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十一 桜の舞


 ──四年後。


「今度は単身赴任ですか?」

 とぼくは憮然とした態度で訊き返した。

「そうだ」

 と上司が厳めしい顔つきで答えた。

「だってつい先週名古屋への出張から東京に帰ってきたばかりですよ?」

「新人なんだからそれくらいやって当然だ。いいから文句を言わずに経験を積んでこい。お前には見込みがあるからこそ任せているんだ」

 僕は黙った。これ以上反論すると上司が、こっちだって大変なんだ。人を使う者の身にもなれとか言い出して、ねちねちとしたお説教が始まるのが通例だったから。

「それで……、どこなんですか? 単身赴任先って」

 とぼくは諦めて訊いた。

「それはだな」

 そう言って、上司が威厳たっぷりといった風にデスクに両肘をつき、口の前で手を組んで眼鏡のレンズを光らせた。

「バンクーバーだ」

「──へ?」

 ──バンクーバー?

 そのとき、ぼくの頭のなかには、飛行機の飛び立つジェット・エンジンの轟音が鳴り響いたような気がした。


「あはは、それはご愁傷様」

 と綾瀬が電話の向こうで笑った。

 ぼくはマンションの自室の荷物を段ボールに詰めながら、携帯電話の通話設定をスピーカー・フォンにして綾瀬と話をしていた。

「綾瀬こそ証券会社だろ? 人のことを笑っていられるのも今の内かもしれないぞ。明日は我が身と思え」

「ぼくはクロっちと違って立ち廻りが上手いからね。まあ、要領の良さの違い? でもどうせ単身赴任するなら、沖縄あたりがいいな。そこでパートナーと一緒にのんびり過ごしたいよ」

「相変わらず料理人の彼氏と仲がいいんだな」

「フレンチのシェフね」

 と綾瀬が訂正した。

「でもクロっちと久しぶりに逢えるかと思って愉しみにしてたのに残念だよ。商社マンって見かけよりかなり過酷なんだね」

「楽な仕事なんてないさ。まあ、入社してから殆ど東京にいた記憶がないけど」

「それだけ目をかけられているんだよ」

「あまりありがたくはないね」

 ぼくはそう言って段ボールの上にガムテープを貼った。

「そういえば、大山ちゃん、仕事辞めたらしいよ」

「本当に?」

 と僕は訊き返した。

「まだ入社して一年だろ?」

「うん。彼女、保険のセールス・レディをやってたんだけど、毎日客や上司に怒られてばかりで、突然頭がおかしくなって破裂しちゃったんだって。ぼく個人の見解じゃなくて本人の弁だよ? いまは日夜、自宅の部屋に引き籠って小説を書いているらしいよ。出版社の賞レースの公募に送り付けるために、今年中に短篇小説を四本は執筆するって意気巻いてた」

「何にせよ元気に頑張ってるならよかったよ」

 とぼくは言ってクローゼットを開け、スーツをベッドの上に積み重ねていった。

「やりたいことが見つかったのはいいことだ」

「ほんとにね」

 と綾瀬も同意した。

「ゴブリン先輩も、ちゃんと望んでいた小学校の先生になれたみたいだし、たまにまさにモンスターみたいな保護者からの攻撃がしんどいながら毎日が充実してるって」

「何たって〈ロリリン〉先輩だからな」

 とぼくは笑った。

「そういうこと言わない」

 と綾瀬も笑った。

「あ、クロっち。テレビつけて」

「ん?」

「いいから、〈ミュージック・ホーム〉を見て」

 ぼくは部屋のテレビをつけて、綾瀬の言うチャンネルに替えた。画面上では〈MeGメグ〉という、今流行(はやり)のシンガー・ソングライターが星型のエレキ・ギターを抱えながら、バンドをバックに歌っていた。とても力強く、尚且つやさしくて伸びやかな歌声だった。それは星名だった。

