婚約破棄された筋肉令嬢、王城を半壊させる
王国暦四百十二年、晩春。
王立学園の卒業パーティーが、今夜幕を開けようとしていた。
ホールには貴族の子弟たちが華やかに集い、魔法仕掛けの照明がシャンデリアを七色に輝かせている。楽団の演奏が優雅に響き、給仕たちが銀のトレイを粛々と運ぶ。
誰もが知っていた。
今夜、「あれ」が起きる。
王太子レオンハルト・フォン・ヴィルトシュタイン殿下が、婚約者であるアンジェリカ・フォン・ゾンネンブルグ侯爵令嬢に婚約破棄を言い渡す、と。
ホールの隅では貴族子女たちがひそひそ囁き合っている。
「かわいそうに、アンジェリカ様……でも、あの方は確かに横暴でしたわ」
「マリア様のことを随分とひどくいじめたとか。階段から突き落としたり、泥水を飲ませたり……」
「殿下も男爵令嬢のマリア様に惚れてしまったのでしょう。アンジェリカ様は今夜、学園を追われる身に……」
しかし、だ。
それらの囁きはすべて、今夜のうちに盛大に覆されることになる。
なぜなら、彼女たちはまだ知らなかった。
アンジェリカ・フォン・ゾンネンブルグという女の、本当の姿を。
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午後八時きっかりに、ホールの扉が開いた。
現れたのは、息を呑むほどの美少女だった。
流れるような白金の髪。吸い込まれそうな深いアメジストの瞳。白磁の肌に映える、薄紅のドレス。背は細く、腰は細く、一歩ごとに揺れる裾が絵画のように美しい。
その歩みは優雅だった。足音ひとつ立てず、ガラス細工のように繊細に、まるで床を踏んでいないかのように滑らかに——本当に、滑らかすぎるほどに——静かに歩いてくる。
招待客たちは誰もが目を奪われ、息を止めた。
これが、侯爵令嬢か。
これが、貴族の鑑か。
アンジェリカはホールの中央で足を止め、完璧な微笑みを浮かべた。
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舞台は整った、とばかりに、王太子レオンハルトが進み出た。
金髪碧眼、端正な顔立ち、鍛え抜かれた長身。まさに絵に描いたような王子である。今夜のために誂えた礼装に身を包み、その右隣には小動物めいた愛らしさのマリア・シュプリングフェルト男爵令嬢が、今にも泣きそうな顔でひっついていた。
「アンジェリカ・フォン・ゾンネンブルグ」
レオンハルトはよく通る声で呼びかけた。渾身の低音だった。
「今夜、この場をもって、我らの婚約を破棄する」
ホールが静まり返った。
マリアがすすり泣いた。
貴族子女たちが固唾を呑んだ。
そしてアンジェリカは——
「……ほう」
にこり、と笑った。
その笑みに、レオンハルトはなぜか背筋に悪寒が走ったが、続けた。続けなければならない。
「マリア嬢への数々の非道な行い、余は決して許さぬ。貴様のような悪辣な女に、王妃の座は似合わぬ!」
「……」
「貴様は今夜この場で、貴族社会から永久に追放される身となった!」
完璧な決め台詞だった。
マリアが「やっと言ってくれた……」と感涙した。
アンジェリカは——
「なるほど、なるほど」
ゆっくり首を縦に振りながら、レオンハルトをじっと見ていた。
そして。
「……殿下、よろしければ聞かせてください」
「な、なんだ」
「今の言葉、腹の底から出ていましたわよね」
「……は?」
「腹式呼吸が完璧でした。横隔膜の使い方が実に理想的。これはもしや、腹筋を毎日鍛えていらっしゃる?」
「……」
「返事をなさい。腹筋は何回ですか。百回では足りませんわよ。私は毎朝五百回を最低ラインとしておりますが、殿下はおいくつ?」
沈黙。
長い、長い沈黙。
「……は?」
レオンハルトが出せた言葉は、それだけだった。
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「ちょっと待て」
レオンハルトが片手を上げた。周囲が「え、何が始まるの」という顔になった。
「今、俺は婚約破棄を言い渡した。お前に追放を言い渡した。なぜ腹筋の話になっている」
「ああ、婚約破棄の件ですわね」
アンジェリカは扇で口元を隠しながら、ふふ、と笑った。
「いいでしょう。受けて立ちます」
「受けて……え、何を?」
「勝負ですわ、殿下」
「は?」
「半年前から殿下が私の後ろで何をなさっていたか、よくわかっております。マリア様と逢引きしながら、私への精神的揺さぶりを狙う——いわゆるトラッシュトーク、というやつですわね。なかなかのメンタル攻撃でした」
