩いてくる。


 招待客たちは誰もが目を奪われ、息を止めた。


 これが、侯爵令嬢か。


 これが、貴族の鑑か。


 アンジェリカはホールの中央で足を止め、完璧な微笑みを浮かべた。


-----


 舞台は整った、とばかりに、王太子レオンハルトが進み出た。


 金髪碧眼、端正な顔立ち、鍛え抜かれた長身。まさに絵に描いたような王子である。今夜のために誂えた礼装に身を包み、その右隣には小動物めいた愛らしさのマリア・シュプリングフェルト男爵令嬢が、今にも泣きそうな顔でひっついていた。


「アンジェリカ・フォン・ゾンネンブルグ」


 レオンハルトはよく通る声で呼びかけた。渾身の低音だった。


「今夜、この場をもって、我らの婚約を破棄する」


 ホールが静まり返った。


 マリアがすすり泣いた。


 貴族子女たちが固唾を呑んだ。


 そしてアンジェリカは——


「……ほう」


 にこり、と笑った。


 その笑みに、レオンハルトはなぜか背筋に悪寒が走ったが、続けた。続けなければならない。


「マリア嬢への数々の非道な行い、余は決して許さぬ。貴様のような悪辣な女に、王妃の座は似合わぬ!」


「……」


「貴様は今夜この場で、貴族社会から永久に追放される身となった!」


 完璧な決め台詞だった。


 マリアが「やっと言ってくれた……」と感涙した。


 アンジェリカは——


「なるほど、なるほど」


 ゆっくり首を縦に振りながら、レオンハルトをじっと見ていた。


 そして。


「……殿下、よろしければ聞かせてください」


「な、なんだ」


「今の言葉、腹の底から出ていましたわよね」


「……は?」


「腹式呼吸が完璧でした。横隔膜の使い方が実に理想的。これはもしや、腹筋を毎日鍛えていらっしゃる?」


「……」


「返事をなさい。腹筋は何回ですか。百回では足りませんわよ。私は毎朝五百回を最低ラインとしておりますが、殿下はおいくつ?」


 沈黙。


 長い、長い沈黙。


「……は?」


 レオンハルトが出せた言葉は、それだけだった。


-----


「ちょっと待て」


 レオンハルトが片手を上げた。周囲が「え、何が始まるの」という顔になった。


「今、俺は婚約破棄を言い渡した。お前に追放を言い渡した。なぜ腹筋の話になっている」


「ああ、婚約破棄の件ですわね」


 アンジェリカは扇で口元を隠しながら、ふふ、と笑った。


「いいでしょう。受けて立ちます」


「受けて……え、何を?」


「勝負ですわ、殿下」


「は?」


「半年前から殿下が私の後ろで何をなさっていたか、よくわかっております。マリア様と逢引きしながら、私への精神的揺さぶりを狙う——いわゆるトラッシュトーク、というやつですわね。なかなかのメンタル攻撃でした」


