1,春風
その年の春、ぼくはひとときの恋に落ちた。それは喧騒すら遠のくくらいのすがすがしい春風で、当時としてはこれまでの苦渋をも忘れさせてくれる新たな──そして本物の──初恋の到来であり、またそれと同時に幕切れでもあった。
東京のとある大学の美術部を舞台とした、楽しくもほろ苦い、心震わす青春の物語の序章。
村上宗隆が令和初にしてプロ野球史上最年少の三冠王を獲得し、セ・リーグのMVPに燦然と光り輝いた翌年の春に、ぼくはひとときの恋に落ちた。それは喧騒すら遠のくくらいのすがすがしい春風で、当時としてはこれまでの苦渋をも忘れさせてくれる新たな──そして本物の──初恋の到来であり、またそれと同時に幕切れでもあった。早咲きの桜が雨に打たれ、ぼくらの足もとには丁度淡いピンクの欠片がモザイク模様を描いていた。蓬原先輩は日差しを浴びながら並木の下で熱心に首から提げた重厚な一眼レフのカメラのシャッターを切りつづけていた。桜を写真に収めているのだ。火曜日の、雨上がりの午後だった。
キャンパスの敷地内にある大広間の舞台上ではバンドがリハーサルをしていた。軽音楽部の連中が、部員を募集するためにこのあとパフォーマンスをするのだ。往々にして中途半端なアマチュアにありがちなことだが、歪んだギターの音は芯がつぶれてもこもこしていたし、ボーカルに至ってはマイクから度々ひび割れた甲高い音を響かせていた。リズム体は我関せずといった具合に淡々としている。そしてリハーサルからエンジン全開といった塩梅だった。ふと蓬原先輩はカメラを持つ手を止めて振り返った。
「これ何て曲?」
「レディオヘッドの〈クリープ〉です」ぼくは即答した。
「クリープ?」蓬原先輩はきょとんとして訊き返した。「コーヒーに入れるやつ? 変なの。あたしは牛乳派だな」
「違います。creep──〈いやなやつ〉とか、〈陰気くさいやつ〉っていう意味です。自分のことをそう自虐的に歌っているんです。90年代に世界中で大ヒットした優れた楽曲ですよ。原曲者本人たちはいつからだったか、あまり演奏したがらないみたいだけれど」
「ふうん」蓬原先輩は考える風に宙を見上げた。そのあとふいにカメラをかまえてこっちに向けた。
「ちょっと」ぼくは写真を撮られるのが嫌いだった。昔から自分の写った写真を目にすると、何だか違和感を覚えて気恥ずかしいし、気分だって悪くなる。だから拒否と妨害の意味をこめて手のひらをカメラのレンズに向かってかざした。
「ええやないか、にいちゃん」蓬原先輩はいたくご機嫌だった。「一枚くらい、すぐに済むから……何も減るもんやないし──」何処で覚えてきたのか蓬原先輩は妙な関西弁を使いたがる節があった。でもイントネーションがむやみに誇張されすぎて、兵庫から上京してきたぼくにしてみれば、彼女の口から発せられる関西弁にはもちろん違和感があったし、いわゆる〈エセ関西弁〉としてしか耳に届かなかった。
ぼくはどなった。
「おっさんですか」
カメラのライトがフラッシュした。蓬原先輩は顔を上げて笑う。ぼくのほうはしかめっ面だ。
「ああ……」
「大丈夫だって。ちゃんとハンサムに撮れてる」蓬原先輩は満足げな表情で拳の親指をぐっと立てた。
「そういう問題じゃありません。だいいちぼくはハンサムでもない」
「ううん」蓬原先輩は首をゆっくり横に振った。「悪くないよ、きみの顔。映画にひっぱりだこの名バイプレイヤーみたいで」そして白い歯を見せてにかっと笑った。
大広間にはちらほらと学生が集まっていた。舞台上では、軽音楽部の部長が長髪をかき上げながらたどたどしくスピーチを始める。本番開始といった具合だ。すると蓬原先輩がぼくに呼びかけた。「いこう」