「……いや、俺は本当に浮気を……」
「そのマリアとかいう方も連れてきてくださって、ありがとうございます。共に戦う気概ということでしょうか」
「戦う……? 違う、彼女は——」
「参りましょうか、殿下」
アンジェリカはにっこり笑って、薄紅のドレスの裾を少しつまんだ。
その瞬間。
ぶちっ、という音がした。
ドレスの背中部分のボタンが数個、高速で吹き飛んだ。
「あら」
彼女はちらりと背中に目をやって、「呼吸しただけで飛びましたわ。少し肩が発達しすぎましたかしら」と呟いた。
マリアが「ひっ」と一歩下がった。
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「え……えっと」
近くにいた侍女の一人が、おそるおそる囁いた。
「……アンジェリカ様のドレス、破れた部分から見えているのは……何ですか」
「……なんか、すごく、硬そうな何かが……」
「肩……? あんな肩、人間にありますか?」
アンジェリカはドレスの胸元に手を差し込み、するすると何かを取り出した。
鉄の板だった。
薄さ一センチ、縦横三十センチほどの、明らかに人が服に仕込んで持ち歩くものではない鉄板が、ぽんぽんと次々と床に積み上げられていく。
「……」
レオンハルトが目を瞬かせた。
「なんで服に鉄板が入っているんだ」
「ドレスに決まっているではありませんか」
「ドレスに鉄板は入らない!」
「体幹トレーニングですわ。上半身だけで三十キロ。下半身は少し少なめで二十キロ。移動の際に筋肉への負荷を絶やさないための工夫です」
「……お前は今、五十キロの錘を身にまとってパーティーに来ていたのか」
「これでも今日は軽くしてきましたのよ。婚約破棄という大事な場ですから、動きやすさを優先しました」
「…………」
「殿下、顔色が優れませんわよ。プロテインを摂取されますか?」
「いらん!!」
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鉄板を全て取り除いたアンジェリカは、うんと背を伸ばした。
ホールにいた全員が息を呑んだ。
ドレスを着ていることに変わりはない。華奢に見えることにも変わりはない。しかし何かが、何かが根本的に違った。重力の中心がそこにある、とでも言うような、なにか圧倒的な「質量」がその小さな体に凝縮されている。
「さあ、殿下。始めましょうか」
「待て待て待て」
レオンハルトが両手を上げた。完全に守りの体勢だった。
「お前は今、何を始めようとしている」
「勝負、と先ほど申し上げましたわ」
「俺は婚約破棄を言い渡した。勝負じゃない。これは断罪だ」
「ダンザイ……」
アンジェリカは小首を傾げた。
「それはどういったスポーツですか?」
「スポーツじゃない!!」
「格闘技ですか?」
「だから違う!!」
レオンハルトが声を荒らげた。ホールに集った招待客たちが固まったまま動かない。誰も止められなかった。止める方法が誰にもわからなかった。
「婚約破棄というのはだな」レオンハルトは奥歯を噛んだ。「婚約を、一方的に、解消する、宣告だ。お前はこれで、俺との婚約を失い、社交界の地位を失い、王妃になる資格を失う。それだけだ。勝ち負けは、ない」
「なるほど」
アンジェリカはゆっくり頷いた。
「つまり、私は負け、でよろしいですか」
「……まあ、そういうことだ」
「面白い」
「何が面白いんだ!!」
「敗北を認めることで、より深い鍛錬が始まる。禅の世界に近いものを感じますわ。殿下は瞑想もなさいますか? 私は毎朝四時に一時間、倒立瞑想をしておりますが」
「倒立瞑想……」
「逆さになると、脳への血流が増しますのよ。集中力が高まりますわ」
「…………」
「毎朝四時に倒立していたのか、お前は」
「睡眠は三時間で十分ですわ。人間は睡眠中に筋肉を消費するグリコーゲン分解が起きますから、長く寝すぎるのはカタボリック的観点からよろしくない」
「カタボリック……」
「ご存知ない言葉ですか? 簡単に申し上げますと——」
「いい!! 説明はいい!! そんな話をしに来たんじゃない!!」
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レオンハルトは深呼吸をした。胃がじりじり痛む。もう始まってから十分も経っていないのに、胃薬が欲しかった。
落ち着け。落ち着くんだ。
「アンジェリカ。マリアへの所業について、お前は弁明する気があるか」
「マリア様の件ですね」
