8,疑惑のゴブリン先輩
蓬原先輩はすかさずスマート・フォンのカメラのシャッターを切った。
「これでわかったろ? あたしの勘は正しかった。ゴブリンは保育園に通う子供の母親と不倫関係にある。すなわち〈クロ〉だ」
部室では何やら悪だくみでもしているかのようにひそひそと談議が交わされていた。
「部室の鍵はちゃんと閉めたか?」蓬原先輩が警戒するように神妙な面持ちで言った。
「万事オッケーです」綾瀬がきらりと光る眼鏡の中央を押さえた。
「ゴブリンのやつは?」
「午後からはずっと課題の資料を集めるため、図書室に──」
「よし」
「やめましょうよ、こういうのは」ぼくは困惑して口を挟んだ。「他人の私情に首を突っ込むのはよくないですよ」
大山さんも黙ってうんうんと頷いた。
「私情やと?」蓬原先輩が眉を上げ、厳しい顔つきで言い放った。「これは私情ではない。〈痴情〉だ。〈痴情〉。たった一文字違うだけで全然意味合いも違う。何しろゴブリンがこの前逢瀬を重ねていた女性はやな──」そこで彼女は大きく息を吸い込んだ。「〈子連れ〉だったんや!」
「ええ──?」両手で口もとを覆い、大山さんが叫ぶ。「ゴブリン先輩、不倫しているんですか?」
「生真面目な人ほど、一線を越えるとのめり込むんだよ。〈遊び〉で終われないから」綾瀬が説明するように言った。
「でも相手は親戚かもしれないじゃないですか?」ぼくは言った。
「それだとつじつまが合わん」蓬原先輩が言った。「ゴブリンはあの低身長で、家系では一番背が高いことを密かに誇りに思っている。相手の女性はゴブリンより背が高かったのは黒木も見たろ?」
「そうですけど──」
「兄弟の奥さんとか?」大山さんが尋ねた。
「ゴブリンには高校生の妹しかいない」蓬原先輩が首を横に振った。
「未亡人とか?」大山さんが尋ねた。
「それだ」ぼくは大山さんの意見に同調した。「本当にただの純愛だったらどうするんですか?」
「その証拠をこれから捜すんだよ」蓬原先輩は真顔で言った。「これは美術部の存亡をかけた危機やぞ?」
「ゴブリン先輩の身の潔白を証明しましょう」綾瀬も真顔で賛同した。
「何かふたりとも面白がってないですか?」──ぼくは内心やれやれといった調子だった。
大山さんはただただ動揺の色を隠せない様子で、はらはらとみんなの顔色を窺っていた。
結局ぼくらは二班に分かれて、ゴブリン先輩の動向を探ることになった。蓬原先輩とぼく。綾瀬と大山さん。夕方になると蓬原先輩と待ち合わせをするべく大学付近にある公園のベンチにひとり座っていると、彼女は緑色のリネンのワンピースにピンヒールという恰好で現れた。蓬原先輩のびしっと決めたファッションを見るのは初めてだったので、何だかとても新鮮だった。ただ残念だったのはスカーフをほっかむりのように被り、縁の大きなサングラスまでしていること。何事もやりすぎるきらいがある。変なところまで徹底的なのだ。
「何だ、黒木。全然変装してないやないか」蓬原先輩は呆れたように言った。
「部長こそ、やりすぎですよ」ぼくも呆れた。「せめてサングラスは外してください。返って目立ちますから」
「そうか?」蓬原先輩は渋々サングラスを外す。「セレブみたいで結構気に入ってたんだけどな」さも口惜しそうに言う。そのあとぼくを指さした。「その代わりきみもマスクくらいは着けろ」
仕方なくぼくはマスクを着けた。
そのとき綾瀬から一報が入る。蓬原先輩はスマート・フォンで綾瀬からのメールを確認した。
「ゴブリンが大学から出たらしい。先回りするぞ」
「了解」ぼくは抑揚のない声で返事をした。