空気は澄んでいた。先ほどの雨が大気中の淀みをきれいさっぱり洗い流したのだ。気持ちがいい。背後で轟轟と演奏が鳴り響く中、ぼくらはキャンパスの離れにある校舎のほうに歩いていった。
美術部の部室に入ると塗料とカーボンの入り混じった匂いがむっと立ち篭めた。誰もいなかったので、ぼくは部屋の明かりをつけた。蓬原先輩は卓上にカメラを下すと、パイプ椅子を引いて座り、そのまま腕を組んでのけぞった。
「ねえ、黒木はさあ、何で音楽やめちゃったの?」
「別に」ぼくはドアを背にして突っ立ったまま顔をそむけた。「とくに理由はありません」
「うそだ」蓬原先輩は即座に声をあげた。のっそりと顔を起こし、こちらを見つめる。「あの部長をなぐったって聞いた」
ぼくは彼女をしり目に、眉間にしわをよせる。
「誰から──」
「みんな知ってるよお。学部でも噂が広まってるう」──あっけらかんとした声の調子で。
ぼくは向かいの窓まで歩いていき、黙って外を見下ろした。校舎の側にある広いコンクリートの歩道上で、ルーズな恰好をした学生三人がスケートボードに乗ってオーリーの練習をしていた。ジャンプするたびに躓いている。どうやらただひたすら同じ失敗を繰り返しているだけで、見た限りでは成功する見込みはなさそうだった。そんなぼくの様子を、蓬原先輩はしっかりと目で追っていた。
「でも学校側としてはとくにおとがめなしだって?」
「はい」──自分でも驚くほど声は低くかすれていた。
「じゃいっか。それにあたしとしてはきみがうちの部に来てくれて嬉しいし。本当だよ?」蓬原先輩は美術部の部長だった。三日前に三年生になったばかりだ。年はぼくのひとつ上。性格はさばさばしているけれど、面倒見がよくて誰からも慕われている。
「そう言ってもらえるのは大変光栄なことですが、部のことを思うのならば、他のクラブやサークルのように新入生の勧誘はしなくていいんですか? 大事な入学式ですよ、今日? この機会を逃すと大量の獲物を他所に獲られちゃいませんか?」
「残りの部員に任せてあるからいーの」蓬原先輩は頭のうしろで両手を組んでまたのけぞり、強調するようにそう言った。「あいつらわりとしっかりしてるし。それに渉外はあたしの正式な担当じゃない。あと正直ね──ここだけの話──あたしとしては現状のままでもとくにかまわないもん」
ぼくはため息をついて振り返った。
「先月入部したぼくを含めても部員が四人って──いくら何でも少なすぎますよ、部長」
「まあね。でも本気で絵に興味のある人は、アート系の学部も存在しないうちみたいな平凡な大学にはまず入ってこないよ──うちらみたいな物好きは別にしてさ。それにわざわざクラブやサークルに入らなくたって、絵の勉強は時間さえあれば本やインターネットで自宅にいながらでもいくらでもできるからね。でもまあ漫研のほうは盛況なご様子で、うちの三倍は部員がいるみたいだけど」ふと蓬原先輩は机の上にあったノートを手にとって、ページをめくって抱え込んだ。「黒木、ちょっとそのまま、動かないで」
「はい」ぼくは彼女の意図を察して動かずに応えた。今から絵のモデルになるのだ。絵のモデルになるのも恥ずかしいのだが、実際やってみると写真に撮られるよりかは断然マシだった。
蓬原先輩はさっそく鉛筆をつかんで、透き通るような目つきをした。瞳が微妙に揺れ動いている。そして鉛筆のとがり具合を瞬時にたしかめてから、あごを引いてかつかつとノートに鉛筆の先を走らせていった。そのあいだぼくは時間を数えながら、蓬原先輩の動作を観察していた。相変わらず筆さばきに迷いがないなと思っていたら、二分三十秒数えたところで彼女は鉛筆をノートから離した。