「……いや、俺は本当に浮気を……」


「そのマリアとかいう方も連れてきてくださって、ありがとうございます。共に戦う気概ということでしょうか」


「戦う……? 違う、彼女は——」


「参りましょうか、殿下」


 アンジェリカはにっこり笑って、薄紅のドレスの裾を少しつまんだ。


 その瞬間。


 ぶちっ、という音がした。


 ドレスの背中部分のボタンが数個、高速で吹き飛んだ。


「あら」


 彼女はちらりと背中に目をやって、「呼吸しただけで飛びましたわ。少し肩が発達しすぎましたかしら」と呟いた。


 マリアが「ひっ」と一歩下がった。


-----


「え……えっと」


 近くにいた侍女の一人が、おそるおそる囁いた。


「……アンジェリカ様のドレス、破れた部分から見えているのは……何ですか」


「……なんか、すごく、硬そうな何かが……」


「肩……? あんな肩、人間にありますか?」


 アンジェリカはドレスの胸元に手を差し込み、するすると何かを取り出した。


 鉄の板だった。


 薄さ一センチ、縦横三十センチほどの、明らかに人が服に仕込んで持ち歩くものではない鉄板が、ぽんぽんと次々と床に積み上げられていく。


「……」


 レオンハルトが目を瞬かせた。


「なんで服に鉄板が入っているんだ」


「ドレスに決まっているではありませんか」


「ドレスに鉄板は入らない!」


「体幹トレーニングですわ。上半身だけで三十キロ。下半身は少し少なめで二十キロ。移動の際に筋肉への負荷を絶やさないための工夫です」


「……お前は今、五十キロの錘を身にまとってパーティーに来ていたのか」


「これでも今日は軽くしてきましたのよ。婚約破棄という大事な場ですから、動きやすさを優先しました」


「…………」


「殿下、顔色が優れませんわよ。プロテインを摂取されますか?」


「いらん!!」


-----


 鉄板を全て取り除いたアンジェリカは、うんと背を伸ばした。


 ホールにいた全員が息を呑んだ。


 ドレスを着ていることに変わりはない。華奢に見えることにも変わりはない。しかし何かが、何かが根本的に違った。重力の中心がそこにある、とでも言うような、なにか圧倒的な「質量」がその小さな体に凝縮されている。


「さあ、殿下。始めましょうか」


「待て待て待て」


 レオンハルトが両手を上げた。完全に守りの体勢だった。


「お前は今、何を始めようとしている」


「勝負、と先ほど申し上げましたわ」


「俺は婚約破棄を言い渡した。勝負じゃない。これは断罪だ」


「ダンザイ……」


 アンジェリカは小首を傾げた。


「それはどういったスポーツですか?」


「スポーツじゃない!!」


「格闘技ですか?」


「だから違う!!」


 レオンハルトが声を荒らげた。ホールに集った招待客たちが固まったまま動かない。誰も止められなかった。止める方法が誰にもわからなかった。


「婚約破棄というのはだな」レオンハルトは奥歯を噛んだ。「婚約を、一方的に、解消する、宣告だ。お前はこれで、俺との婚約を失い、社交界の地位を失い、王妃になる資格を失う。それだけだ。勝ち負けは、ない」


「なるほど」


 アンジェリカはゆっくり頷いた。


「つまり、私は負け、でよろしいですか」


「……まあ、そういうことだ」


「面白い」


「何が面白いんだ!!」


「敗北を認めることで、より深い鍛錬が始まる。禅の世界に近いものを感じますわ。殿下は瞑想もなさいますか? 私は毎朝四時に一時間、倒立瞑想をしておりますが」


「倒立瞑想……」


「逆さになると、脳への血流が増しますのよ。集中力が高まりますわ」


「…………」


「毎朝四時に倒立していたのか、お前は」


「睡眠は三時間で十分ですわ。人間は睡眠中に筋肉を消費するグリコーゲン分解が起きますから、長く寝すぎるのはカタボリック的観点からよろしくない」


「カタボリック……」


「ご存知ない言葉ですか? 簡単に申し上げますと——」


「いい!! 説明はいい!! そんな話をしに来たんじゃない!!」


-----


 レオンハルトは深呼吸をした。胃がじりじり痛む。もう始まってから十分も経っていないのに、胃薬が欲しかった。


 落ち着け。落ち着くんだ。


「アンジェリカ。マリアへの所業について、お前は弁明する気があるか」


「マリア様の件ですね」


 アンジェリカはちらりと、レオンハルトの隣で縮こまるマリアを見た。


「ぽ……ぽけっ……」


 マリアが小声で何かを言って、そのまま後ずさった。目が完全に死んでいた。


「マリア嬢はお前から多くの被害を受けたと訴えている。階段から突き落とされた。泥水を飲まされた。暗室に閉じ込められた。これらについて、言いたいことはあるか」


「あら、覚えていますわよ、全部」


 アンジェリカは涼しい顔で言った。


「順番にご説明しましょうか」


「ぜひ、してくれ」


「まず階段の件。あれは私が悪うございました。千尋の谷のトレーニングは、入門者に事前説明なく行うべきではありませんでした。猛省しております」


「……千尋の谷のトレーニング?」


「筋力が低い者は、高所から落とすことで体の使い方を無意識に学びます。落ちながら体幹を使う。これは最古の鍛練法のひとつですわ」


「お前は本当に——」


「ただし三段程度の階段では効果が薄うございます。それが反省点ですわ。せめて十段は必要でした」


「そっちかよ!!」


「次に泥水の件」


「聞いてるか俺の言葉を!!」


「泥水ではありません」アンジェリカはきっぱり言った。「特製オーガニック・プロテインです。大豆と卵白をベースに、亜麻仁油と黒糖で仕上げた渾身の一杯ですわ。あのレシピは一年かけて完成させました」