アンジェリカはちらりと、レオンハルトの隣で縮こまるマリアを見た。
「ぽ……ぽけっ……」
マリアが小声で何かを言って、そのまま後ずさった。目が完全に死んでいた。
「マリア嬢はお前から多くの被害を受けたと訴えている。階段から突き落とされた。泥水を飲まされた。暗室に閉じ込められた。これらについて、言いたいことはあるか」
「あら、覚えていますわよ、全部」
アンジェリカは涼しい顔で言った。
「順番にご説明しましょうか」
「ぜひ、してくれ」
「まず階段の件。あれは私が悪うございました。千尋の谷のトレーニングは、入門者に事前説明なく行うべきではありませんでした。猛省しております」
「……千尋の谷のトレーニング?」
「筋力が低い者は、高所から落とすことで体の使い方を無意識に学びます。落ちながら体幹を使う。これは最古の鍛練法のひとつですわ」
「お前は本当に——」
「ただし三段程度の階段では効果が薄うございます。それが反省点ですわ。せめて十段は必要でした」
「そっちかよ!!」
「次に泥水の件」
「聞いてるか俺の言葉を!!」
「泥水ではありません」アンジェリカはきっぱり言った。「特製オーガニック・プロテインです。大豆と卵白をベースに、亜麻仁油と黒糖で仕上げた渾身の一杯ですわ。あのレシピは一年かけて完成させました」
「……それが泥みたいな味だったんじゃないのか」
「大豆の野性味ですわ。飲み慣れれば美味しゅうございます。マリア様は筋肉量が深刻に少なかったもので、バルクアップをお勧めしたのですが——ご理解いただけなかったのは残念でした」
「バルクアップ……」
「あと暗室の件は、目を休めるためのアイマスクを提供しようとしただけです。少し部屋の外から鍵がかかってしまいましたが、あれは誤作動ですわ。建付けが悪い扉でした」
「外から鍵がかかる扉を暗室と呼ぶんだよ!!」
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ここでマリアが、ぎゅ、と拳を握った。
今まで怯えてばかりいた彼女の目に、じわじわと感情が戻ってくる。それは怒りだった。レオンハルトへの愛が、自分を守ってほしいという気持ちが、今夜ここまで来た勇気が、全部まとまってアンジェリカへの怒りになった。
マリアは一歩前に出た。
「……言わせてもらいます」
「おや、マリア様」
「あなたは……あなたは私が憎かったのでしょう! だから、だからあんな……!」
「どうして憎むのですか」
「レオンハルト殿下が——殿下が、私のそばにいてくださっているから!!」
マリアは震える声で、それでも精一杯、言い切った。
「殿下は私を選んでくださいました。私に夢中になってくださいました。あなたの婚約者なのに! だから……だからあなたは私を——」
「なるほど」
アンジェリカは静かに頷いた。
マリアは続けた。ここまで言ったら引き下がれない。
「殿下のそばにいるのは……これからもずっと、私ですから! ごめんなさいね、アンジェリカ様!」
ホールがしんとなった。
マリアは高揚していた。言えた、と思った。勝った、と思った。
アンジェリカはしばらく、じっとマリアを見ていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「マリア様は」
「……な、なんですか」
「殿下のおそばに常時控えるお積もりですか」
「え……は、はい。これからは堂々と——」
「それは大変ですわね」
「……え?」
アンジェリカは本当に心配そうな顔をした。
「殿下は王太子ですから、公務、行幸、儀礼、警護の同行、有事には陣頭指揮……おそばに立つのであれば、相当の体力が必要ですわ。王妃というのは激務ですのよ。マリア様の大腿四頭筋では、三日で倒れますわ」
「……」
「計測したわけではありませんが、見た目から推測するに、マリア様の筋肉量は王国成人女性の平均を著しく下回っています。あれだけ殿下のおそばにいながら、どうしてあんなにカタボリックな状態に……」
「筋肉の話をしているんじゃないです!!」
「筋肉の話をしています」
「私は殿下への気持ちを——!」
「気持ちだけでは体は動きません」
アンジェリカはすたすたとマリアに近づいた。マリアが反射的に後退る。
「ご心配なく。簡単な確認ですわ」
そう言うと、人差し指一本でマリアの上腕をつつく。
「……」
アンジェリカの表情が曇った。
「やはり。深刻ですわ」
「何が深刻なんですか!!」
「筋繊維がほとんど感じられません。これでは殿下が万が一つまずいたとき、支えることすらできませんわ。王太子のおそばに立つなら、最低限——」
