6,小さい恋
とくに会話もなく、駅に向かっていると、大山さんが呟くように尋ねてきた。
「──先輩は彼女いるんですか?」
机の上には発砲スチロールでできた小さな球体が置かれている。ぼくと大山さんはそれを真剣な表情で睨みつけながら、抱えたスケッチ・ブック上に鉛筆を走らせていた。セットしたタイマーのアラームが部室内に響き渡る。それと同時に、ぼくらは鉛筆を置き、互いのスケッチ・ブックを見せ合った。
「どうですか、これ?」大山さんはふんすとばかりに言った。「劇的に上達したと思いませんか?」
「こっちこそ、上手く描けた」ぼくも得意げに言った。「よく見てくれ。影にこだわってみたんだ」
「何これ?」傍で綾瀬が唖然として言った。「二人とも、ブラック・ホールでも描いてるの?」
「発砲スチロールです」大山さんが言った。
「発砲スチロールだよ」ぼくも言った。
「細かい部分に目がいきすぎだよ」綾瀬がやれやれとため息を洩らしながら言った。「あからさまに線が歪んでる。もっと全体を見ないと。最初は基本線とかアタリをつけてみて、何度も描き直しながら輪郭を整えるといいよ。あと色も少なすぎるね。もっと鉛筆の硬さを変えてグラデーションをつけたり、タッチの加減で質感を表現したりしないと。大体鉛筆の握り方からして──」
綾瀬の話が長すぎて、ぼくは後半気絶しそうになった。蓬原先輩と違い、綾瀬の説明はくどくどと論理的なのだ。でも大山さんは何度も頷きながら、熱心にスケッチ・ブックの端にメモをとりつづけている。話が終わると綾瀬が「ああ、そうそう」と言って何かを鞄から取り出した。
「大山ちゃん、これあげる」それはねり消しゴムだった。デッサンなどでよく使用される消しゴムだ。消しカスも出ないし、好みの大きさにちぎって使えるから美術部員としては必需品である。
「いいんですか?」大山さんはいたく感激したように言った。
「うん、使って。昨日画材屋のバーゲン・セールでたくさん購入したから。おすそわけ」
「ありがとうございます!」大山さんはねり消しゴムを胸元に握りしめながら勢いよく頭を下げた。
「じゃ、僕は近所のスーパーのタイム・セールが呼んでいるから、そろそろこの辺で失礼するよ。二人は部室の戸締りを頼んだよ」
ぼくと大山さんは頷いて了解の返事をすると、綾瀬は爽やかに片目を瞑って部屋から出て行った。
日が暮れるとぼくは大山さんを駅まで送った。ぼくは自転車を押しながら、彼女と並んで歩いた。道すがら、仲良く手を繋いでいるカップルが何組かいて、何だかちょっと気まずかった。夜の帳は降り、辺りは妙に静まり返っていた。
とくに会話もなく、駅に向かっていると、大山さんが呟くように尋ねてきた。
「──先輩は彼女いるんですか?」
ぼくは突然の質問にびっくりして訊き返した。
「え? 今何て?」
「綾瀬先輩は彼女いるんですか?」彼女は今度こそはっきりとそう言った。
ああ、そういうことか。自分のことかと勘違いして慌ててしまった。大山さんはぼくのことを兄的存在に感じているように思っていたから。でも、よくよく考えてみると、大山さんを美術部に誘ったのも綾瀬だし、彼の前では大山さんも最初は結構どぎまぎしていたな。
ぼくは答えた。
「いないよ」──それは嘘じゃなかった。
大山さんはほっとしたように胸をなでおろす。
彼女はね。ぼくは内心そう思った。綾瀬は筋金入りのゲイだった。彼は自分よりもふたまわり年上の料理人の男性と大学近くのマンションで仲睦まじく暮らしている。でもこのことは綾瀬とぼくとのあいだだけの秘密だった。何でも、高校生のときに綾瀬は同級生の男子に告白をしたところ、そのことがすぐに校内に知れ渡り、彼は気味悪がられて学校中から差別を受け、それ以来教室の隅っこで独り絵を描いて過ごしていたらしい。実家にも疎まれ、LGBTを決して理解しようとも、認めようともしない父親とは殆ど絶縁状態にある。綾瀬がいつも明るくふるまっているのも、そういったうしろ暗い過去を、周囲に悟られぬためだ。本当は誰よりも繊細で敏感なのだ。苦労人である。だからぼくは彼がようやくつかんだささやかな幸せを邪魔したくはなかった。
でも大山さんに何て説明すればいいのだろう? 綾瀬の事情を教えるわけにもいかないし……
ぼくは思いついた。
「でも綾瀬には好きな人がいるみたいだよ」
それを聞いて大山さんの表情は見る見る色を失い、口を開けて固まった。
「──もしかしてめぐみさんですか?」
「え? いや、違う。ていうか何で星名なの?」
「だってめぐみさん、ファン・クラブだってあるし、超絶美人じゃないですか?」
「そうかな?」
「そうですよ!」大山さんはどなった。「ていうか、今の黒木先輩の反応をめぐみさんが知ったら、めぐみさん、ショック死しますよ?」
「どうして?」
「もういいです!」大山さんはむっとして顔をそむけた。「この鈍感! ギターばか! 糞づまり!」
〈糞づまり〉はさすがにあんまりだと思った。
その日を境に大山さんの画力は劇的に飛躍することとなる。彼女が猛烈に練習に励むようになったのだ。部室にはいつも夜遅くまで居残り、暇そうな部員に声をかけては、絵のモデルも進んでお願いするようになった。
でも彼女がこっそり見せてくれたスケッチ・ブックには、頭に王冠を冠して白馬に乗った〈王子様〉の絵ばかりが次から次へと描かれていて、そのモチーフが誰なのかは、ぼくの目には一目瞭然だった。
これが大山さんの、小さい恋の物語──