「……それが泥みたいな味だったんじゃないのか」


「大豆の野性味ですわ。飲み慣れれば美味しゅうございます。マリア様は筋肉量が深刻に少なかったもので、バルクアップをお勧めしたのですが——ご理解いただけなかったのは残念でした」


「バルクアップ……」


「あと暗室の件は、目を休めるためのアイマスクを提供しようとしただけです。少し部屋の外から鍵がかかってしまいましたが、あれは誤作動ですわ。建付けが悪い扉でした」


「外から鍵がかかる扉を暗室と呼ぶんだよ!!」


-----


 ここでマリアが、ぎゅ、と拳を握った。


 今まで怯えてばかりいた彼女の目に、じわじわと感情が戻ってくる。それは怒りだった。レオンハルトへの愛が、自分を守ってほしいという気持ちが、今夜ここまで来た勇気が、全部まとまってアンジェリカへの怒りになった。


 マリアは一歩前に出た。


「……言わせてもらいます」


「おや、マリア様」


「あなたは……あなたは私が憎かったのでしょう! だから、だからあんな……!」


「どうして憎むのですか」


「レオンハルト殿下が——殿下が、私のそばにいてくださっているから!!」


 マリアは震える声で、それでも精一杯、言い切った。


「殿下は私を選んでくださいました。私に夢中になってくださいました。あなたの婚約者なのに! だから……だからあなたは私を——」


「なるほど」


 アンジェリカは静かに頷いた。


 マリアは続けた。ここまで言ったら引き下がれない。


「殿下のそばにいるのは……これからもずっと、私ですから! ごめんなさいね、アンジェリカ様!」


 ホールがしんとなった。


 マリアは高揚していた。言えた、と思った。勝った、と思った。


 アンジェリカはしばらく、じっとマリアを見ていた。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「マリア様は」


「……な、なんですか」


「殿下のおそばに常時控えるお積もりですか」


「え……は、はい。これからは堂々と——」


「それは大変ですわね」


「……え?」


 アンジェリカは本当に心配そうな顔をした。


「殿下は王太子ですから、公務、行幸、儀礼、警護の同行、有事には陣頭指揮……おそばに立つのであれば、相当の体力が必要ですわ。王妃というのは激務ですのよ。マリア様の大腿四頭筋では、三日で倒れますわ」


「……」


「計測したわけではありませんが、見た目から推測するに、マリア様の筋肉量は王国成人女性の平均を著しく下回っています。あれだけ殿下のおそばにいながら、どうしてあんなにカタボリックな状態に……」


「筋肉の話をしているんじゃないです!!」


「筋肉の話をしています」


「私は殿下への気持ちを——!」


「気持ちだけでは体は動きません」


 アンジェリカはすたすたとマリアに近づいた。マリアが反射的に後退る。


「ご心配なく。簡単な確認ですわ」


 そう言うと、人差し指一本でマリアの上腕をつつく。


「……」


 アンジェリカの表情が曇った。


「やはり。深刻ですわ」


「何が深刻なんですか!!」


「筋繊維がほとんど感じられません。これでは殿下が万が一つまずいたとき、支えることすらできませんわ。王太子のおそばに立つなら、最低限——」


「殿下は私が支えなくていいんです!! 殿下は強いんです!!」


「殿下も腸腰筋が不十分ですが」


「殿下を巻き込まないでください!!」


 レオンハルトが「俺まで言われてるのか……」と遠い目をしながら胃を押さえた。


「マリア様」


 アンジェリカは真剣な顔で言った。


「私があなたにプロテインを勧め、体幹トレーニングをお教えし、千尋の谷を経験させた理由が、今おわかりですか」


「……い、嫌がらせ、では……?」


「違います」


「意地悪、では……?」


「違います」


「では……」


「あなたが殿下のそばに立つと言うなら」アンジェリカはきっぱり言った。「それに見合う体を作りなさい、ということですわ。未来の王妃がカタボリックでは、国の恥です。私はあなたの健康を心配していたのですよ、マリア様」