「どうよ?」蓬原先輩はノートをひっくり返してぼくに見せた。ノート上には、彼女の目に映るぼくの姿が存在した。
蓬原先輩のさっぱりとした態度とは裏腹に、彼女の描く絵はとても精緻である。自らのタッチで光を──あるいは影を──そのまま丁寧に移し変えるのが特徴だ。目がよくないと到底なしえる芸当ではない。速写とは思えないほど正確で生き生きとした絵だった。こうして作業工程を目の当たりにしていないと、もっと時間をかけたスケッチだと勘違いしたことだろう。
「すごいです」ぼくは率直に感想を述べた。
「黒木のクロッキー」蓬原先輩はにへらと笑った。
「以前から指摘しようか迷っていたんですが、ぼくをクロッキーするたびにそれ──黒木のクロッキー──言いますけど……それもやっぱりおっさんみたいですよ」
「何でよ? 正しい言い様やん?」蓬原先輩は抗議した。でもその表情は映画のシーンが切り替わったみたいにすぐにけろりと豹変した。ノートと鉛筆を机の上に置いて、足を組み、椅子の背もたれに片肘をつきながら人差し指の背で鼻の下をさする。「でもまあ、『蓬原エイ』の中身は、実はおっさんなのかもしれないねえ」
ぼくは思い切って尋ねてみた。
「部長、三年生だと早い人ならもうすぐ就活を始める時期でしょう? 卒業後の進路はどうするんですか?」
蓬原先輩は首をかしげて遠くを見やった。
「うーん、わかんない。色々考えてはいるんだけど……普通にオフィス・レデェ? キャリア・ウーマン? でも自己分析がさっぱり駄目で、全然前に進まないんだよねえ」
「絵、つづけたほうがいいですよ。そんなに上手なのに、もったいない。部長の絵は特別ですよ──光の表現の仕方とか、繊細なタッチとか。画家やイラストレーターの平均年収って思いのほか高くないですけど──こう言っちゃ無責任かもしれませんが──部長ならきっと成功します」
「ありがと」蓬原先輩は微笑んだ。「アドバイスは素直に受け取っておくよ。まだ知り合って間もないのに、きみはいつも忌憚のない意見を述べてくれるね。あたしにとってもうとっくに貴重な存在だな」
「単に正直なだけです」ぼくは答えた。
「だから他人もなぐっちゃう?」彼女は見透かすようにさらっと言った。「我慢できないくらいに軽音部の部長が赦せなかった?」
ぼくは何て答えていいかわからずうつむいて黙した。大広間での演奏が微かに部室の壁を突き抜けて聴こえる最中、蓬原先輩はぼくの顔をまっすぐに見つめていた。
彼女は言った。
「でも取り柄だよ、それは。無理に賢く生きる必要なんてないって。たとえ無様でも、自分らしくいたほうがいいやん?──手を出したのはちょっといただけないけどね」
「……ですね」
蓬原先輩がつと席を立ち、振り子の如く腕を振ってすたすたと歩いてきた。そして立ち止まると腰に手を当ててぼくの顔を見上げた。
「何も不躾にきみの過去を詮索したいわけじゃないけどさ、まだ引きずってるよね?――軽音部やめたこと。どうも黒木の雰囲気にずっと影を感じるんだよなあ。もし──仮にきみが、自ずと話したくなったときにはいつでもこのあたしを頼ってくれていいんだからね? これでも一応美術部の部長なんやで?」
「わかりました」しばらくしてからぼくはうつむくのをやめた。そして蓬原先輩を見た。間近で彼女を見ると、少女のように小柄なのを改めて実感した。何ともハムスターみたいだ。ぼくのほうこそいくぶん図体がでかいとはいえ──身長差が三十センチメートル以上もあるのだから当然といえば当然のことなのだが──結果として彼女を見下ろす恰好となった。ぼくは軽くお辞儀をして礼を言った。「ありがとうございます」
「うむ」蓬原先輩はどんと胸を張って頷いた。「苦しゅうない」