「殿下は私が支えなくていいんです!! 殿下は強いんです!!」
「殿下も腸腰筋が不十分ですが」
「殿下を巻き込まないでください!!」
レオンハルトが「俺まで言われてるのか……」と遠い目をしながら胃を押さえた。
「マリア様」
アンジェリカは真剣な顔で言った。
「私があなたにプロテインを勧め、体幹トレーニングをお教えし、千尋の谷を経験させた理由が、今おわかりですか」
「……い、嫌がらせ、では……?」
「違います」
「意地悪、では……?」
「違います」
「では……」
「あなたが殿下のそばに立つと言うなら」アンジェリカはきっぱり言った。「それに見合う体を作りなさい、ということですわ。未来の王妃がカタボリックでは、国の恥です。私はあなたの健康を心配していたのですよ、マリア様」
沈黙。
「……それ、本気で言ってますか」
「いつでも本気ですわ」
マリアはしばらく固まって、それから静かに言った。
「……最悪です」
「筋肉のない者が『最悪』を口にするのは説得力に欠けますわ」
「あああああ!!!」
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「話を戻す!!」
レオンハルトが額に手を当てながら割り込んだ。頭が痛い。胃も痛い。なのにまだ三十分しか経っていない。
「アンジェリカ。お前は婚約破棄を受け入れるんだな?」
「先ほど受けて立つと申し上げましたわ」
「じゃあ——」
「ただし」
アンジェリカが人差し指を立てた。
「一点だけ、申し上げてよろしいですか」
「……なんだ」
「殿下は、魔法によって私を追い詰めようとなさっていましたね」
「……え?」
「先月は王城の幻術師を用いて、私への監視を試みていた。今夜の照明の魔法仕掛けも、私の心理を揺さぶるために設計されているとお見受けしました」
レオンハルトが固まった。
確かに、やっていた。完璧に看破されていた。
「どこで……どこでそれを」
「やはりそうでしたのね」アンジェリカは満足そうに頷いた。「殿下も魔法に頼りましたか。残念です」
「残念……」
「申し上げますわ、殿下。この世界で最も人々を惑わせているのは、何だと思われますか?」
「……なんだ」
「魔法、という名の錯覚ですわ」
ホールが静まった。
「火炎魔法というものは、空気中の摩擦熱を触媒として増幅しているだけです。氷魔法は蒸散熱の操作。幻術は視神経への干渉。これらはすべて物理現象の延長線上にあり、要するに」
「……」
「筋肉で理解できます」
「絶対にできない!!」
「大腿四頭筋を十分に発達させた者は、走ることで火炎魔法を超えた熱量を生み出せますわ。広背筋を極めれば、氷魔法より速く水面を移動できます。三角筋を鍛えれば、幻術師より人の目を惑わせる動きができる」
「それは魔法じゃなくて普通に化け物だ!!」
「物理です」
「お前の言う物理は普通じゃない!!」
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ちょうどその時、王城の上位魔法師が前に出た。今夜の断罪の保険として、レオンハルトが念のため配置していた男だった。
「失礼いたします、殿下。アンジェリカ令嬢が話し合いに応じないようであれば、強制的に令嬢の行動を制限する——」
「その必要はありませんわ」
アンジェリカが振り向いた。
「あなたが今、詠唱しようとした拘束魔法ですね。魔法陣を起動させる前に終わらせます」
「な……なにを言っている」
「魔法陣というのはただの落書きです。床に描かれた線に力などありません。力があるとすれば、それを信じる人間の集中力という名の筋肉だけですわ」
「な、なにを——」
「証明してみせましょうか」
アンジェリカはかかとを持ち上げ、つま先立ちになった。
そして、ゆっくりと——
ドン。
かかとを床に落とした。
ただそれだけで、ホールの床に描かれていた起動前の魔法陣が、蜘蛛の巣状にひびわれた。
魔法師が「……え」と言って固まった。
「石の構造を理解すれば、どこに力を加えれば伝播するかわかります。足先の一点から、均等に振動を拡散させましたわ。魔法陣は線の集合体ですから、基部から断ち切れば起動しません」
「……」
「物理です」
「全然物理じゃない!!」レオンハルトが叫んだ。「いや、物理ではあるかもしれないが人間にできることじゃない!! なんで床のどこが薄いかわかるんだ!! なんでかかとの一点でそんな力が出るんだ!! お前は今何キロの力を出した!!」
