【鏡 / 樹海 / 子守唄 / 羽 / 静寂】
本日も言葉たちが棚から顔を出しておりますよ。
おや、今日は月の光のように静かな言葉たちですねぇ。では、お題はこちら——
『鏡 / 樹海 / 子守唄 / 羽 / 静寂』。
苦くて酸っぱいコーヒーに、ふわりとした甘みの広がる金平糖を浮かべたような。
そんなお話はいかがですか。
僕達の世界には、空という名の約束があった。
風を裂き、空を抱き、遥か遠くの地平線まで羽ばたくこと──
それが鳥人として生まれた者に与えられた使命だった。
父さんや母さんが大きな翼を羽ばたかせて大空を翔るのを見ては、僕もいつか飛ぶんだと思っていた。
巣立ちの日を迎え、僕らの兄弟の中で一番最初に巣立ったのは、せっかちな三番目の兄さんだった。次に、頼りになる一番目の兄さん。その次に、優しくおっとりしている二番目の兄さん。最後に残ったのが、僕だった。
心臓が高鳴る。体の奥がふるえる。翼に風が通るたび、背筋がぞわりと熱くなる。翼を大きく動かした。
けれど、僕は飛び立てなかった。
三番目の兄さんは僕を急かし、二番目の兄さんは僕を励ました。一番目の兄さんは、僕の名前を呼んでいた。
「シエルー!」
そう、僕の名前はシエル。空という意味だ。それなのに、僕の羽は空をつかまず、僕の体は風に乗らなかった。しまいには、腕に走る痛みに、羽を動かすことすらできなくなった。
「お前は鳥人じゃないよ。きっと、羽の生えた何かなんだ」
三番目の兄さんはそう言って、一番に僕を諦めた。一番目の兄さんも、二番目の兄さんも、順番に離れていった。そうして僕の周りに残ったのは、静寂だった。
その夜、僕はひとり、森を歩いた。
星はまだ見えなかった。頭上の梢が空を覆い、冷たい湿気だけが静かに降りてくる。
樹海。
その言葉の通り、まるで木々の波がうねる、静かな海の中にいるようだった。
枝が擦れ合う音。足元の土が崩れる音。
それらすべてが、僕の呼吸に溶けていった。
歩きながら、ふと思った。
このまま、何も言わず、誰にも知られず、どこかへ消えてしまえばいいと。
家族も、仲間も、もう僕のことを見ていなかった。
空を飛べなかった僕は、鳥人の社会にとって、「存在しない者」と同じ。
やがて森を抜けると、眼下に広がる海が見えた。
月が空高く昇っていた。
その光を受けた海は、波一つなく、巨大な鏡のように広がっていた。
鳥人の誰も来ない、この岬。
僕は、崖の縁に立った。
足元から潮の匂いが立ち上り、肺の奥を満たす。
「疲れちゃった」
そうつぶやいた時、僕の声は、風にも波にも届かず、ただ消えた。
言葉のない世界。音のない世界。
静寂は、まるで僕を包む白い布のように、やさしく、息苦しかった。
目を閉じた。
その瞬間、どこか遠くから歌が聞こえた。
骨の奥に届くような、やわらかく湿った旋律。
—ねんねん うたかた ゆめのなか
星のかけらが 眠る海
ねんねん うたかた まどろみて
さざめく貝の 子守唄
ねんねん ゆらり 波の背で
忘れてしまおう 名も夢も
羽は重たく 風は遠くて
泣いても誰にも 届かない
海においでよ 飛べない子
波のゆりかご
壊れた羽を 脱ぎ捨てたら
あとはただただ 眠るだけ—
崖の下を見ると、黒い海の中に銀の髪が揺らめくのが見えた。生ぬるい風が岬を通り過ぎる。風は髪を払いのけて、彫刻のような美しい顔を露わにした。人魚だ。その瞳は月明かりを受けて煌めき、僕の心を捕えた。
「君、飛べないんでしょう?」
「……うん」
「かわいそうに。じゃあね、私マーレって言うの。海で私と一緒に遊びましょう」
その言葉は、囁きにも似て、甘やかで、底知れず、けれどどこか──心地よかった。
飛べないのなら、もう生きている意味はない。僕は笑った。誰も信じてくれなかった涙が、ようやくこぼれた。そして、僕は海へ身を投じた。
一瞬の浮遊。そのあとに訪れたのは、鋭く肌を刺す冷たさだった。
水は、想像よりずっと暗く、重かった。
音は消え、月の光も届かない深さに、僕は落ちていく。
冷たい。
苦しい。
でも、それでもよかった。
ようやく、すべてから解放されると思った。
けれど──
僕の体は、生を手放してくれなかった。
けれど、足が、動いた。
息が足りない。肺が焼けつくように痛む。
無意識のうちに、かかとが水を蹴った。
翼が、反射的に水をかいた。
羽の先で波を裂き、泡の中を突き進む。
頭では「もういい」と思っているのに、体は必死だった。
どこへとも知れず、もがき、あがき、光の方へと──
──息が、したい。
その本能的な願いが、最後にはすべてを凌駕した。
重い水を突き抜け、顔が水面を破る。
息を吸った。
苦しくて、熱くて、でも、確かに生きていた。
しぶきが、目の前で静かに踊る。
波に揺られ、僕は空を見た。
そこには、まだ月があった。
海の水を照らすように、静かに、変わらずに。
そして気づいた。
水が、僕を抱いている。
翼ではなく、腕で水をかいて、浮いている。
空の代わりに、海が僕を受け止めていた。
その時だった。
水面に、再びあの銀の光が現れた。
マーレ──あの人魚が、すぐ近くにいた。
波の揺らぎの中でも、その瞳はぶれることなく僕を見ていた。
先ほどまで感じていた底知れぬ怪しさは、もうどこにもなかった。
「やっぱり、あなたは飛べるのね」
その言葉は、責めているわけでも皮肉でもなかった。
まるで、どこか誇らしげな、あたたかい響きだった。
僕はゆっくりと、彼女を見つめ返した。
「……泳いでるだけだよ」
「それでいいの。海に羽ばたくってことよ。羽が空のためだけにあるなんて、誰が決めたの?」
マーレの声は、波の音と重なりながらも、確かに胸の奥に届いた。
そして、その言葉の意味が、少しずつ胸の中に染みていった。
「最初から、僕が泳げるって……知ってたの?」
「もちろん」
マーレは少し得意げに笑う。
「だって、生きたい子の目だったもの。あなたの羽は、たまたま水に向いていただけ」
波が、静かに寄せては返す。その音は、かつて感じた静寂とは違った。世界が僕を拒む沈黙ではない。
僕の存在を受け入れるような、あたたかい音だった。僕は、ゆっくりと水をかいた。
海の中を進むその姿は、たしかに──空を飛んでいるようだった。
いかがでしたか?『5つの言葉の物語』は。
今回の主人公は人間ではなかった分、幻想的な雰囲気になっていました。
苦くて辛い現実にも、金平糖のような甘い救いがあるからこそ、人は生きていけるのでしょうねぇ。
私はコロンビア産のコーヒーに、金平糖を浮かべるのが好きですよ。
邪道とおっしゃられるかもしれませんがね。
ゆっくりと溶けてゆく金平糖を見るのも、また楽しみなのでございます。
それでは、またのお越しをお待ちしております。
今後とも五彩堂をごひいきに!
感想や「こんな物語を書いてみたよ!」というのがありましたら、ぜひコメント欄で教えてください。