同じ美術部の部員の綾瀬がまっさらなスーツを着た女の子を伴って部室に入ってきた。
「部長、入部希望者を連れてきましたよ」綾瀬は屈託のない笑顔で言った。
「でかした」蓬原先輩は凛とした微笑を口もとに浮かべてそれに応じた。
綾瀬は大学の正門前で新入生の娘に声をかけ、まんまとその気にさせたようだった。彼は常に明るく爽やかで、外見や印象にも優れているし、物腰だってやわらかいので相手の懐に入るのが上手いのだ。実際軽音楽部を退部したぼくをすかさず美術部に引き入れたのもこの綾瀬だった。年齢も学部も同じで、一緒に行動することも多かったし、打ち解けてみるとなかなか気の置けない奴で彼の誘いを断る理由もとくに見当たらなかったから。
このようにして先月まで三人しかいなかった我らが美術部は、春から──ぼくも含めて──五人体制へと生まれ変わったのだ。
一学期が始まると、美術部部員全員を前にして、新入部員の女の子がおずおずと自己紹介をした。
「大山いづきと申します。えっと……私……漫画やアニメが好きで、昔から独学で絵は描いていました。よろしくお願いします!」
「一応訊いときたいんだけど、デッサンの経験は?」蓬原先輩が悠然とした態度で質問した。
「その──」大山さんは口ごもった。「──ありません」彼女はひどく申し訳なさそうに頭を下げた。
「いーの、いーの」蓬原先輩は全然気にしなくてもいいという顔つきで手をあおいだ。「顔を上げて」
「はい」大山さんはすぐさま顔を上げたが、もじもじとしていた。視線もあからさまに泳いでいる。
蓬原先輩のとなりの席に座るゴブリン先輩が前のめりに手を組んでおもむろに口を開いた。
「先月入部した黒木なんてずぶのど素人だぞ。恥じる必要はない。これからともに学んでいけばいいんだ」ちなみにゴブリン先輩は美術部の副部長だ。会計も兼任している。
「はい、がんばります」大山さんは勢いよくまた頭を下げた。
「とりあえずいづきちゃんの世話は二年生に任せるよ」蓬原先輩は鷹揚に言った。「ちゃんとやさしいしてあげるんやで」
ぼくと綾瀬がそれにしっかり返事をすると、それぞれに報告も終え、美術部の定例会議もあっさりお開きとなった。軽音楽部に席を置いていたころは、部員の数だって三十人も上回っていたせいで、会議のたびに意見がまとまらず毎度うんざりさせられたものだが、美術部に移ってみると大抵の場合話が早くてありがたかった。手短に談笑だけして解散する時だってある。要は「いい加減」なのだ。でも蓬原先輩は頭がいいから、どこまでネジを緩めても大丈夫なのかきちんとわきまえた上で、クラブの方針だって定めているのだろう。
ぼくと綾瀬は大山さんに部室の中を改めて案内した。とはいっても、何の変哲もないただの教室を部室として借りているだけなので、大して見てまわるほどの代物もないのだが。でも最低限の画材はひととおりそろっており、大山さんはことあるごとに感嘆の声を発した。
「とっても本格的なんですね」大山さんは言った。
「これくらいは普通だよ」綾瀬が答えた。「とくに物珍しくもないさ。基本的な道具ばかり。できればもっと部費で備品を購入してほしいんだけど、いくらせがんでもゴブリンさんが難しい顔をするんだよね──堅実な人だから」そのあと彼はにっこり笑った。「したがって、足りないものは自分で補わなくちゃね」
そうなんだ。結局ぼくも終始感心しきりで綾瀬の説明に耳をかたむけていた。ふと窓側に目をやると、蓬原先輩がイーゼルにキャンバスを立て掛けて楽しげに筆をとっていた。絵を学ぶのに丁度いい機会だといわんばかりに綾瀬が先頭に立ち、ぼくらはその様子を見物しにいった。