「星名ちゃん、いまや手の届かないところまで行っちゃたね」

「そうだな」

「付き合っちゃえばよかったのに」

 と綾瀬が茶化すように言う。

 ぼくは大学の卒業式の日に、星名に告白をされて、それを断っていた。正直かなりびっくりしたので、そのときのことはあまり記憶には残っていない。

 そのあと星名はシンガー・ソングライターへと転身する。SNSで曲がバズり、人気アニメのオープニング・テーマに抜擢されたことがきっかけでブレイクを果たしたのだ。いまや巷では知らぬ者はいない時の人だ。

「星名とはいい友達だよ」

「クロっち、独り身でしょ? 今からでも遅くはないよ」

 と綾瀬が面白がって煽ってくる。

「いや、そういう関係じゃないから」

 でも今でも夜が訪れるたびに、星名からポエティックなメールがスマート・フォンには届けられていた。正直ちょっと怖い。たまに励ましのようなメールを返すくらいだったけど、向こうがそれをどう思っているのかは謎だった。でも彼女とのメールのやり取りが曲作りの基盤になっているのは、彼女の書いた歌詞を確認する限り、さすがに鈍感な僕の目にも明らかだった。

 ──護られた時から心をつかんで離さない黒い大樹、夜な夜な携帯電話を胸に当ててはそれにすがる私……。

「そうそうクロっち。今月の〈ファーブス〉の記事は読んだ?」

「ああ」

 とぼくは何の感情も込めずに答えた。

「蓬原先輩が取り上げられていたね。〈今後世界で活躍する人50人〉に」

「そうだな」

「新進気鋭の現代アーティスト〈エイ・ヨモギハラ〉。〈彼女の手掛けた作品には目にした者全ての心を魅了する輝きがある〉。すごいよね。蓬原先輩こそ本当に遠いところに行っちゃったね」

 実のところ、その記事はぼくも繰りかえし読んだ。雑誌に掲載されていた彼女の絵画は、繊細なタッチはそのままに、重厚で、凄みのあるものになっていた。いまの彼女の作風はぼくの知っていたころに比べて段違いに深度が増していた。

 その記事はちゃんと切り抜いて蓬色よもぎいろ(あとで調べたところ、その表紙の深いグリーンは蓬色だった)のスクラップ・ブックにおさめていた。本当に死に物狂いで勉強したんだろうな。

「そうだな」

 とぼくはそっけなく答えて、段ボールを部屋の隅に積み上げていった。

「疲れたからそろそろシャワー浴びて寝るわ」

「おっともうこんな時間か。ぼくもそうするよ。おやすみ」

「おやすみ」


 羽田からカナダのバンクーバーには直行便で行けた。現地に到着するのには九時間ほどかかった。機内で本を読んで過ごそうと思っていたが、気がつけば眠り込んでしまっていたので、何だかあっという間の気分がした。

 バンクーバーの春は空気が乾いていて、思っていたよりもずっと涼しかった。東京のじめじめとした気候に慣れていると、随分と爽快である。ここでは最低でも二年は過ごせと会社から通達を受けている。まずはホテルにチェックインして熱いシャワーを浴びる。住む家もちゃんと捜さなくてはならない。

 務めている総合商社には、ちゃんとバンクーバーにも支社があり、そこでは新人として小間使いのようにしごかれた。殆ど〈何でも屋〉状態だ。

「黒木、クライアントとの商談を取り纏めてこい」

「黒木、今度のプレゼン用の資料を明日までに搔き集めろ」

「黒木、社用車をいますぐ修理に出してこい」

 ぼくは自分の住む家を見つけるために不動産会社に顔を出す暇さえ与えられなかった。毎晩くたくたでホテルのベッドに顔を突っ伏した。歯磨きだけして、シャワーは朝に浴びよう……。