ゴブリン先輩が大学近くの保育園に入っていくところをぼくらは目撃した。しばらくするとエプロン姿の彼が外に出てくる。そして熱心に子供たちの相手をしていた。子供たちはゴブリン先輩にとても懐いている様子で、群がって彼の手や腕をつかんで引っ張り合っていた。
「最近やけに忙しそうだと思っていたら、ゴブリンのやつ、こんなところで保育士のアルバイトなんてしてたのか」蓬原先輩が言った。
「ゴブリン先輩、楽しそうですね。あんな顔、初めて見ました」
「そうやな」
ゴブリン先輩はにこにこと子供たちの遊びに付き合っていた。
「もうほっといてあげましょうよ?」ぼくは言った。「何も問題はないじゃないですか?」
「待て、黒木」蓬原先輩がそれを制した。「この前の女の子がいる」
よく見るとたしかに、新宿でゴブリン先輩が抱きかかえていた女の子が、遊んでいる子供たちの一団の中にいた。
「ゴブリンめ、子供をだし・・に母親に近づいたのか?」
「逆もありえますね。母親のほうが子供をだし・・にしたとか?」
ぼくらは首を捻った。
午後五時を過ぎると子供たちの親が迎えに来だした。ゴブリン先輩は笑顔で手を振り、それを見送る。そしてまだ迎えの来ない子供たちと保育園の校舎の中に姿を消した。その中には、この前新宿で見かけた女の子の姿もあった。
「じれったいな」蓬原先輩が言った「中では何をしとる?」
そこで綾瀬と大山さんも合流した。綾瀬は眼鏡を外し、それとは対照的に大山さんは眼鏡をかけていた。眼鏡を外した綾瀬はいつにもましてハンサムで、その一方で、眼鏡をかけた大山さんには知的な雰囲気が漂っていた。
「進捗状況はどうですか?」綾瀬が尋ねた。
「今のところ、あまり動きがないな。ターゲットが現れるまで、交代で見張りをしよう」蓬原先輩が言った。
蓬原先輩とぼくは綾瀬と大山さんに見張りを代わってもらい、刑事ドラマの張り込みよろしく、保育園が臨めるコンビニの前であんパンと牛乳を口にした。
「黒木助手」蓬原先輩はすっかり探偵気取りだった。「きみの考えを聞かせてもらおうか」
「ポイントはターゲットの娘さんでしょうね」ぼくも一応助手になりきった。「娘さんは保育園で働くゴブリン先輩と、その保育園に我が子を預けているターゲットの女性を繋ぐ、重要な参考人です。このまま待っていれば、被疑者は必ずや子供を迎えに現れるでしょう」
「見事な推理だ、黒木助手。あたしもそう踏んでいる。あとは時間との駆け引きだな。こういうときこそ我慢が大事だ。そのためにも集中力はしっかり維持しておけ」
「肝に銘じます」
午後六時半になると被疑者(新宿でゴブリン先輩と会っていた背の高い女性)が保育園に姿を現した。ゴブリン先輩は子供を引き渡し、笑顔で手を振る。女性は子供の手を握り保育園を後にした。
「そのままゴブリンも相手の家にしけこまんのか」蓬原先輩が何処か残念そうに言った。
「当たり前でしょう」ぼくは言った。「仕事中なんだから」
「ふむ」蓬原先輩は頷いた。「とりあえずまた二手に分かれよう。あたしと黒木は母娘を尾行するぞ。綾瀬といづきちゃんは引き続きゴブリンを監視しててくれ」
「イエッサー」綾瀬は楽しそうに敬礼をした。
母娘は保育園の近くの古風な小さなアパートメントの二階に入っていった。保育園からは歩いて十分程度だ。そして部屋の窓には温かな明かりが灯った。ぼくらは息を潜めてその様子を眺めていた。
「もう、わかったでしょう?」ぼくは言った。「保育園の子供のお母さんと会っていただけですよ」
「何を言う?」蓬原先輩が言った。「それが理性ある大人としての常識的な行為だときみは思うのか?」