「素敵!」蓬原先輩の描いている絵をうしろから覗きこむと、大山さんは歓声をあげた。「とってもきれいな絵。入学式のときの校庭を描いているんですね? 満開の桜が眩しすぎます!」ため息を洩らしたあと、彼女は蓬原先輩に尋ねた。「これは何の絵の具を使ってらっしゃるんですか?」
「水彩だよ」蓬原先輩はてきぱきと手を動かしながら答えた。「透明水彩。観るぶんには油絵のほうが好きなんだけどね──迫力もあるし。でもあたしにはこっちのほうが向いてるみたいで——」
「そうなんですね」大山さんは口もとで両手を重ね合わせながら言った。「部長は本当に絵がお上手なんですね。……もしかしてプロの絵師さんだったりします?」
「まさか」蓬原先輩はあっさり笑って否定した。「アマチュアだよ」
「部長は一貫して自分の描きたいものしか描かないからね」綾瀬が言い添えた。「他人からの発注を受けたがらないんだよ──いくら対価が支払われようとも」
そうだったんだ。頑固というか、わりに偏屈なんだな。でもぼくは少し合点がいった。蓬原先輩の秀でたバイタリティーの源は、好きなことだけをとことん突き詰めるというスタンスに起因しているのではあるまいか、と。そういう研究者──ないし求道者的な資質が、彼女の内側にはしっかりと根づき、たしかな灯火として絶えず存在しているのだ。気がつけばぼくは、その灯火に、ささいな色合いや揺らぎ一つひとつに、いつしか見入ってしまっていた。
蓬原先輩はカラフルな絵の具の染みついたワークシャツにジーンズを着ていた。シャツの袖は肘の下までたくし上げている。ぼくはこれまでに彼女が着飾っているところをお目にかかったことがない。おそらくは、いつでもすぐに絵を描けるように、常にそういったラフな恰好でいることを心懸けているのだろう。でもその姿はとてもナチュラルで、返って彼女の存在感を鮮明にさせていた。
大山さんが尋ねた。
「どうやったら部長みたいに絵が上手になれますか?」
「まず描くことだね」蓬原先輩は言った。「とりあえず描かなきゃ始まんないよ?」
「それが……描いてもあまり上達している気がしないんです」
「だったら視野を広げてよく観察してごらん。より光源を意識したり、距離や角度を変えてみたり、上辺だけじゃなく内側までじっくり透かし見る心持ちで」
「なるほど」大山さんは目を丸くして首を縦に振った。「大変勉強になります」
そのあとも蓬原先輩が大山さんの相談に色々とのってあげているあいだ、ぼくと綾瀬の口を挟む余地はなかった。それどころかむしろ二人とも蓬原先輩の大山さんに対する助言に思わず聞き入っていた。蓬原先輩はぼくと綾瀬を教育する意図で新入部員の指導を任せたのかもしれないが、結局のところ彼女は世話好きなのだ。そして大概のことは何だって的確にこなしてしまう。しまいに大山さんは胸がすいた表情で、軽やかに部室をあとにした。
「とにかくやれることは無限にあるから」話の締め括りに蓬原先輩は言った。「いちいちスランプなんて気にしてもしゃあないやん?」
でもやれることが無限にあればこそ、多くの人間は何から手をつけて良いかわからなくなるのではあるまいか?──ご丁寧なチュートリアルの盛り込まれているロール・プレイング・ゲームとは違って。数多ある星の中で、自分にとって重要なきらめきを、そのかけがえのない欠片さえ見出すのは、存外難しいものなのだ。ましてや街明りに照らされて、不明瞭にぼやけてしまった夜空(もはや夜空といえるのだろうか?)に求めることなぞもう……
