08 愛に狂った女
俺の母は、狂っている。
「あぁぁぁああ!!どうして、どうしてなのよ!!どうしてあの人は私の元へ来てくれないの!!」
物心ついた時から母はいつでもどんな時でも父のことを求めていた。母は父のことを愛し、手に入れるために他国から嫁いできたようだが、父の心は既に違う女性のものだったらしい。
父と皇后が仲睦まじくしている様子を見た日なんかは、母は平生よりもずっと荒れ、部屋中の物を壊して髪を掻き毟った。母の腹心である侍女長が、母はかつて“アラビゴの薔薇”と賞賛されていた美しい姫君だったと教えてくれたが、そんなの見る影もない。
「あの女っ…、陛下を誑かして!!やっぱり初めて会った時に殺すべきだったんだわ!!」
母は皇后のことを心の底から憎んでいた。彼女に嫉妬するあまり、他の側室たちと同じように皇后宮にいた頃は熾烈ないじめをしていたらしい。そのせいで住まいをこの別邸に移されたのだとか。
「は、母上…」
「うるさいわね、何なのよ!!そもそも陛下が此処に来なくなったのはアンタが生まれたからなのよ…!」
「どうかおやめください、シェリル様!」
幼い頃は、そう言って母はよく俺を罵った。何故生まれてきたんだ、何故たくさんの魔力を持っていないんだ、何故顔が父に似ていないんだと。侍女長が止めに入るまで殴られたこともある。
俺が生まれる以前は、夫婦になった以上国同士の関係もあって一人は子を儲けなければならなかったから父は母の元へ少なからず足を運んでいたらしい。けれど現在はそれも全く無くなってしまったのだとか。
母は俺を疎んでいた訳だが、俺が五歳になって初めて剣を握りその才能があると分かるとコロリと態度を変えた。
「貴方は私の自慢の息子よ。どうか母のために皇帝になって、あの女を見返してやってちょうだい。きっと貴方が皇帝になれば陛下だってもう一度私を見てくれる。あぁ目に浮かぶようだわ、 私のために頑張ってね、レナルド。」
「…はい、母上。」
俺は母を愛していたのだろうか。俺が剣の腕を上げれば上げるほど、貴族からの支持が厚くなればなるほど母が笑ってくれるから、その笑顔が見たくて俺は必死で努力した。第三皇子ながら第二皇子を抜かして皇位継承位二位を得て、一時は本当にこのまま俺が皇帝になれるのではないかと本気で思っていた。
けれど初めて皇太子である第一皇子を前にした時、それがただの思い上がりだったと気づいた。
アレクシス・デル・フィニアン。
奴は化け物だ。圧倒的な存在感、王者としての品格、何より体内から溢れ出る魔力。初めて会った瞬間、俺がいくら努力しようが決して此奴には適わないだろうと、そう思った。
第二皇子のように、とっくに皇位継承なんて諦めていればどんなに楽か。けれど俺は諦める訳にはいかなかった。だって俺が皇帝にならないと母は笑ってくれないし、諦めることなど決して許しはしないだろうから。
母はヒステリックな性格ではあったがバカではなく、このままだと皇帝になるのは第一皇子だと分かっているようだった。だからある日俺にこんな提案をした。
「皇后の娘を利用しなさい。聞くところによると最近は陛下の寵愛を受けているらしいわ。」
「皇后の娘…第七皇女のことですか?」
「ええ。其奴を利用して初めは情報収集、最終的には陛下に取り入って第一皇子よりも気に入られるの。そうすればきっと貴方が皇帝になれるはずよ。」
「…」
「第七皇女は、母親に似て男を誑かすのが得意みたいだけど…貴方は分かってるわね?」
「…はい。」
母に言われて近づいた第七皇女は、母とは違う笑顔を見せる奴だった。
皇位継承のことは難しいからよく分からないと言い、俺のことをお兄様と呼んで仲良くしたがった。見れば『なかよしかぞくのおひめさま』なんて題名の絵本を手に抱えている。
人から愛されなかったことなんてないような、そんな脳内お花畑なめでたいお姫様という印象だったから、俺は初め此奴が嫌いだった。
「レナルドお兄様、お父様とお話してきました!」
木刀での稽古中に、ベアトリスが父に俺について聞いたことを報告に来た。バカだからしっかり言われたことをこなせるかどうか心配だったが、意外とやる時はやるようなので安心した。
「レナルドお兄様のことを剣術の天才だと言ってとても褒めていましたよ。イーノック卿もいつ追い抜かれるか気が気じゃないって!」
「…ふーん」
「あ、嬉しそうなの隠せてないですよ!父上とイーノック卿にそこまで言わせるなんて、本当にすごいです!」
「まぁな。俺だって努力したし…」
父が俺のことをそんな風に褒めていたと聞き、ポロリと本音が出た。ベアトリスが少し驚いたように此方を見ていた。
途端にカッと頬が熱くなる。努力したなんて何恥ずかしいことを言ってるんだ、俺は。皇帝たる者、弱みや裏での努力を他人に見せない常に完璧な存在じゃなくてはならないって、母がよく言っていたのに。
「っ今のは間違い…」
「それはそうですよね!こんなに剣だこが出来るほど努力できる人なんてなかなか居ません。」
「だから、今のはちょっと口が滑っただけだって!別に言うほど頑張ってねぇよ。」
「?何で否定するんですか?努力できるのだって才能なのに!」
「努力って裏でするものだろ。表に出したら恥ずかしいことなんだよ、お前も覚えておいた方がいいぞ。」
「えぇ〜…私はそうは思いませんけど。まぁお兄様がそう思うなら否定はしませんが、こんなに剣の実力がつくまで努力できるところ、とても尊敬します!」
此奴は初めて、俺の努力を肯定してくれた。
「どうしてレナルドお兄様はそんなに皇帝になりたいんですか?」
報告が終わったならすぐに帰ればいいのに、ベアトリスはしばらく俺の稽古の様子を眺めたりそこら辺をぶらぶらしたりして遊んでいた。俺と仲良くなりたいというのは本当らしく、柄にもなく胸が少し温かくなった。
「どうしてって…さぁ、どうしてだろうな。権力とか?」
「えっそんなふわふわした理由なんですか?皇位継承争いは大変ですよ、危険だし。マリーが言ってました。そういう小さい理由ならやめた方がいいんじゃないんですか?」
「…お前に何が分かるんだよ。俺のすることに口出しするな。」
「ご、ごめんなさい。でも私はレナルドお兄様がそんなことのために危ない目に遭って欲しくなくて…」
「…」
俺が皇帝になりたいのは母のためだ。…けれど、本当に母のためにここまでする必要があるのか?