「それは……」
「張り込みを続ける。こういう時は情は捨てろ。被疑者の夫が帰ってくるやもしれん。それは不貞行為の重要な証拠となる」
「ゴブリン先輩に限ってそんなことは──」
そのとき作業着を着たくたびれた男性が、母娘のいる明かりの灯った部屋の鍵を開けて、ドアを開いた。母娘が出迎えて、男性が抱き締める。そのまま、子供の歓声とともに家の中へと入っていった。
蓬原先輩はすかさずスマート・フォンのカメラのシャッターを切った。
「これでわかったろ? あたしの勘は正しかった。ゴブリンは保育園に通う子供の母親と不倫関係にある。すなわち〈クロ〉だ」
ぼくは返す言葉が見つからず、ただ茫然と黙っていた。知らせは綾瀬と大山さんにもすぐに届き、その日は解散となる。ゴブリン先輩は午後八時になると、身支度をしてまっすぐ家へと帰ったらしい。ふと見上げた空には、瘦せ細った三日月が、何だか淋しそうにぽつんと浮かんでいて、ぼくの胸は密かにざわめいていた。
そして次の美術部の部会では、このことがメインの議題に持ち出されることになる。
新宿で母娘と会っていたこと。その光景が仲睦まじい様子だったこと。その娘はゴブリン先輩の務めている保育園に預けられていること。さらにその母親には夫がいること。蓬原先輩はそれらの事実をゴブリン先輩に突き付けた。
ゴブリン先輩は顔を伏せ、しばらく黙ったのちに少女のようなか細い声を発した。
「──好きなんだ」
「え?」──まさかの不倫確定? しかもゴブリン先輩のほうは純愛? ぼくは動揺した。
「子供が好きなんだ」さらにゴブリン先輩は付けくわえた。「とくに幼い子供が──」
それを聞いた瞬間に他の部員みんなが凍りついた。場の空気が張り詰める。
そんな中、大山さんが席から立ち上がり、蔑むように言い放った。
「ゴブリンってロリコンだったんですね」──あたかも足もとに落ちている汚物を見下げるかのような目つきで。
「は! いや、違う! そういう意味ではない!」ゴブリン先輩が必死に弁解した。「ただ純粋に昔から子供が好きなんだ、おれは。教師を志したのも、小学校の教員になりたいからで──」
「じゃあ何で、新宿でデートしてたんだ?」蓬原先輩が言及した。「しかも身なりまできっちり整えて」
「あれはあの子の母親に頼まれたんだ──夫の誕生日プレゼントを一緒に選んでほしいって。母娘ともに懇意にしていたから断り切れなくてな。それにブティックにも寄りたいから、いつもよりちゃんとした恰好をしてきてほしいともお願いされて──」
それを聞いてみんな何故かがっかりした様子だった。つまらなさそうに姿勢を崩す。でもたしかにこれ以上言及することもないのも事実だ。ゴブリン先輩の不倫疑惑は解消され、美術部存亡を賭けた危機は過ぎ去ったのだ。しかしゴブリン先輩が、妙な疑惑をかけられて、本人としては納得がいかないのは誰の目にも明らかだった。みんなで謝罪はしたものの、束の間憮然とした態度と表情だった。
それでもそのあとしばらくは、みんな大山さんの勘違い発言を面白がって、ゴブリン先輩は部員から「ロリリン」と呼ばれる羽目となった。
「ロリリン先輩、おはようございます」
「ロリリンさん、今日もいい天気ですね」
「ロリリン先輩、デッサンのモデルをお願いしてもいいですか?」
「ロリリン、ちょっと仕事を頼む」
「──断じておれはロリコンではない!」
とまあ何だかんだこんな感じで、今日もみんなから愛されているゴブリン先輩であった。それにしても大山さん──早とちりとはいえ──軽蔑のあまり何気にゴブリン先輩のこと呼び捨てにしてなかったっけ?