帰宅するために十分自転車をこいだあと、部屋にこもってギターを弾いた。午後の講義中に丁度良いフレーズが思い浮かんだので、早く実際に指板の上で再現して確認してみたかったのだ。結局大学の軽音楽部をやめたところでぼくはギターを手放せずにいる。学外で「是非ともうちのバンドに加入しないか?」というオファーもある程度なくはなかったが、ぼくは決心が至らず、その誘いを全部断りつづけていた。一度でもバンドに正式なメンバーとして迎え入れられてしまうと、あとで心変わりして(グループ内での役割や方向性の違いなど、よほど見返りや執着心がなければ、きっかけは探せばいくらでもある)、いざ脱退する段になった時密接で封鎖的な関係性に軋轢が生じ揉めるケースが少なくないのをよく知っていたから(それが厭で決してサポート・メンバーしか引き受けない友人さえいる──そうすればスタジオ代などの金銭的な負担まで優遇してもらえる例だってある)。つまり未成熟で自意識過剰なお年ごろにおいて、バンドを否定されることに属する行為とはすなわち、自分自身をも否定される行為同然なのだ。それを上手く回避して誰のプライドをも一切損なわずに気楽な間柄を維持するには、己が類稀なる幸運の持ち主であることがまず最低条件であろう。つまるところぼくは、軽音楽部の件にくわえて、これ以上身のまわりに遺恨の種を増やしたくはなかった。また万が一、プロのミュージシャンを目指すべく音楽と真剣に向き合っている人たちに対しては、こちらとしても生半可な気持ちで応じるわけにはいかない。そうしないことには相手に失礼に思えたから。
翌朝部室に顔を出すと、蓬原先輩がひとりカッター・ナイフで鉛筆を削っていた。「おはようございます、部長」とぼくが挨拶をすると、蓬原先輩は顔を上げて「おお、黒木、おはよ、丁度いい、暇だったらちょっとこっち来て座れ」と言った。
彼女とぼくは机に向かい合って美術部管理の大量の鉛筆を削った。
「どうやらカッターの扱いにもだいぶ慣れてきたようだな」蓬原先輩が言った。
「美術部に入ってから一応毎日削ってますから」ぼくは答えた。
蓬原先輩が静かに頷く。窓から陽光が射し、部屋には爽やかな空気が舞い込んでいた。カーテンの裾も微かに風に揺れている。麗らかな午前のひとときだった。
「部長はいつも部室に入り浸っているようですが、講義には出なくていいんですか?」前々から疑問だったのでぼくは尋ねた。
「ちゃんと出たよ」蓬原先輩は無造作にそう言った。「二年生まではそれこそ必死にね。もうとれるだけ単位とっちゃったから、ここからは〈イージー・モード〉なの」
ぼくのほうは軽音楽部の活動とアルバイトに追われてしまったため、すでにかなりの単位をとりこぼしていた。今のうちに挽回しておかないことには、いつかつけがまわってくることだろう。
「部長って実は相当根性ありますよね」ぼくは感心して言った。
「そうでもないよ。これまで何度も挫折してる」
「──それは意外ですね」
蓬原先輩はそれ以上何も答えなかった。沈黙が下りる。ぼくらはうつむいてせっせと紙の上で鉛筆を削った。窓から入り込む淡い太陽の光が、部屋のそこかしこに仄かな影を作り出し、蓬原先輩の真剣な表情をより一層浮き彫りにさせた。その眼差しは澄み渡り、曇りひとつ感じられなかった。
「ところで部長──」ほどなくして沈黙を破ったのはぼくのほうだった。「何でこんなに大量の鉛筆を削る必要があるんですか?」
「こうして鉛筆削ってると自然と心が鎮まるだろう?」
ぼくは少し考えてから頷いた。
「たしかに。精神統一している気分になれます」
「そういうことや」蓬原先輩はそう言って穏やかに微笑んだ。額縁に入れて飾っておきたいくらい素敵な笑みだった。
作業を終えるころにゴブリン先輩が神妙な面持ちで部室の入り口から顔を出し、蓬原先輩を手招いた。「エイ、ちょっといいか?」「なした?」「いいから来てくれ」そして二人はそのままどこかへと立ち去った。独り残されたぼくは時計を確認し、後片付けをしてから講義に出席することにした。教室に入ると、後方の席で綾瀬が手を振ってぼくを呼んでいた。