 沈黙。


「……それ、本気で言ってますか」


「いつでも本気ですわ」


 マリアはしばらく固まって、それから静かに言った。


「……最悪です」


「筋肉のない者が『最悪』を口にするのは説得力に欠けますわ」


「あああああ!!!」


-----


「話を戻す!!」


 レオンハルトが額に手を当てながら割り込んだ。頭が痛い。胃も痛い。なのにまだ三十分しか経っていない。


「アンジェリカ。お前は婚約破棄を受け入れるんだな?」


「先ほど受けて立つと申し上げましたわ」


「じゃあ——」


「ただし」


 アンジェリカが人差し指を立てた。


「一点だけ、申し上げてよろしいですか」


「……なんだ」


「殿下は、魔法によって私を追い詰めようとなさっていましたね」


「……え?」


「先月は王城の幻術師を用いて、私への監視を試みていた。今夜の照明の魔法仕掛けも、私の心理を揺さぶるために設計されているとお見受けしました」


 レオンハルトが固まった。


 確かに、やっていた。完璧に看破されていた。


「どこで……どこでそれを」


「やはりそうでしたのね」アンジェリカは満足そうに頷いた。「殿下も魔法に頼りましたか。残念です」


「残念……」


「申し上げますわ、殿下。この世界で最も人々を惑わせているのは、何だと思われますか?」


「……なんだ」


「魔法、という名の錯覚ですわ」


 ホールが静まった。


「火炎魔法というものは、空気中の摩擦熱を触媒として増幅しているだけです。氷魔法は蒸散熱の操作。幻術は視神経への干渉。これらはすべて物理現象の延長線上にあり、要するに」


「……」


「筋肉で理解できます」


「絶対にできない!!」


「大腿四頭筋を十分に発達させた者は、走ることで火炎魔法を超えた熱量を生み出せますわ。広背筋を極めれば、氷魔法より速く水面を移動できます。三角筋を鍛えれば、幻術師より人の目を惑わせる動きができる」


「それは魔法じゃなくて普通に化け物だ!!」


「物理です」


「お前の言う物理は普通じゃない!!」


-----


 ちょうどその時、王城の上位魔法師が前に出た。今夜の断罪の保険として、レオンハルトが念のため配置していた男だった。


「失礼いたします、殿下。アンジェリカ令嬢が話し合いに応じないようであれば、強制的に令嬢の行動を制限する——」


「その必要はありませんわ」


 アンジェリカが振り向いた。


「あなたが今、詠唱しようとした拘束魔法ですね。魔法陣を起動させる前に終わらせます」


「な……なにを言っている」


「魔法陣というのはただの落書きです。床に描かれた線に力などありません。力があるとすれば、それを信じる人間の集中力という名の筋肉だけですわ」


「な、なにを——」


「証明してみせましょうか」


 アンジェリカはかかとを持ち上げ、つま先立ちになった。


 そして、ゆっくりと——


ドン。


 かかとを床に落とした。


 ただそれだけで、ホールの床に描かれていた起動前の魔法陣が、蜘蛛の巣状にひびわれた。


 魔法師が「……え」と言って固まった。


「石の構造を理解すれば、どこに力を加えれば伝播するかわかります。足先の一点から、均等に振動を拡散させましたわ。魔法陣は線の集合体ですから、基部から断ち切れば起動しません」


「……」


「物理です」


「全然物理じゃない!!」レオンハルトが叫んだ。「いや、物理ではあるかもしれないが人間にできることじゃない!! なんで床のどこが薄いかわかるんだ!! なんでかかとの一点でそんな力が出るんだ!! お前は今何キロの力を出した!!」


「三百キロ前後ですわ」


「人間じゃない!!」


「失礼な。私は正真正銘の人間ですわ。ただ、鍛えているというだけで」


-----


 レオンハルトは奥歯を噛んだ。


 まずい。このままでは埒が明かない。


 いや、そもそも「埒が明く」状態がこの女に存在するのかという根本的な疑問があるが、とにかく、もう少し圧力が必要だ。


「近衛隊!」


 ホールの四隅に立っていた近衛騎士たちが一斉に動いた。精鋭四名。王家の魔法を付与された特別装備で、盾を構えてアンジェリカを囲む。


 そして近衛隊長が呪文を唱えた。


 ぶわ、と光が広がった。


 アンジェリカを中心に、半径三メートルほどの球形の「結界」が展開される。王家の魔法師が調整した拘束結界——通常、人間はおろか並みの魔獣も閉じ込める、最高位の防御術式だ。


