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7,コバルト・ブルー

 遠のく意識の中、電車の発するガタンゴトンという振動の音が、まるで鼓動を打つみたいに、微かに脳の裏側で響いていた。彼女とともに想い描く、青空の果てのようなコバルト・ブルーの夢から醒めるまで──




 五月になった。樹々は青々と葉を茂らせ、まさしく新緑の候といった塩梅だった。こんな気持ちのいい日には、誰かに宛てて手紙でもしたためたくなる。拝啓──敬具。完。

 部室で温かいお茶を飲みながら無心にせんべいをばりばりと嚙み砕いていると、ソファで寝ころんでいた綾瀬に「もしかしてクロっちって、本当は中身はおじいちゃん?」とからかわれた。大山さんはさっきからずっと椅子に座って熱心に美術部保有の難しそうな絵の教本に、かじりつくように顔を近づけている。ゴブリン先輩の姿はない。蓬原先輩は相変わらずイーゼルにキャンバスを立て掛けて、鼻歌まじりに窓側で筆をとっていた。窓の外では雀がよく通る啼き声で愛を囁き合っている。先月の軽音楽部との騒動も忘れてしまいそうなくらいに平穏な午後だった。

 しばらくすると蓬原先輩が唐突に「しまった」と声をあげた。そのあと筆とパレットを置いて、部室中の棚を開けたり閉めたりし始める。やがて青ざめた表情で彼女は首を横に振った。

「コバルト・ブルーがない」

「コボ《・》ルト・ブルー?」ぼくは言った。

「モンスターの名前ですか?」大山さんが言った。

「あほか」蓬原先輩がすかさず注意する。「コバルト(・・・・)・ブルー──濃い青色の絵の具のことや」

「あれ?」綾瀬が不思議そうに尋ねた。「でも買い置きありませんでしたっけ?」

「この前のバンド対決のポスターとビラ作りで、ゴブリンが持って帰ったのを忘れていた」蓬原先輩は不覚といった具合に手のひらで額を押さえた。

「でもゴブリン先輩って、水彩はあまり使わないんじゃ?」

「いや使ってたろ? ポスターの空の上部に。セルリアンと一緒に混ぜて」

「ああ、たしかに」綾瀬が頷いた。

「あれがないと絵が完成せん」蓬原先輩は神妙な面持ちで言った。「仕方ない。今からみんなで画材屋にいくか。他にも色々と買い足したいしな」

 それを聞いて、綾瀬が突然苦しそうに息を荒げ、胸を押さえて悶え始めた。

「ぐ……僕は昨日徹夜で課題をしていたので身体具合が……お留守番してます」

「むう」蓬原先輩は眉をしかめた。「いづきちゃんはいけるよね?」

「私なら全然──」そこで綾瀬が大山さんに目配せをした。「そー言えば──私も今から絵を完成させなければ我が身に封印されし邪神が解放されてしまう運命さだめおちいっておりますので……手が離せそうにありません」

「何だそれ」蓬原先輩はさらに眉をしかめた。「まあ、いっか。黒木さえいれば。荷物持ちはよろしく。何たって無駄に図体もでかいしな」

「何でおれには都合を訊いてくれないんですか?」ぼくは一応訊いてみた。

 蓬原先輩はシャツの上に鮮やかな水色のウィンド・ブレーカーをさっと羽織り、頭上に淡いベージュのキャップを載せた。

「それは──」蓬原先輩は満面の笑みを顔に浮かべた。「部長命令や」

 そんな大胆な笑顔を向けられてしまうと、何も言い返せるわけがなかった。まあ、どのみち退屈を持て余してはいたんだけれど……


「せっかくなら、都心の大きな店にいくか」と蓬原先輩は言って、ぼくらは四十分間電車に揺られて、新宿に行った。電車に乗っているあいだ、ぼくらはたわいもない会話をし、蓬原先輩は機嫌良さそうに色んなことを話してくれた。ぼくはそれに何度も相槌を打ち、意味を理解できないところにはちゃんと丁寧に質問を投げかけた。何だかデートみたいだ。綾瀬のやつ、変に気を回して、ぼくらを二人きりにしたな──嬉しいけど。

 画材屋に到着すると、蓬原先輩はさっそくスマート・フォンを手に、フォルダーにメモをした買い物リストを確認しながら、店内を色々と物色し始めた。たくさんの画材に囲まれて、彼女は何だかとても楽しそうにはしゃいでいた。やっぱり絵が好きなんだな──その姿にぼくが見惚れていると、蓬原先輩は首をかしげて訊いてきた。「なした?」「いや、いつも買い出しに行っているキャンパスの近くの画材屋より、品ぞろえが豊富なんだなと」「そやろ、来てよかったろ?」彼女はにっと笑った。