「三百キロ前後ですわ」
「人間じゃない!!」
「失礼な。私は正真正銘の人間ですわ。ただ、鍛えているというだけで」
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レオンハルトは奥歯を噛んだ。
まずい。このままでは埒が明かない。
いや、そもそも「埒が明く」状態がこの女に存在するのかという根本的な疑問があるが、とにかく、もう少し圧力が必要だ。
「近衛隊!」
ホールの四隅に立っていた近衛騎士たちが一斉に動いた。精鋭四名。王家の魔法を付与された特別装備で、盾を構えてアンジェリカを囲む。
そして近衛隊長が呪文を唱えた。
ぶわ、と光が広がった。
アンジェリカを中心に、半径三メートルほどの球形の「結界」が展開される。王家の魔法師が調整した拘束結界——通常、人間はおろか並みの魔獣も閉じ込める、最高位の防御術式だ。
「……ほう」
アンジェリカは結界の内側から、光の膜をじっと見た。
「きれいな落書きですわね」
「結界だ!! 落書きではない!!」
「触れてみましょう」
「やめろ!!」
アンジェリカは結界に向かって、ゆっくりと右手を伸ばした。
指先が光の膜に触れた。
ぴりっ、と術式が反応する。通常なら人間の腕を弾き返す程度の力はある。
「……ふむ」
アンジェリカは興味深そうに首を傾けた。
「少し抵抗がありますわね。面白い」
「そうだろう!! それが魔法の力だ!! お前にはわからないかもしれないが——」
「でも」
アンジェリカは五本の指を結界の光の膜に食い込ませた。
ずぼ、という音がした。
「……え?」
近衛隊長が目を疑った。
アンジェリカの指が、結界の「中」に入っていた。
入っていた。
「少し隙間が見えましたので、そこから」
「結界に隙間なんてない!!」
「ありますわよ。術式の編み目の部分ですわ。魔法陣の線と線の間には、物理的には必ず微小な空白がある。そこに指を合わせれば——」
「合わせれば、じゃない!! その空白はミリ以下のサイズだ!! どうやって指を合わせた!!」
「指先の感覚を研ぎ澄ませれば——」
「人間の感覚でミリ以下を知覚できない!!」
「できますわ。毎日目を瞑って針の穴に糸を通す練習をすれば、三ヶ月で誰でも」
「そんな練習をする人間は存在しない!!」
アンジェリカは結界の中に差し込んだ手を、そのまま引いた。
ずず、ずず、と光の膜が引っ張られた。
「ちょっ——」
「少し固いですわね」
ずず、ずず、ずず。
近衛隊長が「ありえない」と震える声で言った。
結界が——伸びていた。
伸びていた。
収縮するはずの術式が、アンジェリカの右手に引っ張られて、まるで餅のように延びていた。
「止まれ、止まれ、止まれ!!」
「あと少し」
「止まれと言っている!!」
ずぽん。
結界が外れた。
光の膜が四方に散って消えた。
アンジェリカは右手に、ぐしゃっとした光の塊を持っていた。
手の中で結界の残滓がじりじりと消えていく。
「……」
近衛隊長が膝をついた。精神的に。
「……拘束結界が……手で……」
「物理ですわ」
「物理じゃない!!」
「引っ張れば外れるものは、物理的に外れますわ。魔法だからといって特別視しすぎではありませんか?」
「特別なんだ!! 魔法は特別なんだ!!」
「まあ、少し固かったのは認めます」
アンジェリカは右手をぱんぱんと払って、扇を取り出した。
優雅に、いつも通りに。
「殿下、他に手はおありですか?」
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レオンハルトは限界だった。
胃が痛い。頭が痛い。プライドも痛い。近衛隊長は今も膝をついたまま立ち上がれていない。
こうなったら——最終手段だ。
彼はマリアを見た。
マリアは、もうずっと限界だった。
今夜ここへ来てから、マリアはずっと怖かった。
結界を手で引き剥がす女が怖かった。床に蜘蛛の巣のひびを入れた女が怖かった。鉄板を五十キロ分ドレスに仕込んでいた女が怖かった。プロテインが怖かった。大腿四頭筋という言葉が怖かった。千尋の谷が怖かった。
そしてなにより。
あの女がいつでも、どこまでも、にこにこと笑っていることが、一番怖かった。
レオンハルトの目配せに、マリアは震えながら頷いた。
もうこれしかない。
彼女は光属性の癒し系魔法の使い手だ。普段は傷を癒したり、精神を落ち着けたりするために使っている。攻撃魔法などというものは、彼女の優しい性格にはそぐわない。でも——