「……ほう」


 アンジェリカは結界の内側から、光の膜をじっと見た。


「きれいな落書きですわね」


「結界だ!! 落書きではない!!」


「触れてみましょう」


「やめろ!!」


 アンジェリカは結界に向かって、ゆっくりと右手を伸ばした。


 指先が光の膜に触れた。


 ぴりっ、と術式が反応する。通常なら人間の腕を弾き返す程度の力はある。


「……ふむ」


 アンジェリカは興味深そうに首を傾けた。


「少し抵抗がありますわね。面白い」


「そうだろう!! それが魔法の力だ!! お前にはわからないかもしれないが——」


「でも」


 アンジェリカは五本の指を結界の光の膜に食い込ませた。


 ずぼ、という音がした。


「……え?」


 近衛隊長が目を疑った。


 アンジェリカの指が、結界の「中」に入っていた。


 入っていた。


「少し隙間が見えましたので、そこから」


「結界に隙間なんてない!!」


「ありますわよ。術式の編み目の部分ですわ。魔法陣の線と線の間には、物理的には必ず微小な空白がある。そこに指を合わせれば——」


「合わせれば、じゃない!! その空白はミリ以下のサイズだ!! どうやって指を合わせた!!」


「指先の感覚を研ぎ澄ませれば——」


「人間の感覚でミリ以下を知覚できない!!」


「できますわ。毎日目を瞑って針の穴に糸を通す練習をすれば、三ヶ月で誰でも」


「そんな練習をする人間は存在しない!!」


 アンジェリカは結界の中に差し込んだ手を、そのまま引いた。


 ずず、ずず、と光の膜が引っ張られた。


「ちょっ——」


「少し固いですわね」


 ずず、ずず、ずず。


 近衛隊長が「ありえない」と震える声で言った。


 結界が——伸びていた。


 伸びていた。


 収縮するはずの術式が、アンジェリカの右手に引っ張られて、まるで餅のように延びていた。


「止まれ、止まれ、止まれ!!」


「あと少し」


「止まれと言っている!!」


 ずぽん。


 結界が外れた。


 光の膜が四方に散って消えた。


 アンジェリカは右手に、ぐしゃっとした光の塊を持っていた。


 手の中で結界の残滓がじりじりと消えていく。


「……」


 近衛隊長が膝をついた。精神的に。


「……拘束結界が……手で……」


「物理ですわ」


「物理じゃない!!」


「引っ張れば外れるものは、物理的に外れますわ。魔法だからといって特別視しすぎではありませんか?」


「特別なんだ!! 魔法は特別なんだ!!」


「まあ、少し固かったのは認めます」


 アンジェリカは右手をぱんぱんと払って、扇を取り出した。


 優雅に、いつも通りに。


「殿下、他に手はおありですか?」


-----


 レオンハルトは限界だった。


 胃が痛い。頭が痛い。プライドも痛い。近衛隊長は今も膝をついたまま立ち上がれていない。


 こうなったら——最終手段だ。


 彼はマリアを見た。


 マリアは、もうずっと限界だった。


 今夜ここへ来てから、マリアはずっと怖かった。


 結界を手で引き剥がす女が怖かった。床に蜘蛛の巣のひびを入れた女が怖かった。鉄板を五十キロ分ドレスに仕込んでいた女が怖かった。プロテインが怖かった。大腿四頭筋という言葉が怖かった。千尋の谷が怖かった。


 そしてなにより。


 あの女がいつでも、どこまでも、にこにこと笑っていることが、一番怖かった。


 レオンハルトの目配せに、マリアは震えながら頷いた。


 もうこれしかない。


 彼女は光属性の癒し系魔法の使い手だ。普段は傷を癒したり、精神を落ち着けたりするために使っている。攻撃魔法などというものは、彼女の優しい性格にはそぐわない。でも——


 でも、もう終わりにしたかった。


 マリアは両手を前に伸ばした。


 恐怖が魔力に変わっていく。癒しの力を、全部、根こそぎ逆向きに絞り込む。普段は傷を塞ぐために使う光が、全部、一点に向かって圧縮されていく。


「う……」


 ホールが光り始めた。


 白く、純粋な、しかし圧倒的な光。ホールにいた全員が目を細めた。


「ひかり……」


「あれは……聖属性の……」


「最高位魔法……神殿でも滅多に……」


 マリアの両手の間で、光が球になった。


「う……うう……」


 マリアの目に涙が滲んでいた。怖いのか怒りなのか、もう自分でもわからなかった。ただ、終わりにしたくて——この夜を終わりにしたくて——


「うわあああああああ!!!!!!」


 マリアは目を閉じたまま、全力で押し出した。


 ど ん。


 ホールが消えた。


 白以外の色が全部、なくなった。


 轟音。衝撃波。熱。シャンデリアが揺れ、窓ガラスが震え、給仕が持っていたトレイが吹き飛び、ホール後方に立っていた楽団員が総崩れになった。誰もが顔を腕で覆って、床に伏せた。