「これは──」ぼくは手にしたレコードを前に指先をわなわなと震わせた。

 画材を買い終えると、蓬原先輩が古本屋もチェックしたいと言い出したので、その流れで画材屋の近くの古本屋に立ち寄ったのだが、彼女が中古本のコーナーを巡っているあいだ、ぼくは音楽のコーナーで並んだレコードを一枚いちまい吟味するように物色していた。今ぼくが手にしているのはジャズのレコードである。ぼくにはレコードの蒐集癖しゅうしゅうへきがあった。貧乏な学生にとってはかなり過ぎた趣味なのはもちろんわかっている。でもアナログ・レコードで聴く音楽にはデジタルにはない温かみがあり、まるで演奏者の表情や息づかいまでひしひしと伝わってくるようで、一度そういった感覚にはまると中々戻るのは難しい。肉体を酷使するスポーツ選手がオーダー・メイドの枕やマットレスを使用してしまうと、もう他の寝具では満足できなくなってしまうかのように。もちろんサブスクリプションなどで流行の音楽もマメにチェックはするし、デジタルのほうが音質もきれいだったりはするのだが、ぼくにはどうしてもそれらは一元的でのっぺりとしたサウンドに聴こえてしまう。アーティストの個性が丸まってお上品にラッピングされたような感じで、本当の良さが伝わらない。要は〈生〉っぽさがないのだ。

 そしてぼくが今手にしているアルバムはデューク・エリントンがシェイクスピアの作品をモチーフに作り上げた知る人ぞ知る名盤。〈サッチ・スウィート・サンダー〉。その中でもデューク・エリントンのピアノのイントロで始まる「スター・クロスト・ラヴァーズ」という曲がこの上なく美しい。コロナ禍がまだ始まったばかりのときに、ぼくはラジオから流れてきたその曲に雷で打たれるかのような衝撃を受けて、CDでアルバムを買い求めようとしたのだが、コロナの関係もあって色々と苦心して、手にするのに半年も待たされる羽目になったという経緯がある。ネットでも知る限りではほぼ入荷待ち──つまり在庫切れの代物だ。そんなレコードが今ぼくの手の内にある。新宿のど真ん中にある古書店にこんなお宝が眠っているなどとは到底思わなかった。しかも980円。安すぎる。この機を逃せば次はもうないだろう。ぼくは迷う隙もなく自然とレジ・カウンターへと足が向かっていた。

 古本屋の入り口で蓬原先輩を待っていると、間もなく彼女が現れた。彼女は不審者でも見つけたかのように両手を構えて後ずさった。

「何だ、黒木、えらいにやけてるぞ」

「ちょっといいことがありまして」

「きみはいつも無表情だから、笑うとサイコパスみたいだよ。もしかして待っているあいだにあのむかつく軽音部の部長でもったのか?」

「やだなあ、そんなことするわけがないじゃないですか」ぼくはにっこりと微笑んだ。

 蓬原先輩は何故かぞっとした様子でがたがたと震えた。

「黒木だけは本気で怒らせたあかん……」

「は?」

「まあいいさ」彼女はスマート・フォンの画面を見て時計を確認した。「せっかくまだ時間もあるし、このまま遊びにいこうか」

 ふと見上げると上空の端はまさにぼくらが探していたコバルト・ブルーに染まっていた。

「絵のほうは完成させなくていいんですか?」ぼくはにこにこしながら尋ねた。

「絵の具を乾かすには丁度いい」蓬原先輩は言った。「てか、黒木の笑顔、ほんまに怖い──」

 そう言われても、ぼくの気持ちはしばらくほくほくと温まっていた。


 カラオケ・ボックスの個室に入ると蓬原先輩がリュック・サックから一冊のノートを取り出して手渡してきた。

「何ですか、これ?」ノートを受け取るとぼくは訊いた。

「プレゼント。画材屋で買った。付き合ってくれた礼だよ」

 ぼくは手にしたノートの深いグリーンの表紙をじっくり眺めた。

「スクラップ・ブック?」

「そ。本来は新聞や雑誌の記事を切り抜いて整理するために使うんだが、絵描きは色々とアイディアになりそうなものを何でもそこに収めるんだ。あると便利だから使ってくれ。黒木も部員としてもう二か月だしな。必要かと思って」

 ぼくはいたく感激した。

「ありがとうございます」そしてさらに付けくわえた。「大切にします」

 蓬原先輩は目をそらし、ぶっきらぼうに答えた。

「まあ、用途は自分で考えるといいよ」

 いざカラオケ・ボックスに入ったのはいいけれど、ぼくは──贅沢なのは重々承知してはいるものの──生演奏以外で人前で歌うのがあまり好きじゃなかった。だから不味いホット・コーヒーを飲みながら蓬原先輩の歌をずっと聴いていた。彼女は〈YOASOBI〉や〈ClariS〉なんかの最近の歌をたくさん歌ってくれた。取り立てて歌が上手いというわけではないのだが、地声の効いたほのぼのとして、また愛らしい歌声だった。彼女の高い声にもよく合っている。でもしばらくすると蓬原先輩はもう我慢ならんといった調子で、きみも何か歌え、とマイクをぼくに突き付けた。ぼくはどうせ部長の知らない曲しか歌えませんよ? と何度も念を押したあと渋々〈くるり〉の「ハイウェイ」を歌った。