でも、もう終わりにしたかった。
マリアは両手を前に伸ばした。
恐怖が魔力に変わっていく。癒しの力を、全部、根こそぎ逆向きに絞り込む。普段は傷を塞ぐために使う光が、全部、一点に向かって圧縮されていく。
「う……」
ホールが光り始めた。
白く、純粋な、しかし圧倒的な光。ホールにいた全員が目を細めた。
「ひかり……」
「あれは……聖属性の……」
「最高位魔法……神殿でも滅多に……」
マリアの両手の間で、光が球になった。
「う……うう……」
マリアの目に涙が滲んでいた。怖いのか怒りなのか、もう自分でもわからなかった。ただ、終わりにしたくて——この夜を終わりにしたくて——
「うわあああああああ!!!!!!」
マリアは目を閉じたまま、全力で押し出した。
ど ん。
ホールが消えた。
白以外の色が全部、なくなった。
轟音。衝撃波。熱。シャンデリアが揺れ、窓ガラスが震え、給仕が持っていたトレイが吹き飛び、ホール後方に立っていた楽団員が総崩れになった。誰もが顔を腕で覆って、床に伏せた。
光が、鳴り止んだ。
全員がゆっくりと顔を上げた。
そこに——
アンジェリカが、いた。
右手を前に突き出したまま。
光の奔流を、右手の平、一枚で、受け止めていた。
全部。
一滴も余すことなく、全部、その手の平に集約されて、じりじりと消えていった。
「……」
ホールが、完全に静まり返った。
誰も何も言えなかった。
アンジェリカは右手を見下ろした。
白い絹の手袋が、綺麗な円形に焼け焦げていた。その下、素肌が赤く、じわじわと熱を持っていた。
アンジェリカは焦げた手袋を、ゆっくりと外した。
右手の平を、じっと見た。
笑っていなかった。
今夜はじめて、アンジェリカが笑っていなかった。
「……今のは、痛かったですわ」
静かな声だった。
ホールが、水を打ったように静まり返った。
アンジェリカはその赤い右手を、ゆっくりと握り、開いた。
「痛かった……」
そして振り返った。
マリアと目が合った。
「痛かったぞーーーーーー!!!!!!」
次の瞬間、アンジェリカはマリアの前に立っていた。
誰も動くのを見ていなかった。気づいたら、いた。
マリアの両手が、アンジェリカの手に包まれていた。
「すばらしい一撃でしたわ、マリア様!!」
「ひぃぃぃぃぃ!!」
「もう一度やってくれませんか!! 今度はもっと全力で!!」
「無理いいいいいい!! 魔力ゼロです!! 死にます!!!」
「魔力がなくても体幹で——」
「体幹は関係ないですぅぅぅ!!!」
マリアの目から涙がぼろぼろこぼれた。
そして。
ぴたり、と止まった。
マリアの顔から、すうっと血の気が引いた。
表情が、固まった。
「……あ」
マリアが、小さく言った。
静寂。
レオンハルトが、マリアを見た。マリアの下の方を見た。
「……マリア?」
「……」
「マリア、お前、まさか——」
「見ないでくださいいいいいいいいい!!!!!!」
マリアが絶叫して、その場にしゃがみ込んだ。
ホールにいた全員が視線を逸らした。
アンジェリカは、マリアの手をそっと放した。
「……膀胱括約筋の制御も、体幹トレーニングで鍛えられますわよ」
「今それどころじゃないです!!!!!!」
「ふつうのことをしているだけですわ」
「ふつうじゃないです!! あなたが悪いんです!! 全部あなたのせいです!!!」
「失礼な」
「全部あなたのせいですーーーーーーーー!!!!!!!!!!」
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マリアが別室に連れて行かれた。
王城の女官が二名、顔を真っ赤にしながら付き添った。廊下を歩く間、マリアはずっと両手で顔を覆っていた。
控え室に入り、扉が閉まった。
女官の一人が「お着替えを……」と絞り出すように言いながら、クローゼットを開けた。
幸い、卒業パーティー用に各家から預けられた予備の衣装がいくつかあった。マリアの体格に合いそうなものを引っ張り出しながら、女官は努めて無表情を保った。十年王城に仕えてきたが、こういう事態は初めてだった。
「……ご不便をおかけしました」
もう一人の女官が、絞り出すように言った。何を謝っているのか自分でもよくわからなかった。
「……」
マリアは答えなかった。
鏡の前に立って、自分の顔を見た。涙の跡がある。目が赤い。頬が熱い。
今夜のことを、走馬灯のように思い返した。
断罪のはずだった。
アンジェリカを追い詰めるはずだった。
レオンハルト殿下と並んで、堂々と未来を歩み始めるはずだった。