 光が、鳴り止んだ。


 全員がゆっくりと顔を上げた。


 そこに——


 アンジェリカが、いた。


 右手を前に突き出したまま。


 光の奔流を、右手の平、一枚で、受け止めていた。


 全部。


 一滴も余すことなく、全部、その手の平に集約されて、じりじりと消えていった。


「……」


 ホールが、完全に静まり返った。


 誰も何も言えなかった。


 アンジェリカは右手を見下ろした。


 白い絹の手袋が、綺麗な円形に焼け焦げていた。その下、素肌が赤く、じわじわと熱を持っていた。


 アンジェリカは焦げた手袋を、ゆっくりと外した。


 右手の平を、じっと見た。


 笑っていなかった。


 今夜はじめて、アンジェリカが笑っていなかった。


「……今のは、痛かったですわ」


 静かな声だった。


 ホールが、水を打ったように静まり返った。


 アンジェリカはその赤い右手を、ゆっくりと握り、開いた。


「痛かった……」


 そして振り返った。


 マリアと目が合った。


「痛かったぞーーーーーー!!!!!!」


 次の瞬間、アンジェリカはマリアの前に立っていた。


 誰も動くのを見ていなかった。気づいたら、いた。


 マリアの両手が、アンジェリカの手に包まれていた。


「すばらしい一撃でしたわ、マリア様!!」


「ひぃぃぃぃぃ!!」


「もう一度やってくれませんか!! 今度はもっと全力で!!」


「無理いいいいいい!! 魔力ゼロです!! 死にます!!!」


「魔力がなくても体幹で——」


「体幹は関係ないですぅぅぅ!!!」


 マリアの目から涙がぼろぼろこぼれた。


 そして。


 ぴたり、と止まった。


 マリアの顔から、すうっと血の気が引いた。


 表情が、固まった。


「……あ」


 マリアが、小さく言った。


 静寂。


 レオンハルトが、マリアを見た。マリアの下の方を見た。


「……マリア?」


「……」


「マリア、お前、まさか——」


「見ないでくださいいいいいいいいい!!!!!!」


 マリアが絶叫して、その場にしゃがみ込んだ。


 ホールにいた全員が視線を逸らした。


 アンジェリカは、マリアの手をそっと放した。


「……膀胱括約筋の制御も、体幹トレーニングで鍛えられますわよ」


「今それどころじゃないです!!!!!!」


「ふつうのことをしているだけですわ」


「ふつうじゃないです!! あなたが悪いんです!! 全部あなたのせいです!!!」


「失礼な」


「全部あなたのせいですーーーーーーーー!!!!!!!!!!」


-----


 マリアが別室に連れて行かれた。


 王城の女官が二名、顔を真っ赤にしながら付き添った。廊下を歩く間、マリアはずっと両手で顔を覆っていた。


 控え室に入り、扉が閉まった。


 女官の一人が「お着替えを……」と絞り出すように言いながら、クローゼットを開けた。


 幸い、卒業パーティー用に各家から預けられた予備の衣装がいくつかあった。マリアの体格に合いそうなものを引っ張り出しながら、女官は努めて無表情を保った。十年王城に仕えてきたが、こういう事態は初めてだった。


「……ご不便をおかけしました」


 もう一人の女官が、絞り出すように言った。何を謝っているのか自分でもよくわからなかった。


「……」


 マリアは答えなかった。


 鏡の前に立って、自分の顔を見た。涙の跡がある。目が赤い。頬が熱い。


 今夜のことを、走馬灯のように思い返した。


 断罪のはずだった。


 アンジェリカを追い詰めるはずだった。


 レオンハルト殿下と並んで、堂々と未来を歩み始めるはずだった。


 なのに。


「……なんでこうなったの」


 マリアは鏡に向かって、誰にでもなく呟いた。


 女官が新しいドレスを差し出した。淡い水色の、シンプルなものだった。


 着替えながら、マリアはぼんやり考えた。


 あの女は、何だったのか。


 婚約者を奪われて、断罪されて、怒ることも泣くこともせず、ただひたすら筋肉の話をしていた。最強魔法を片手で受け止めて「もう一度」と言い、笑顔で着替えを勧めた。


 怖かった。


 本当に、怖かった。


 しかし。


「……体幹、か」


 マリアは小さく呟いて、自分の体を鏡で見た。


 細い。確かに細い。華奢、と言えば聞こえはいいが。


「……あんな言われ方をしたくはないけど」


 でも、と思う。


 もし本当に体幹があれば、さっきの魔法の反動で自分の体が揺れなかったかもしれない。もし本当に大腿四頭筋があれば、恐怖で足が震えなかったかもしれない。もし本当に膀胱括約筋が——