「クロっち」綾瀬が人懐っこく言った。「美術部にはもう慣れた?」
「ああ。みんな親切だし、本当にこんなでいいのかなって思うくらい毎日が平和だよ」
「ならよかった」綾瀬は嬉しそうににっと笑った。
釣り糸を垂らした竿のように背筋の曲がった中年の講師が壇上に現れ、マイクの調子を何度もたしかめた。髪はぼさぼさで、髭の手入れもされていない。声には活力がなく、見るからに顔色も悪かった。おそらく普段から研究室にでもこもっているのだろう。ろくに休憩もとらず、カップ麺ばかり食べている様子をぼくは漠然と思い浮かべた。
講義が進行し、ホワイトボード上の文字をノートに書きつけていると綾瀬が囁いた。
「クロっちは美術部に来てちょっと雰囲気が変わったよね?」
「そう?」
「うん。丸くなった。以前はちょっと近寄りがたいっていうか──こう言っちゃ悪いけど──どことなくすかした感じだったから」
「つい最近まではそういう風に振る舞うのが当たり前だと思っていたからな」
綾瀬は顔にかけた眼鏡の縁を押さえ、指先でペンをくるりと回転させた。
「君が変わったのはやっぱり──」
「うん?」
「蓬原部長のお蔭?」彼は確信めいた表情で言った。
「どうかな」ぼくにはおおよそ判断がつかなかった。
そのあともしばらく綾瀬と行動をともにした。昼休みになると中庭のベンチに座って互いに持参した弁当を食した。大ぶりのタッパーにみっちり詰め込んだ白米が──大体いつも──ぼくの昼食だった。ふりかけも持ってきている。上京して一人暮らしの身の上なのでもちろん自分で用意した。自身の体格や体質のせいかとかく腹が減るし、あまり贅沢もできないので、質よりも量を優先している。それを見かねた綾瀬が食品サンプルみたいに美しく整った卵焼きを半分わけてくれた。
「美味しいでしょ?」綾瀬が訊いた。
「お世辞でも何でもなく──」卵焼きをぐっと呑み込むと、ぼくは感動して言った。「今まで食べた卵焼きの中でいちばん美味しい」
それを聞いて綾瀬は得意げに鼻を鳴らした。
「パートナーが作ってくれたんだ」
「パートナーって……あの料理人の?」
「そう。あのフレンチのシェフの」彼は若干言い直した。
「へえ」ぼくは感心して言った。「仲いいんだな」
「まあね」綾瀬は上機嫌に自らのあごをくっと持ち上げた。
もしよかったら今度クロっちにもパートナーを紹介するよと綾瀬がとびきりのスマイルを顔に浮かべて提案してくれたが、ぼくはその申し出をかたくなに拒否した。そんなことをされても初対面の相手と一体何を話せばいいんだ? ぼくは話題に事欠かない社交的な人間とは程遠いのだ──困る。
綾瀬は終始にこにこしながらぼくの表情を窺っていたが、しばらくすると何かに気づいた様子で前方に視線を向けた。彼は大声を発した。
「大山ちゃん」
見ると大山さんが肩から提げたトートバッグの持ち手を両手でしっかりと握りしめながらグラウンドの側を通り過ぎようとしていた。彼女は立ち止まり、振り返った。
「あ、先輩」
綾瀬が歩み寄る。
「何処行くの?」
「部室です」大山さんはどぎまぎしていた。「すぐにでも形にしておきたいモチーフがあって……」
「感心感心」綾瀬はそう言うと、手をぽんと叩いた。「じゃあ一緒に部室へ行こう」
「本当ですか?」
「うん。クロっちも当然行くよね?」綾瀬がぼくを見た。
「悪い。このあと〈体育〉なんだ」ぼくは断った。
「〈体育〉?」綾瀬がよくわからないという顔つきで訊き返した。「一年のときにとらなかったの?」