 ある日、取引先で青い瞳に茶色い髪をオールバックにした、顔色のいい若い男性に握手を求められた。

 男性は、

「You’re truly sincere and a gentleman.(あなたはとても誠実で紳士的だ)」

 と言った。

「Thank you for the compliment.(お褒めに与あずかり恐縮です)」

 ぼくはそう返した。

 それから二人でがっちりと手を握った。

「I trust you.(あなたを信用しよう)Let‘s close the deal.(商談成立です)」

 あとで知ったことだが、相手は世界でもトップ・クラスに勢いのあるベンチャー企業のCEO(・・・)だった。たまたま同席していたのだ。

 後日ぼくは会社で表彰さこととなる。またそれを機に、ぼくの意見も会社で少しずつ通るようになりはじめた。少なくとも耳を貸してもらえるようにはなった。


 その日、外廻りを終えて、会社に直行すべくタクシーの後部座席に乗っていると、窓の外には桜並木が見えた。

 バンクーバーにも桜はあるんだなと思いながら、ぼんやりとただ流れゆく景色を眺めていた。

 桜の木の下で写真を撮っている女の子がいる。ぼくは一瞬我が目を疑った。思わず前のめりになり、運転手に向かって、

「Stop!(停めろ)」

 とどなった。

 運転手が、

「What?(何だ?)」

 と訊き返す。

「Just stop the car!(いいから車を停めろ)」

 とぼくは声を張り上げていた。

 タクシーから降りるとぼくは全速力で駆けだした。桜並木に向かって。

 桜並木の公園では〈桜祭り〉をやっていた。バンクーバーでは四月後半でも桜が咲いている。ぼくは舞い散る桜の花びらにおおわれながら、あたりを見廻した。

 たしかにここにあの(・・)人がいたんだ。見間違いなんかじゃない。見間違うはずもない……。

「黒木」

 と背後から声がした。振りかえると蓬原先輩がカメラを手に茫然と佇んでいた。

「何でここに?」

「それはこっちの台詞ですよ」

 とぼくは言って、溢れそうになる涙をぐっとこらえた。

「たまたま単身赴任でこっちに来ていたんです」

「そうか、あたしは桜を写真におさめにきてた。中々日本に帰れなくてな。それにしても、きみは随分とたくましくなったな。結婚でもしたのか?」

「してません」

「恋人は?」

「いません」

 あたりは賑やかだった。

 お祭りを愉しみに人びとが訪れているのだ。

 青い空の下、桜の木に囲まれていると、日本もカナダも殆どちがいなんてないような気がした。

 彼女は突然意を決したかのようににっこりと笑って、

「黒木──ほんとのこと言うと、あたしはずっときみのことが好きだ」

 と叫んだ。

 何て混じりけのない笑顔をするんだろうとぼくは思った。

「それこそこっちの台詞ですよ」

 蓬原先輩は近づいてぼくのネクタイをつかんで引っ張った。

「顔を下げろ、黒木」

「ちょっと、人が見てますよ」

「何を言う? これが欧米式の挨拶や」

 と彼女は言った。

「気にするな、バカ」

 ぼくはおもむろに頭を下ろす。それに呼応するように彼女はかかとを持ち上げる。あたりは二人だけの世界となる。静謐せいひつな時がその場を支配する。

 しばらくすると彼女は踵を地面につけた。

「やっぱ無駄に図体だけはでかいな、きみは」

「蓬原先輩こそ小さすぎますよ」

 とぼくは言い返した。

 彼女は遮るように、

「黒木、ちょっとそのまま、動かないで」

 と言った。

「はい」

 言って、ぼくは久々にその意図を察した。

 彼女はショルダー・バッグからノートと鉛筆を取りだした。

「まだ持ち歩いていたんですね。クロッキー帳」

「そんなたいそうなもんじゃないよ」

 彼女はそう言って鉛筆を立てながら片目を瞑る。

「ただの安物のノートや」

 彼女は僕の姿をかつかつとクロッキーすると、ノートを裏返して僕に見せた。

「どうよ?」

 ──それは息を呑むほどに美しい、観る者の心を震わすような、魂すら揺さぶるような絵だった。これが彼女の瞳に映る、蓬原エイの世界なのだ。

「すごいです」

 とぼくは見惚れたあとに率直に感想を述べた。

「黒木のクロッキー」

 そう言って、蓬原先輩は笑う。


ご愛読ありがとうございました。

このあと、番外篇もよかったらどうぞ。

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