88 目覚め
「殿下。娘は――」
侍女がデューイの帰還を告げてから、ほとんど時間はたっていない。
荷解きや、着替えすら惜しいと言った態で、デューイがキャロルの寝室に、足早に入って来た。
「……っ」
血色を失くして、寝台に横たわるキャロルに、一瞬、言葉を詰まらせる。
「私が侯爵邸に着いたのは、彼女がイルハルトと剣を交えてから、2日後。既に応急処置は済んでいたが、かかりつけ医曰くは、右の上腕骨が見える程に、深く斬りつけられていて、あと少しで、腕ごと落とされるところだったと……」
さすがに、そこまで手紙には書けなかったエーレは、ここで初めて、正確な事実をデューイに告げた。
「彼女専属の護衛と、3人がかりで何とかイルハルトを地に沈める事は出来たものの、その護衛も、一人は腹部を抉られて、彼女同様に昏倒していて、もう一人も、左の二の腕を、骨が見える程に斬りつけられた結果、寝台で身動きが取れない状況…ただ、ヘクター……と言ったかな。唯一、彼は意識があるので、状況は後で確認して貰えれば」
言外に、とても護衛を責められる状況にない事を示唆されたデューイが、憤りのやり場を失くして、唇を噛み締める。
峠は越えていると聞いて、何とか落ち着いたと言った感じだった。
「……これまで、領をお預かり頂いて、有難うございました、エーレ殿下。後は私が娘を看ます。どうぞ殿下は、本来の職務にお戻り下さい」
「……っ」
目に見えて、エーレの表情が揺らいだ。
デューイとしても、彼が本気でキャロルを欲している事は、疑うべくもないと――ここまできて認めない訳にはいかなかったのだが、今はそれ以上の、喫緊の問題があった。
「殿下。陛下のご容態が、抜き差しならないところまできているようだと、エイダル公爵より言付かっております」
「なっ……」
「もしかしたら、殿下がここから公都に向かわれても、間に合わないかも知れない、と。エイダル公爵は、一足先に宮殿に向かうと仰せでした」
「陛下……が……」
「それと、エイダル公爵は、陛下に万一の事があれば、件の書類を使って、公国の病巣は全て切り取った上で、エーレ殿下に次を繋ぐと言い切っておいででした。公爵自身のお人柄に加えて、書類自体の破壊力も大きい。窮鼠が牙を向いて、宮殿内で血を見る可能性も否定しきれません。公爵は、もとより武に優れた御方ではない筈。今日はもう、次の宿に着くまでに日が暮れますから、無理にとは申しませんが、明日には一度、公都にお戻りになられた方が良いと、敢えて献言申し上げます」
公爵自身のお人柄……と、なるべくデューイはオブラートに包んだつもりだったが、要は遠慮斟酌なく、第二皇子派を狩りにかかるだろうと言う事だ。彼は決して穏便に物事を済ませられるような性格ではないのだから。
エーレも、それについては反論が出来なかった。
そして、今はこれ以上、侯爵邸にいられない事にも。
「支度は屋敷の者にさせますから、ギリギリまで、娘の側に居て下さって構いません。私は着替えと…殿下が肩代わりして下さっていた書類の確認を、急ぎ行います。必要であれば、後ほどまとめて確認に、顔を出させて頂きますので……」
「分……かった。では、出発は、明日の朝に……」
エーレの葛藤には、敢えて見て見ぬフリで、デューイが部屋を退出する。
エーレはしばらく、キャロルを見つめたまま、身動き一つ出来ずにいた。
.゜*。:゜ .゜*。:゜ .゜*。:゜.゜*。:゜ .゜*。:゜ .゜*。:゜
陛下が危篤らしいんだ……と、キャロルの脳裏に声が響いたのは、何時ぶりの事だったのだろう。
長く眠っていると言う感覚だけが、キャロルの中にはあった。
「だけど陛下はもう、体調を崩してから長かったし、近頃、公務はずっとエイダル公爵と分担していた。実感が乏しいのは……君からすると、親不孝になるのかな……」
だが今日は、いつもよりハッキリと、エーレの声が聞こえているような気がした。
「キャロル」
頬に触れる掌の感触も、ふわりとくすぐられる程度だったのが、ハッキリと、掌から、彼の体温が伝わってくる。
「いったん、公都に戻るよ。アデリシア殿下からの手紙は、置いて行くから、もし目が醒めたら、目を通しておいてくれるかな。君の決断は、君自身の口から聞きたいから……後を大叔父上に任せても良さそうになったら、また、戻って来る」
吐息さえも、耳元で聞こえるような気がした。
「首席監察官でも、第一皇子でも……もし、皇帝になったとしても、俺の気持ちは変わらないから」
皇帝?
皇子でさえも、容量越えだったところに、更なる爆弾を落とされたようで、キャロルの意識が、いつもより引き上げられた気がした。
「だから君だけは――肩書きの向こう、皆と同じところで跪かないで欲しい。俺の……隣にいて欲しい。お願いだ、キャロル……」
エーレの掌が、頬からゆっくりと首の後ろ側に伸びて行き、ほんの少しだけ、頭を持ち上げられた気がした。
唇に触れる、柔らかな感触は――五年前の、あの日の既視感を、感じさせた。
ゆっくりと瞼を持ち上げたキャロルの瞳に、唇を離して、驚いたようにキャロルを見つめるエーレの姿が映った。
「……キャロル……?」
エーレの顔も、声も、近過ぎて、キャロルも絶句したままだ。
現実の王子様のキスで目が醒めた茨姫――厨二病だと自己嫌悪していたランセットを、全く笑えない状況ではないだろうか。
自分は無意識の内に、そんな展開を年代記に望んでいたのだろうかと、思わせる程に。
目を見開いたまま、一言も声を発しないキャロルを心配したのか、エーレの掌が、不安気に、キャロルのこめかみから、頬の辺りを撫でる。
「キャロル……俺が、分かる?」
「……エー……レ……」
いったいどのくらい眠っていたのか、声を出すのも億劫になっていた自分に、キャロルは少し驚いたが、エーレは、そんな事は些細な事だとでも言わんばかりに、蕩けるような、甘い微笑を浮かべた。
「ああ。それで良いよ。――それが良い」
5年振りに顔を合わせて、あの時のまま、敬称を付けずに、自分を呼んでくれる。
充分だ。
エーレはそのまま、今度は深く、長い口づけを落とした。
あの日と同じ様に。
「ん……っ」
キャロルが驚いたように身体を跳ね上げ、それが右肩の怪我に障ったのだろう。
エーレの唇から逃れた僅かな隙間に「痛っ……」と、声が漏れた。
小さな声だったが、エーレの耳に届くには、充分だった。ごめん! と、愕然としたように、エーレがキャロルから離れた。
「怪我人に何をやってるんだ、俺も……あ、いや、とりあえず、レアール侯爵に知らせてくるから!」
口元に手をやり、僅かな羞恥を見せながら、慌てたようにエーレが寝室を後にする。
見送ったキャロルの表情は――こちらも赤い。肩の痛みも、この瞬間は、どこかに吹き飛んでいた。