89 父との距離
「キャロル!」
侯爵邸を発つ直前だった筈のエーレから、キャロルの意識が戻ったと聞かされたデューイが、整理していた執務も、告げに来たエーレをも放置して、部屋に駆け込んできた。
しかも、エーレ以上に遠慮なく、寝台に寝ていたキャロルを抱き起こす。
「キャロル、よく……1ヶ月半も死の国の前で踏み止まった……っ」
「1ヶ月半⁉ 痛……ったっ! お父様、痛い! です……って、本当に……っ‼」
最初の頃の、横になっていても激痛が走ると言ったような事はなくなったものの、それでも身体を動かす度に、まだ、大なり小なりの痛みは引きずっていた。
しかもやはり、声も思うように出ない。
まさか、イルハルトとの死闘から、そんなに月日がたっていたとは。
「あ、ああ、すまない。勝ち残れなどと、勝手な事を言った自分が何様かと……ヘクターから、どれほど過酷な撃ち合いだったのかを聞いて……」
ヘクターもランセットも、侯爵邸では3本の腕に入る腕の持ち主であり、ロータスが、後継者としても推せると言っていた程の腕前だ。
にも関わらず、キャロルを含めて3人がかりで、瀕死の重傷を負ってまででないと止められなかった――などとは、想像だにしていなかった。
ヘクターの名前を聞いて、キャロルがハッと目を見開く。
ようやく、少し、思った言葉を口に出せるようになってきたのか、父に詰め寄る。
「ヘクター!あ……お父様、最後イルハルトに止めを刺してくれたのは、ヘクターです。だけどその前にランセットの一太刀があってこその……って、ランセット! お父様、ランセットは……っ」
「落ち着け、キャロル。ランセットなら、おまえより少しだけ早く、明け方に意識を取り戻した。死の国の門の前で、おまえに会って、共に戻ると約束してきたと言っていたから、私も……それを信じて待っていた」
「あ……そう、なんですね……なら……良かった……」
キャロルは、心底ホッとしたように、息をついた。
「キャロル。カレルやデュシェルが、カーヴィアルから戻って来るまでには、もう半月ばかりかかるだろう。それまで、こんな、実質数回しか顔を合わせていない父親と、ここで2人になるのは……すまないが甘受してくれ……」
「お父様……甘受などと……私こそ……その、色々とご迷惑を……」
逆に言えば、今日でまだ、会うのが4回目と言う娘のために、皇弟殿下やら先代の弟やら、皇族に色々目を付けられる羽目になっている父に、むしろこちらが忍びない。
――極めつけが第一皇子とか。
ロビー活動すらしていないのに、何故だと思っているに違いない。
「お父様は中庸派でいらっしゃったのに……」
唯一の妻であるカレルに、公都での社交界外交など強要したくなかったデューイが、敢えて中央とは距離を置いていた筈のところを、自分がぶち壊そうとしている。
そんな心境が、顔に出ていたのだろう。
デューイが、キャロルの頭をそっと撫でた。
「どのみち、皇弟殿下がアレでは、遅かれ早かれ頭にきて、第二皇子やその周辺からは、離れていた筈だ。そこは、気にしなくて良い。エイダル公爵は、昔、どこかの伯爵家を潰した辺りから既に目をつけられていて、中央に来いだの行かないだの、口論は日常茶飯事だったしな。それも、おまえのせいじゃない」
子供がいたと分かる頃までは、自覚済みで血の気が多かったデューイである。
ある程度を知るキャロルも、そう言われてしまえば、納得するしかない。
「エーレ殿下に関しては……皇族であろうとなかろうと、一人の父親として、割り切れんだけだからな……」
顔を背けて呟いた、デューイのその声は、全部はキャロルには届かなかった。
「お父様?」
「ああ、いや……キャロル、実は皇帝陛下が危篤でいらっしゃる。エーレ殿下には、早々に公都にお戻り頂かねばならないんだ。そもそも、ここにいらっしゃった事さえ、エイダル公爵からすると、苛立たしかったようだからな」
「……そう、ですよね……」
「おまえが気に病む事じゃない。頑強に居座っていたのは、エーレ殿下のご意志に違いないし、エイダル公爵にしてみれば、自分は独身だし、兄嫁や甥の皇妃は早くに亡くなられているし、世の中の『姫君』と言う人種は、フレーテ妃が基準になっている。エーレ殿下に、今の時期に色恋に溺れるのは勘弁して貰いたいとしか、見えていないんだ」
「色恋に溺れ……って……」
ロクにドレスも着ない自分のどこに、溺れる要素が…と言いたげなキャロルに、デューイがやや、悪戯っぽい笑みを閃かせた。
「為政者には、政務への口出しは不要。妃にはただ、自分を癒して貰いたいと思うタイプと、自分と同じ目線で物が見る事が出来て、自分の後ろではなく、隣を歩いて欲しいと思うタイプとがいる。エーレ殿下や、カーヴィアルのアデリシア殿下は、後者だ。独身のエイダル公爵には、分からんかも知れんがな」
エイダル公爵の「独身」を、デューイが強調しているのは、明らかな当て擦りだろう。
「いずれにせよ『金と宝石に目が眩んでいるようなお妃殿と、ウチの娘を一緒にしてくれるな。娘は、下手をすると、どこかの偏屈独身公爵よりも余程優秀だ』と言い捨てて出て来てやった。おまえの容態が安定したら、今回の後始末を手伝いに戻って来いとか言っていたが、知った事ではないな」
「……お……父様……」
しまった。今回はストッパーの、ロータスがいない。
仮にも現皇帝の叔父に、この暴言は良いのかとキャロルは顔を痙攣らせたが、デューイの表情を見る限り、どうやら、これがエイダル公爵とデューイの通常運転であるらしかった。