「……」


 マリアは頭を振った。


「考えるのをやめよう」


 ドレスの裾を整えて、深呼吸をした。


 扉を開けた。


-----


「……わかった」


 レオンハルトが深呼吸をした。


「具体的に進める。婚約破棄を受け入れるなら、今夜この場で誓約書にサインを——」


「少々よろしいですか、殿下」


「……なんだ」


 アンジェリカが、ふらりと大黒柱の方へ歩き出した。


「ちょっ——」


 柱に、手が触れた。


 さらり、と。ごく自然に、本当に何気なく。


 一瞬だった。


 アンジェリカはすぐに手を引いて、ふむ、と小さく頷いた。


「……少し気になっていましたのよ、この柱」


「……何をした」


 レオンハルトが低い声で言った。


「確認しただけですわ。石材の内側にヘアクラックが——」


「何をした!!」


「ご心配なく」


 アンジェリカは扇を広げた。


「補強なさることをお勧めしますわ、殿下」


「……補強、ね」


「では誓約書を」


-----


 誓約書が取り出されたのは、パーティー開始から一時間後だった。


 レオンハルトは三枚の誓約書にサインをしながら、柱のことが頭から離れなかった。


 アンジェリカは優雅な筆致でサインをして、扇をぱちりと閉じた。


「では、これにて婚約破棄は成立ですわね。さようなら、殿下。マリア様」


 くるりと向きを変えて、ホールを歩き始める。


 その後ろ姿は、儚げで美しかった。一歩ごとに「ずん」と床が沈んでいたが、姿は美しかった。


 扉が閉まった。


 ホールに静寂が戻った。


-----


 レオンハルトは長い息を吐いた。


 マリアが隣にそっと寄り添ってきた。


「……終わりましたね、殿下」


「……ああ」


「なんか……すごい夜でしたね」


「……ああ」


 二人はしばらく黙って立っていた。


 やがてレオンハルトが顔を上げた。招待客たちがまだホールに残っている。楽団員は総崩れになっていたが、給仕はどうにか立ち直っていた。


「……せっかくの卒業パーティーだ。続けよう」


「そうですわね」とマリアが微笑んだ。「私も少し、お腹が空きました」


 楽団がおずおずと演奏を再開した。給仕が料理を運び始めた。招待客たちがざわざわと動き出し、ホールにようやく、本来の賑わいが戻ってきた。


 レオンハルトはシャンパンを受け取り、一口飲んで、ほっと息をついた。


 終わった。本当に終わった。


 そう思った、その瞬間。


 ごっ。


 低い音がした。


 誰もが動きを止めた。


 ごっ、ごっ、ごっ——


 音の出所を探して、全員の視線が同じ方向へ向いた。


 ホール中央の、大黒柱だった。


 縦に。


 一本の線が、走っていた。


 柱の上から下へ、まっすぐに、ひびが広がっていく。


「……え」


 レオンハルトのシャンパングラスが、手から滑り落ちた。


 ごっ、ごっ、ごっ、ごごごごごっ——


「ちょっ——」


「おい待て——」


 ひびが、枝分かれした。縦の亀裂から横へ、横から斜めへ、蜘蛛の巣のように広がっていく。白い石粉が、さらさらと床に落ちてきた。


「逃げろ!!」


 レオンハルトが叫んだ。


「逃げろーーーー!!!!」


 招待客たちが蜘蛛の子を散らすように走り出した。悲鳴が上がった。楽団員が楽器を抱えて転がった。給仕がトレイを放り投げた。


 レオンハルトはマリアの手を掴んで走った。


 どどどどど、という音が床から伝わってくる。


「うわあああああ!!!!!」


「ひいいいいいいい!!!!!」


 二人は扉へ向かって全力で走り、——


 ど ん。


 王城が、揺れた。


-----


 夜が明けた頃。


 王城のホール棟は、きれいに半壊していた。


 石造りの柱が崩れ、天井が落ち、シャンデリアが地面に散乱し、料理と花と誰かの帽子がまとめて瓦礫の下に埋まっていた。


 人的被害は奇跡的にゼロだった。逃げ足だけは全員速かった。


 そしてレオンハルトとマリアは、翌朝、王城付きの医務室のベッドに並んで寝かされていた。


 走って転んで、二人揃って打ち身と擦り傷だらけだった。


「……殿下」


「……なんだ」


「柱、崩れましたね」


「……ああ」