「とったさ」ぼくは言った。「でも出席日数が足りなくて落とした」
「あら」きょとんとしたあと、綾瀬はにこやかに言った。「それはご愁傷様」
昼休みが終わるとジャージに着替えて〈体育〉の授業を受けた。一年生に混じって軟式テニスをした。ぼくも含めて集まった生徒みんながもれなく未経験者だったのだが、ラリーが全くと言っていいほどつづかなくてほとほと困惑させられた。というのも、こちらが対面する相手の手前にいくらやさしくボールを返しても、誰も彼もそれを好機とばかりに受け取り、返って勝気満々に大振りをしてミスショットを量産するのだ。ボールは見事枠外に飛んでいく。お蔭でぼくは試合形式の練習に──ほとんど勝手に──全勝し、しまいに授業を受け持っていた先生には「お前には才能があるな」と感心した調子で褒められた。
美術部の部室に戻っても蓬原先輩はまだ戻ってきていなかった。ゴブリン先輩の気配もない。大山さんがデスク上のスケッチ・ブックに向かい、夜更けに帳簿とにらめっこしている主婦の如き顔つきで、握ったペン尻を自らのあごに当てて固まっていた。綾瀬はその様子を見るともなく、部屋の隅にあるソファに寝そべり、開いた本のページを胸の上に載っけてあくびをしていた。
「黒木先輩」大山さんが言った。「ちょっと絵を見てもらえませんか?──アドバイスをいただきたくて」
「絵のことはいまひとつおれにはわからんぞ?」ぼくは言った。「綾瀬に聞いたらどうだ?」
「綾瀬先輩は眠そうなので……何か昨日夜通しでオンライン・ゲームをやっていたとか」
「ふむ」
「それにできれば経験者よりも──」彼女の眼光が鋭くなった。「素人の純粋な意見がほしいなって」
「素人」ぼくは苦笑いした。案外率直な物言いだ。もうちょっと言葉をオブラートに包んでくれてもいいのに。「じゃあたしかにおれは適任だな」
ぼくは大山さんの傍に行き、「どれ」と言って彼女の描いている絵を覗き込んだ。大山さんの絵を観る機会はこれが初めてだ。色鮮やかな世界が眼に飛び込んでくる。
「これは──」ぼくは喉もとに唾を送り込んだ。「ゴリラ?」
「ネコです」彼女は即座に訂正した。
「じゃあこっちはモップ?」
「女の子です」大山さんはむくれた。「大体モップって何ですか? モップって? どう見てもただのかわいい女の子でしょうが?」
ぼくはたじろいだ。
「だって純粋な意見がほしいって──」
「にしてももうちょっと言葉をオブラートに包んでくれてもいいじゃないですか?」──ついさっき同じことをぼくも思った。
「黒木は将来嫁の尻に敷かれるタイプだな」蓬原先輩がさも可笑しそうに言った。
「部長!」ぼくと大山さんは振り向いて叫んだ。「いつからそこに?」
蓬原先輩はぼくと大山さんの背後でずっと腹を抱えて笑っていた。
「ん……いづきちゃんが黒木に絵を見てほしいってお願いしているとこからかな」
「何だ、ほとんど最初からいるじゃないですか」ぼくはため息をついた。「いるなら声かけてくださいよ」
「いやだって、いづきちゃんがあまりに真剣そうだったから」そして指の背で目じりの涙を拭った。「それにしても〈女の子〉を〈モップ〉とは……言いえて妙やな」
「ですよねえ」いつの間にか綾瀬も傍らに立ち、笑いをこらえながら同調していた。
煙が立ち昇りそうなくらい顔を赤らめた大山さんは「からかわないでください」とどなって、耐えきれぬ様子で蒸気機関車みたいに部室から飛び出していった──大事なスケッチ・ブックを置き去りにして。
以後、大山いづき画伯作の〈ゴリラとモップ〉は、きれいに額装されて、部室の壁に飾られることとなる。事情を知らないゴブリン先輩だけは、それを眺めては、不思議そうに眉をしかめるのだった。