なのに。
「……なんでこうなったの」
マリアは鏡に向かって、誰にでもなく呟いた。
女官が新しいドレスを差し出した。淡い水色の、シンプルなものだった。
着替えながら、マリアはぼんやり考えた。
あの女は、何だったのか。
婚約者を奪われて、断罪されて、怒ることも泣くこともせず、ただひたすら筋肉の話をしていた。最強魔法を片手で受け止めて「もう一度」と言い、笑顔で着替えを勧めた。
怖かった。
本当に、怖かった。
しかし。
「……体幹、か」
マリアは小さく呟いて、自分の体を鏡で見た。
細い。確かに細い。華奢、と言えば聞こえはいいが。
「……あんな言われ方をしたくはないけど」
でも、と思う。
もし本当に体幹があれば、さっきの魔法の反動で自分の体が揺れなかったかもしれない。もし本当に大腿四頭筋があれば、恐怖で足が震えなかったかもしれない。もし本当に膀胱括約筋が——
「……」
マリアは頭を振った。
「考えるのをやめよう」
ドレスの裾を整えて、深呼吸をした。
扉を開けた。
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「……わかった」
レオンハルトが深呼吸をした。
「具体的に進める。婚約破棄を受け入れるなら、今夜この場で誓約書にサインを——」
「少々よろしいですか、殿下」
「……なんだ」
アンジェリカが、ふらりと大黒柱の方へ歩き出した。
「ちょっ——」
柱に、手が触れた。
さらり、と。ごく自然に、本当に何気なく。
一瞬だった。
アンジェリカはすぐに手を引いて、ふむ、と小さく頷いた。
「……少し気になっていましたのよ、この柱」
「……何をした」
レオンハルトが低い声で言った。
「確認しただけですわ。石材の内側にヘアクラックが——」
「何をした!!」
「ご心配なく」
アンジェリカは扇を広げた。
「補強なさることをお勧めしますわ、殿下」
「……補強、ね」
「では誓約書を」
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誓約書が取り出されたのは、パーティー開始から一時間後だった。
レオンハルトは三枚の誓約書にサインをしながら、柱のことが頭から離れなかった。
アンジェリカは優雅な筆致でサインをして、扇をぱちりと閉じた。
「では、これにて婚約破棄は成立ですわね。さようなら、殿下。マリア様」
くるりと向きを変えて、ホールを歩き始める。
その後ろ姿は、儚げで美しかった。一歩ごとに「ずん」と床が沈んでいたが、姿は美しかった。
扉が閉まった。
ホールに静寂が戻った。
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レオンハルトは長い息を吐いた。
マリアが隣にそっと寄り添ってきた。
「……終わりましたね、殿下」
「……ああ」
「なんか……すごい夜でしたね」
「……ああ」
二人はしばらく黙って立っていた。
やがてレオンハルトが顔を上げた。招待客たちがまだホールに残っている。楽団員は総崩れになっていたが、給仕はどうにか立ち直っていた。
「……せっかくの卒業パーティーだ。続けよう」
「そうですわね」とマリアが微笑んだ。「私も少し、お腹が空きました」
楽団がおずおずと演奏を再開した。給仕が料理を運び始めた。招待客たちがざわざわと動き出し、ホールにようやく、本来の賑わいが戻ってきた。
レオンハルトはシャンパンを受け取り、一口飲んで、ほっと息をついた。
終わった。本当に終わった。
そう思った、その瞬間。
ごっ。
低い音がした。
誰もが動きを止めた。
ごっ、ごっ、ごっ——
音の出所を探して、全員の視線が同じ方向へ向いた。
ホール中央の、大黒柱だった。
縦に。
一本の線が、走っていた。
柱の上から下へ、まっすぐに、ひびが広がっていく。
「……え」
レオンハルトのシャンパングラスが、手から滑り落ちた。
ごっ、ごっ、ごっ、ごごごごごっ——
「ちょっ——」
「おい待て——」
ひびが、枝分かれした。縦の亀裂から横へ、横から斜めへ、蜘蛛の巣のように広がっていく。白い石粉が、さらさらと床に落ちてきた。
「逃げろ!!」
レオンハルトが叫んだ。
「逃げろーーーー!!!!」
招待客たちが蜘蛛の子を散らすように走り出した。悲鳴が上がった。楽団員が楽器を抱えて転がった。給仕がトレイを放り投げた。
レオンハルトはマリアの手を掴んで走った。
どどどどど、という音が床から伝わってくる。
「うわあああああ!!!!!」
「ひいいいいいいい!!!!!」
