3,曇天にギター
その日は土曜日だった。曇天の下、空気は湿っぽい。テレビの画面上ではお天気キャスターが「本日、東京で雨は降りません」と晴れやかな表情で宣言していたけれど、生温い風を浴びていると、どうにも一抹の不安が拭いきれなかった。
次の日は土曜日だった。曇天の下、空気は湿っぽい。テレビの画面上ではお天気キャスターが「本日、東京で雨は降りません」と晴れやかな表情で宣言していたけれど、生温い風を浴びていると、どうにも一抹の不安が拭いきれなかった。というのも、ぼくらは午前十時に大学の傍にある音楽スタジオに集合したのだけれど、なけなしの金で買った自前の機材をどうしても雨に晒したくなかったから。だから念のため大きなビニール傘を持って行った。そんなぼくを鈍重な空は嘲笑するかのように見下ろしていた。
「星名と大山さんは当然として」ぼくは言った。「何で部長と綾瀬まで来てるんですか?」
音楽スタジオの待合室には、ゴブリン先輩を除いた美術部の面々と星名が、和やかにお喋りをしながら、缶コーヒーやジュースを飲んでいた。
「いちゃ悪いか?」蓬原先輩が言った。
「面白そうだったからつい」綾瀬が言った。
「だって居ても役に立たないでしょう?」
「えらい言われようや」
「そもそもポスターとビラの作成はどうしたんですか?」ぼくは尋ねた。
「それなら肝心の下絵は昨日の晩にあたしと綾瀬で済ませたから、あとはゴブリンに送っといた。ゴブリンの奴はデジタルの扱いが上手いからな」蓬原先輩が言った。
「ゴブリン先輩は教育実習の準備で忙しんじゃ──鬼ですか?」
「何を言う?」蓬原先輩が真剣な顔つきで言った。「美術部存続の危機だよ? それくらいは働いてもらわんと」
「それにあとは色を塗るだけだから」綾瀬が弁護した。「絵描きには色をつける作業が一番楽しいという人が少なくないんだよ。ゴブリン先輩ももれなくその一人」
そうなのか。ぼくは子供の頃から絵に色を塗るのが嫌いで、よく先生に注意されていたものだ。色の彩度が見えないと、ただやみくもに平面を塗りつぶすだけの単調な作業に思えて仕方がなかったから。それが楽しいと思えるなんて、何だかんだうちの部員は絵が好きなんだな。ぼくを除いて……
「あの……」様子を窺っていた大山さんがしびれを切らしたかのように口を挟んだ。「早くスタジオに入りませんか? お金も払っているし、時間もあまりないので」
まさに彼女の言う通りだ──ぐうの音も出ない。
あまりの正論を突き付けられて、ぼくらは顔を見合わせて、それからすぐにぞろぞろとスタジオに移動した。
スタジオに入り、セッティングをしているあいだ、蓬原先輩がドラム・セットの前に座りスティックで──スタジオでレンタルしたのだろうか──騒音の如くスネアやらシンバルを滅茶苦茶に叩いていた。いたく上機嫌に。綾瀬はまた昨夜オンライン・ゲームに興じていたらしく、三時間しか寝れなかったと自慢げに宣言し、スタジオの端でサスペンス・ドラマでよく観る犯行現場の死体のような恰好で熟睡しだした。よくこんなにうるさいところで寝ていられるなとぼくが感心していると、すぐ向かいで星名が床に下したギター・ケースを開いて、中から真新しいライト・ブラウンのギターを取り出した。エレクトリック・アコースティック・ギター──通称〈エレアコ〉だ。
「星名、エレアコ持ってたのか」
「うん、こっちのほうがいいと思って」星名は頷いた。「アンプに繫げたほうが便利でしょ?」
「ああ、そのほうが色々と表現の幅が広がる」
よく見ると星名の抱えたギターには一流メーカーのブランド・ロゴが入っていた。そのブランドは高価なモデルしかほとんど扱わない。見間違いかと思ってぼくは尋ねた。
「そのギターいくらした?」
「え? よくわからない。このあいだ誕生日にお父さんに買ってもらったから──三十万くらい?」
「三十万?」ぼくは声が上ずった。
そういえば星名は〈超〉がつくほどのお金持ちの家庭のご令嬢だという話を以前耳にしたことがあるのをぼくは思い出した。苦学生の自分には到底手が出る代物ではない。実際ぼくが今手にしているエレキ・ギターだって中古で買った傷物だ。格安だった。塗装は剥げ落ち、ブランド・ロゴも消えている。部品もいくつか紛失されていたので自分でパーツを買ってきて直した。でもボディが乾いていて、結構音は鳴る。
星名はよくわからないという顔つきで言った。
「え? それくらい普通でしょ? 軽音楽部の先輩たちだってそれくらい楽器にお金を費やしていたような?」
「いや、一部を除いてさすがに──」それ以上は言わないことにした。
星名がギター・ケースからぐるぐると巻かれたギター・ケーブルを取り出す。入門者用の線の細い代物だった。ぼくはそれを見て言った。
