4,悠久の時を超えて
それを聞いてぼくはようやく大切なことに気がついた。締めつけられるかのようなこの胸の疼きに。
ライブのポスターとビラが完成したという一報を受けて、さっそくキャンパスまで見に行くことにした。日曜日だというのに、掲示板の前には小さな人だかりができていた。
〈花の町大学 ミニ・ライブ〉
出演:よだれイカ
アート・クラブ
開演:4月21日(金) 12:15より
場所:中庭の舞台上にて
観覧無料 来たれ!!
ポスターには迫力のあるタッチで野外ステージとその舞台上で演奏する架空のバンドの姿が描かれていた。こんなにしっかりとしたポスターを殆ど一日で仕上げるなんて、美術部の人たちはすごいんだなと改めて実感していると綾瀬に肩をぽんと叩かれた。
「クロっちも見に来たんだね。宣伝用のポスター」
「ああ、うん。これ、〈アート・クラブ〉ってのがうちのことだよな?」
「そ、美術部だから〈アート・クラブ〉。部長が名付けたんだよ」
「まんまだな」
「わかりやすいほうがいいだろうって」綾瀬は笑った。そのあと訊いてきた。「相手の〈よだれイカ〉ってバンドはクロっちなら知ってるの?」
「〈よだれイカ〉は去年の大学祭でもトリを務めた、ロック、パンク、ファンク、何でもありのミクスチャー・バンドだ。軽音楽部でも断トツで演奏が上手い」
「ひええ」綾瀬はたじろぐように声を洩らした。「勝てる見込みは?」
「正直今のところないな」ぼくはきっぱりと言った。「相手は技術もグルーヴも申し分ない。よく練習しているし、うちみたいに付け焼刃じゃないからな」
「どうしよう?」
「綾瀬」ぼくはふと気になって尋ねた。「このバンド名の並びは出演順か?」
「そうだよ」綾瀬が答えた。「部長同士が公平にじゃんけんで決めたって」
「──じゃあうちが後攻か」
兎にも角にも、まずは練習をしなければならない。何しろ時間が惜しい。ぼくと大山さんと星名はまたスタジオに集まって音合わせをした。ぼくは星名の書いた歌詞にコードをつけて、それをプリントアウトした用紙を他の二人に配った。
「素敵!」大山さんがいたく感激した様子で声をあげた。「主人公の心情が素直に綴られていて、すごく胸を打たれました。素晴らしい歌詞です、めぐみさん」
「あはは、ちょっと散文的だけどね」星名は頭のうしろに手を当てて照れ笑いをした。「黒木くんはどう思った?」
「うん、情景まで思い浮かぶ優れた詩だと思うよ。ただ──」ぼくはそこで言葉を切った。「曲のタイトルが見当たらないんだけれど?」
「それは──」星名は口籠った。「タイトルがどうしても思いつかなくて……黒木くんは曲を作る際、どうやってネーミングしているの?」
「いや、むしろタイトルを決めてから細かいところはあとから肉づけすることのほうが多いかな」ぼくはばっさりと言った。
「そうなんだ……」星名はしゅんと肩を落とした。
ぼくは補足した。
「あとからタイトルをつける場合は、歌詞の中から〈パワー・ワード〉を引っ張ってくるといいよ」
「〈パワー・ワード〉?」
「内容や伝えたいことを象徴するような言葉を歌詞の中から見つけ出して、それをタイトルにする」
「なるほど──」星名は拳を唇に当てて深く考え込んだ。
「あと大山さんなんだけど」
「はい!」大山さんは急に名前を呼ばれて気をつけのポーズをとった。
「演奏はもっと自由に主張してほしい。無理にバンドに寄せようとするんじゃなくて、むしろクラシックの土壌を活かして思いつく限り試してくれないかな? クラシックの経験は大きな財産であり、またそれと同時に武器だから。コードだけじゃなく、前に出てメロディもがんがん弾いてほしいんだ。音が外れても気にしないで。それに多少音がごちゃついたとしても、アイディアが出そろってから、イメージを固めて、期限までにブラッシュ・アップすればいいから。今日から演奏はレコーダーに残しておいて、おれもアレンジを考えるし」
「わかりました!」気をつけの姿勢のまま、大山さんは緊張した面持ちで大きな声で返事をした。
「黒木くん」星名が言った。「歌はどうしたらいいの?」
「テキトーで」
「え?」
「え?」
だって星名はぼくよりも遥かに歌が上手いのだ。おまけに華もある。とくに意見する必要もないと思ったのだけれど──
「星名」練習中に演奏を止めてぼくは言った。「張り切りすぎだ。歌声に情感を込めすぎて、これじゃまるで演歌だよ。歌詞や曲調と全然マッチしてない。もっとしつこくないように歌ってくれ。たとえば囁くような感じで」
「ガーン」
「実際に〈ガーン〉て口にするやつは初めて見た」
しかしショックを受けた星名の歌声は、それを機にどんどんやさしく伸びやかになっていくのだった。
その後も三人で毎日スタジオに出入りし、ぼくの家にも集まって音源を聴き返しては議論を重ね(星名は家に来るたび、何故だかいつも挙動不審だった)、アイディアを出し合い、演奏もまとまり、音にもグルーヴ感が生まれてきた。血と汗の滲むような努力をした結果、みんな何とかコツをつかんできたようだ。ライブの前日に練習を終えたあとには、互いにすっきりとした表情を顔に浮かべて、それぞれが手応えと自信に漲っていた。ほんの数日前とは別人のような、いい顔になっている。
「やれることはやった」ぼくは言った。「あとは本番を楽しむだけ」
大山さんが手を差し出す。ぼくと星名は顔を見合わせ、その上に手のひらを重ねた。
彼女は声を上げた。
「美術部──ファイトー!」
「おー!」
まさに青春だった。たまにはこういうのも悪くない。でも、あれ? 星名って美術部だったっけ? しれっと部員のふりしてないか? まあ、言及しないでおこう。チームワークが乱れたら困る……
軽音楽部とのライブ対決当日の朝、美術部の部室に行くと、蓬原先輩がひとり椅子に腰かけて窓の外を眺めていた。陽の光を受けて、ぼくの瞳には彼女の横顔が何だかやけに眩しく映った。蓬原先輩は晴れ渡る空に漂う雲を遠い目で見つめたまま、顔を動かさずに言った。
「いい天気やな」
「そうですね」
辺りには静寂が──空気がしんとする中、互いが互いに様子を探っているような様子だった。しばらくすると蓬原先輩は少し迷うような仕草をしたあと、おもむろに振り向いた。
「美術部のことは気にするな。前もってこういうことを言うのは反則かもしれないけど、もし負けたとしても絶対──何が何でも──黒木たちは取り返してみせるから。だから──」蓬原先輩はやわらかな笑顔を見せた。「本番、楽しみにしてる」
それを聞いてぼくはようやく大切なことに気がついた。締めつけられるかのようなこの胸の疼うずきに。そしてぼくはこの人のことが、心から好きなんだということに──
悠久の時を超えて、彷徨える無限の果てに、窓から降りそそぐ生まれたての太陽の光線は、慈愛に充ちたかのように、ぼくたちをやさしく包んでいた。