此奴の言う通り、皇位継承争いは危険だ。他の皇位継承権所持者を支持する貴族からの差し金か暗殺者が送り込まれることもあるし、最終的に皇帝になれなかった時どんな目に遭うのかは分からない。母は息子である俺を皇帝にして、皇后を見返し皇帝にもう一度振り向いてもらおうとしている。そんな母の汚い欲望のために、俺は命を擲つのか?
「私、レナルドお兄様は騎士になるのが向いていると思います!」
「は?俺が騎士に?」
「はい!お兄様ならきっと騎士団長になれるし、“赤髪の最強騎士”…かっこよくないですか?」
ベアトリスは絵本を開いて俺と同じ赤い髪をした男が馬に乗って戦っているページを見せてきた。何だよ此奴、言うこともやることも全部がバカっぽくで、如何にもガキらしい。
「ふ、はは、あはは!」
「?」
「ははは!そうだな、騎士になるのもいいかもな!」
自由奔放に振る舞うベアトリスを見ていると、自分の全てを母に縛られている現状が酷く滑稽なものなように思えた。
「シェリル様がお部屋でお待ちです。」
「あぁ。」
掃除が行き届いてはいるが、何処か雰囲気が暗い母の住む別邸。母が理不尽なことで罰を与えたり暴れたりするので、此処の使用人は母の機嫌を損ねることはしないようにと細心の注意を払って常に気を張って怯えている。
俺が生まれた場所だが、俺が一番居心地の悪い場所だ。
「よく来たわね、レナルド。」
母が赤い唇に弧を描いて俺を出迎えた。「どうだった?あのバカな第七皇女はしっかり貴方の言う通りにできたのかしら?」と予想通りの質問がされる。
「はい。父上は俺のことを剣術の天才だと褒めていたようです。」
「あらあらそうなのね!なんて嬉しいことなんでしょう、あの人が私の息子のことを見てそんな風に思ってくれているなんて…!すごいわ!!」
母は興奮したように俺を抱きしめた。幾度となく嗅いできた香水の匂いが鼻を掠めた。
「…母上、そこでなんですが。」
「なぁに?レナルド。」
「俺、騎士になりたいんです。母上はもうお気づきだと思いますが、俺が皇帝になれる可能性はほとんどありません。父上も俺の剣術を認めてくださっているようですし、騎士団長にまで昇格すれば皇帝にならなくたってきっと父上も」
「…っ黙りなさい!!」
頬に衝撃が走って、殴られたことに気づいたのはそれから少し経った後だった。子供の頃、よく殴られた記憶が蘇ってくる。
「貴方の口からそんなことを聞くことになるとは思わなかったわ!!この親不孝者が、貴方まで私を見限るつもりなのね!」
「見限るだなんて、そんな…」
「うるさい!!もうお前の言葉なんて何も聞きたくないわ、衛兵!」
途端に、ぞろぞろと数人の衛兵が部屋に入ってきた。
「レナルドを捕らえて地下牢に入れてしまいなさい!!しっかり反省して考えが変わるまで出てくることは許さないわ!!」
「おい離せ!!っ母上、こんな仕打ちはあんまりです…!」
ここで俺はようやく気づいた。母は俺を息子として愛してなんていない。人を簡単に利用しろなんて言うような人だ、きっとこれまで俺のことを父に愛されるための道具としてしか見ていなかったのだ。
母の部屋に入るのに、剣は必ず没収されていた。だから武器を持つ衛兵を振り払うことも出来ずに、そのまま俺は暗い地下牢に入れられることになった。
反省したら出すと母は言ったが、俺が嘘をついて出ようとするのも見越していたのかいくら反省したと言っても地下牢から出してもらえる気配はない。 何日が過ぎたのだろう、ただ俺は母に言われた言葉を頭で反芻しながらぼんやりと時が過ぎるのを待っていた。
しかしある時、侍女長のアマンダが食事を運んでくる時と母が俺を怒鳴りつける時以外、固く閉ざされていた地下牢の扉から光が差し込んできた。
「レナルドお兄様…!」
光の先から見えた時のベアトリスの顔を、きっと俺は生涯忘れない。俺を案じてくれているであろう赤い瞳は他の誰のものよりもずっと綺麗だった。