「星名、そのシールド(ギター・ケーブルのこと)は使わないほうがいい。いくらギターが良くても音痩せする。おれの予備があるから、それを使え」
「え? いいの?」
ぼくはギター・ケースのポケットから予備のギター・ケーブルを取り出して、星名に手渡した。
「やる」
星名はぼくからギター・ケーブルを受け取ると、しばらくそれを見つめたまま、わなわなとしたあと固まった。そのあと顔を上げ、深刻そうに言った。
「黒木くん、宝物にするよ。ショー・ケースに飾る」
「いや、使えよ」ぼくはとっさにそう言った。
「あのう……」大山さんがねっとりとした視線をこちらに向けて険のある声で口を挟んだ。「もうとっくにキーボードの準備ができているんですけれど──」
「あ、悪い。こっちも準備オッケーだ」
「わたしももうできる」
しかし星名のギターの音質の調整は結局ぼくがやった。ギターが上質なら細かいことは気にしなくてもいいような気もするが、それでも音が微妙に籠っていて、ちょっともったいなかったので。
「とりあえず、最初はつまみの位置をメモしたり、テープで貼りつけて覚えたらいいよ」ぼくは言った。
「わかった」星名は頷いた。
「うん、いいんじゃないかな」ぼくは言った。
星名と大山さんとぼくの三人で、一応単純なコードを決めてセッションを繰り返したのだが、あっという間に時間が過ぎ、音合わせは終了した。ぼくらはスタジオの近くのカフェで打ち合わせをしていた。
「当初は正直リズム体がいなくてかなり不安だったけど、大山さんのキーボードがリズムも全体の音もかなりカバーできてる。星名も前よりギターが上達したな。しっかりバンドの軸になってるよ」
それを聞いて二人ともほっとした様子だった。
「黒木くんのギター・サウンドも随分変わったね?」星名が訊いた。「以前はポスト・ロックっていうの? そういうずっしりとしたものばっかりだったのに」
「さすがにこの面子であんまり重たいサウンドだとそぐわないだろう。だいいち大衆に向けて披露するわけだし、なるべくわかりやすくしたほうがいい」
「たしかに」練習のあいだほとんど爆睡していた綾瀬がプロデューサーさながらに両腕を組んで深く頷いた。
でも実はぼくは自分のギターの音をそれなりにいじっていた。サウンドに色気を出すようにある程度音を歪ませ、また屋外での演奏を想定して音の返りをよくするためにリバーブやディレイ──つまり空間系の音響効果も足していた。けれどあえてそれは口にしなかった。言っても誰もわからないだろうし──
「それにしても黒木のギターは圧巻だったな」蓬原先輩が言った。「この前の入学式での軽音部の演奏より、よっぽど耳に心地よかったぞ。軽音部が勝負の条件に黒木をほしがってた理由がよくわかったわ」
「正直私も聴き惚れました」大山さんが同調した。「さりげなく難しいことをしているのに、全然難しいことをしていると感じさせないんです。私も一応ピアノを習っていたのでそれくらいはわかります」
何故か星名が誇らしげな表情を顔に浮かべて、張り裂けそうなくらい口角を上げて鼻を鳴らす。
ぼくは言った。
「いや、まだまだですよ」──ほんとに。
「で?」蓬原先輩が訊いた。「あたしは何の楽器を担当すればいいの?」
みんなが一斉に言った。
「何もしなくていいです」
蓬原先輩は口から魂が抜け落ちたように意気消沈した。綾瀬がそれをなだめる。
「とりあえず」ぼくは言った。「明日から楽曲制作だな」
「曲ってどうやって作るんですか?」大山さんが尋ねた。
「それは人によるけど、最初はコード進行から始めるのがベターだと思う。慣れてくると〈リフ〉から起こす場合も多いかな」
「〈リフ〉?」
「繰り返される印象的なフレーズのこと」
「へえ」
「あとはバンドでセッションをして気に入った部分だけを抽出するとか──」ぼくはそこで星名を見た。「とりあえず歌詞は星名に任せるよ。ボーカルだからな。できる?」
「一応アイディアならノートに綴ってあるよ」
「なら明日までにまとめておれの携帯電話に送ってくれ。あとで番号教えるから。曲のほうはおれが書くよ」
「わわわわかった」星名は何処か激しく動揺した様子で声が裏返った。
「それとあとで声域と、ギターの弾ける──あるいは弾けない──コードも教えてくれ」
星名は大きくぶんぶんと首を何度も縦に振った。テーブルに頭突きしそうな勢いだった。
その日の晩にさっそく星名の書いた歌詞がぼくのスマートフォンに届いた。ぼくはそれを繰り返し何度も読み返す。そしてギターを手に取り、このあいだ思いついたギターのフレーズを試しに弾いてみた。期間はあと六日。一日でも早く曲を仕上げなければならない。イメージを膨らませ、ぼくは夜通し作業を行った。窓の外からは時折近所の野良猫が、まるで赤子の泣き声のような喘ぎ声を、辺りに遠くまき散らしていた。