「うま!」蓬原先輩は驚いた調子で声をあげた。

「全然ですけど、これでも一般の人よりは耳がいいですからね。バンドではボーカルやコーラスもやりますし」

「なぜミニ・ライブで歌わなかった?」

「それは──」ぼくは首を捻った。「声域が低いんですよ、おれ。だからライブで披露した曲はどのみち声が届きません」

「そういうものなのか?」彼女はまじまじと訊いた。

「そういうものなんです」ぼくはまじまじと答えた。


 カラオケのあと、ぼくは蓬原先輩と夕食をともにした。空はオレンジと紫と青のグラデーションに輝いていた。ぼくが夕食の店にファミリー・レストランを提案すると彼女は断固反対した。何で新宿にまで来てファミレスなんだよ、と。でもそんなこと言ったらカラオケだって都内どこにでもあるじゃないかとぼくは思ったけれど、もちろんそれは口にしなかった。焼け石に水だ。そしてぼくらはスマート・フォンでお店を検索し、思案した結果、雰囲気のいい老舗の洋食店に入った。ぼくはビーフ・カツレツにライスの大盛り、蓬原先輩はハヤシライスとサラダのセットを注文し、テーブルに向かい合って食事をした。

「なあ黒木。あれゴブリンじゃないか?」ふと窓の外に目をやって彼女が言った。

 店の外の人混みの中にはたしかにゴブリン先輩の姿が見えた。

「ほんとですね、ゴブリン先輩に見えますね」ぼくも窓の外を見て頷いた。「何かいつもと雰囲気が違うような」

 ゴブリン先輩は髪をきれいに撫でつけて、ぱりっとのりのきいたジャケットを着用している。

「デートかな?」蓬原先輩が言う。

「──かもしれませんね」ぼくが答える。

 しばらくするとゴブリン先輩が遠くに向けて手を振った。するときれいな長身の女性がゴブリン先輩のもとに駆け寄った。

「ビンゴ」蓬原先輩は手でピストルのポーズを作り笑った。

 しかしそのあと、女性のあとから幼稚園児くらいの小さな女の子がゴブリン先輩に走り寄ってきて、勢いよく彼に抱き着いた。ゴブリン先輩は笑顔でそれを抱き上げる。

 ぼくと蓬原先輩は声を失って顔を見合わせる。

「黒木……これはどういうことや?」

「……謎です」

「臭うな」蓬原先輩は手のひらで顔を覆い、鋭い眼光を解き放った。「スキャンダルや」

 ぼくらのことなど露知らず、ゴブリン先輩と背の高い女性と小さな女の子の三人組はとても親しげに、並んで人混みの往来の中へと消えていくのだった。


 新宿から帰るころには、街はすっかりネオン・サインに彩られていて、宵闇が隙間を縫うように影を潜めていた。

「すっかり遅くなっちまったな」目まぐるしく変化する街並みを眺めながら蓬原先輩が言った。

 彼女とぼくは本日の収穫をずっしりと両手にぶら提げていた。そして行きとは反対方向の電車に乗った。車両は帰宅する人々でいくらか混み合っていて、ぼくらはしばらく並んで窓の外を眺めていた。

「部長、荷物重たくないですか?」ぼくは訊いた。「もう少し持ちますよ」

「ん、大丈夫。ありがと」蓬原先輩は答えた。

「半分もらいます」ぼくはそう言って、彼女の右手から紙袋を取り上げた。「少し手が震えているように見えたので」

「この女たらしめ」蓬原先輩は疑わしそうな目つきで微笑んだ。

 電車が調布駅に停まると、ビジネスマンが大勢降りていった。蓬原先輩がぼくの手をつかんで引っ張る。ぼくらは膝の上に荷物を抱えて、無人のシートにくっついて座った。向かいの窓にはビルディングやマンションが矢継ぎ早に流れていき、その壁にはびこる密やかたる窓には不均一に明かりが灯っていた。蓬原先輩は口もとをそっと手で覆い、気が抜けたように小さなあくびをした。どうやら疲れがどっと出たようだ。無理もない。今日一日元気いっぱいにはしゃぎまわっていたのだから。

 そしてぼくたちは、大学の最寄り駅に到着するまでのあいだ、ぐっすりと眠り込んでしまった。いつの間にか、ふたり肩を寄せ合いながら。遠のく意識の中、電車の発するガタンゴトンという振動の音が、まるで鼓動を打つみたいに、微かに脳の裏側で響いていた。彼女とともに想い描く、青空の果てのようなコバルト・ブルーの夢から醒めるまで──

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