「アンジェリカ様が触った後に」


「……ああ」


「あの方、一体何をしたんでしょう」


「……確認しただけ、と言っていた」


「……」


「……」


 沈黙。


 レオンハルトはベッドの上で上体を起こし、ぼんやりと包帯を巻かれた手を見た。


「……腹筋でもするか」


「今ですか!?」


「じっとしているのが辛い」


「怪我人ですよ殿下!!」


「上半身だけなら——」


「だめです!!」


 マリアが止めた。


 が、翌日にはレオンハルトがベッドの上で腹筋をしており、それを見たマリアも何となく脚を上げて体幹のトレーニングをしており、医師が「お二人とも安静に!!」と怒鳴りに来た。


 その様子を、窓の外から厩の屋根の上に座って眺めていた者がいた——などということは、なかった、と思う。おそらく。


-----


 さらに数日後。


 病室に、国王陛下からの使者が訪れた。


 王太子殿下への伝言があると言う。


「……なんだ」


 使者は羊皮紙を広げ、慇懃に読み上げた。


「王城ホール棟崩壊の責を負う者として、王太子レオンハルト殿下、並びにマリア・シュプリングフェルト男爵令嬢を、北方鉱山にての強制労働に処する——」


「……え」


「——との、国王陛下のご意向にございます」


 静寂。


「鉱山……?」


「強制、労働……?」


「ホール棟崩壊の原因調査の結果、当夜の騒動が直接の引き金であったと判断されたとのことで」


「それは俺のせいじゃ——」


「さらに陛下より一言」


 使者は咳払いをして、続けた。


「『石を運ぶにも体が要る。せいぜい鍛えてこい』——以上にございます」


 レオンハルトとマリアは、ベッドの上で、静止した。


「……父上が」


「……そんなことを」


「なお」と使者が付け加えた。「ゾンネンブルグ侯爵家より、北方鉱山向けの筋力トレーニングプログラムが、お二人宛に届いております。六ヶ月分の詳細なメニューと、特製プロテインが四十八本」


 使者がずらりと並んだ荷物を示した。


「差出人は——アンジェリカ・フォン・ゾンネンブルグ令嬢とのことで」


「…………」


「お二人への添え書きには、『北方の冷気は筋肉の回復を促します。よい環境ですわ。精進なさい』と」


 マリアが毛布を頭からかぶった。


 レオンハルトは天井を見上げ、長い長い息を吐いた。


「……腹筋、五百回から始めるか」


 もはや抵抗する気力もなかった。


-----


 その頃、アンジェリカは侯爵家の庭で、バーベルを軽やかに持ち上げていた。


 本日三百回目。


「ふぅ」


 一息ついて、右手を見た。あの夜の熱感は、もうほとんど消えていた。


「……マリア様の聖光、中々のものでしたわ」


「アンジェリカ様」


 侍女頭のゲルトルートが近づいてきた。


「王城から報告が参りました。ホール棟は半壊、殿下とマリア様は軽傷、そして国王陛下より鉱山送りが決まったとのことで」


「そうですか」


 アンジェリカは特に驚いた様子もなく頷いた。


「プロテインは届きましたか」


「四十八本、本日発送いたしました」


「結構ですわ。では今日の仕上げを始めましょう。五百回、スクワットですわよ」


「……アンジェリカ様」


「なんですか、ゲルトルート」


「柱に触れたのは、わざとでしたか」


 一瞬の、間。


 アンジェリカはにっこりと、完璧な令嬢の微笑みを浮かべた。


「確認しただけですわ」


「……そうですか」


「ヘアクラックはもともと入っていました。私は何もしていません」


「……」


「本当に」


「……承知いたしました」


 庭に、ずん、ずん、という規則正しい音が響き始めた。


 はるか北方で、ちょうど鉱山に到着したレオンハルトがくしゃみをしたのは、また別の話である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
……鍛えておくに越した事は無いですね。 このご令嬢(という最凶な方)には是非ともあの最強格闘家と対戦してもらいたいですね(背中に鬼を背負っている方です。格闘ゲームの黒い道着の方でもいいですね。島を一…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