二人は扉へ向かって全力で走り、——
ど ん。
王城が、揺れた。
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夜が明けた頃。
王城のホール棟は、きれいに半壊していた。
石造りの柱が崩れ、天井が落ち、シャンデリアが地面に散乱し、料理と花と誰かの帽子がまとめて瓦礫の下に埋まっていた。
人的被害は奇跡的にゼロだった。逃げ足だけは全員速かった。
そしてレオンハルトとマリアは、翌朝、王城付きの医務室のベッドに並んで寝かされていた。
走って転んで、二人揃って打ち身と擦り傷だらけだった。
「……殿下」
「……なんだ」
「柱、崩れましたね」
「……ああ」
「アンジェリカ様が触った後に」
「……ああ」
「あの方、一体何をしたんでしょう」
「……確認しただけ、と言っていた」
「……」
「……」
沈黙。
レオンハルトはベッドの上で上体を起こし、ぼんやりと包帯を巻かれた手を見た。
「……腹筋でもするか」
「今ですか!?」
「じっとしているのが辛い」
「怪我人ですよ殿下!!」
「上半身だけなら——」
「だめです!!」
マリアが止めた。
が、翌日にはレオンハルトがベッドの上で腹筋をしており、それを見たマリアも何となく脚を上げて体幹のトレーニングをしており、医師が「お二人とも安静に!!」と怒鳴りに来た。
その様子を、窓の外から厩の屋根の上に座って眺めていた者がいた——などということは、なかった、と思う。おそらく。
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さらに数日後。
病室に、国王陛下からの使者が訪れた。
王太子殿下への伝言があると言う。
「……なんだ」
使者は羊皮紙を広げ、慇懃に読み上げた。
「王城ホール棟崩壊の責を負う者として、王太子レオンハルト殿下、並びにマリア・シュプリングフェルト男爵令嬢を、北方鉱山にての強制労働に処する——」
「……え」
「——との、国王陛下のご意向にございます」
静寂。
「鉱山……?」
「強制、労働……?」
「ホール棟崩壊の原因調査の結果、当夜の騒動が直接の引き金であったと判断されたとのことで」
「それは俺のせいじゃ——」
「さらに陛下より一言」
使者は咳払いをして、続けた。
「『石を運ぶにも体が要る。せいぜい鍛えてこい』——以上にございます」
レオンハルトとマリアは、ベッドの上で、静止した。
「……父上が」
「……そんなことを」
「なお」と使者が付け加えた。「ゾンネンブルグ侯爵家より、北方鉱山向けの筋力トレーニングプログラムが、お二人宛に届いております。六ヶ月分の詳細なメニューと、特製プロテインが四十八本」
使者がずらりと並んだ荷物を示した。
「差出人は——アンジェリカ・フォン・ゾンネンブルグ令嬢とのことで」
「…………」
「お二人への添え書きには、『北方の冷気は筋肉の回復を促します。よい環境ですわ。精進なさい』と」
マリアが毛布を頭からかぶった。
レオンハルトは天井を見上げ、長い長い息を吐いた。
「……腹筋、五百回から始めるか」
もはや抵抗する気力もなかった。
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その頃、アンジェリカは侯爵家の庭で、バーベルを軽やかに持ち上げていた。
本日三百回目。
「ふぅ」
一息ついて、右手を見た。あの夜の熱感は、もうほとんど消えていた。
「……マリア様の聖光、中々のものでしたわ」
「アンジェリカ様」
侍女頭のゲルトルートが近づいてきた。
「王城から報告が参りました。ホール棟は半壊、殿下とマリア様は軽傷、そして国王陛下より鉱山送りが決まったとのことで」
「そうですか」
アンジェリカは特に驚いた様子もなく頷いた。
「プロテインは届きましたか」
「四十八本、本日発送いたしました」
「結構ですわ。では今日の仕上げを始めましょう。五百回、スクワットですわよ」
「……アンジェリカ様」
「なんですか、ゲルトルート」
「柱に触れたのは、わざとでしたか」
一瞬の、間。
アンジェリカはにっこりと、完璧な令嬢の微笑みを浮かべた。
「確認しただけですわ」
「……そうですか」
「ヘアクラックはもともと入っていました。私は何もしていません」
「……」
「本当に」
「……承知いたしました」
庭に、ずん、ずん、という規則正しい音が響き始めた。
はるか北方で、ちょうど鉱山に到着したレオンハルトがくしゃみをしたのは、また別の話である。




