87 エーレvsアデリシア(後)
殊、この期に及んでも、キャロルを後宮から下がらせる方法は、実は一つだけ存在している。
それが分かっていて、エーレに退くと言う選択肢は存在しなかった。
「宰相閣下のお心遣いは、有難く伝えさせて頂きます。国内が安定しました暁には、国内の侯爵家から、皇妃をお迎えになる事も検討されていらっしゃるようですので、まずもって、前向きに着手をされるかと」
「…………ほう」
言葉と言う刃で斬り合いをしているように、クルツには感じられた。
手紙のやりとりから感じてはいたが、やはり彼は、アデリシアと対等に会話をする事が可能な、稀有な人物だ。アデリシアの表情に、少なからず場を楽しむ様子が垣間見える。
「今の両皇子に釣り合う妙齢の令嬢が、国内の高位貴族家にはいないと耳にしていたが…些か、情報の精度を欠いていたかな」
「少なくとも皇嗣殿下には、既に決めた〝華〟がおありになり、ずっと、その華が咲き誇るのを待っておられたと言う点では……そうなのかも知れません」
「……その〝華〟が、侯爵家に?」
「侯爵家を飛び立った種が、思わぬところで芽吹いてしまったもので…今は戻って来てくれるのを、待っているところのようですね。ただ、寄り道が多くて…困惑されている事も、また確かです」
エーレとアデリシアの視線が一瞬絡み合い――そしてそれが、やがて笑いへと変わった。
滅多にないアデリシアの笑い声に、困惑したようにクルツが視線を上げると、アデリシアが軽く片手を上げて、ペンを置けと言う風な仕種を見せた。
チラりとエーレも、そこに視線を向ける。
ここからは、非公式と言う事だ。
「……〝手紙の君〟でも、彼女は御せませんか」
「私は……彼女が望む事への手助けをしてきただけですからね。帝国の教育環境が良すぎて、私の想像を遥かに飛び越えて行ってしまった。おかげで、私がずっと、彼女を追いかける側ですよ」
エーレ・アルバート・ルーファスの知識を持って、アデリシア・リファール・カーヴィアルに仕えるのだ。クルツなどが深く考えなくても、無二の逸材に成長するのは目に見えていた。
「まだ、追いかけますか?」
「ええ、もちろん。方法がある事は分かっていますから」
退くつもりはない――エーレの言外の主張を、もちろんアデリシアも感じ取っていた。
堂々と、他国の次期皇帝の婚約者を奪うと言っているのだから、それは公式記録に残せる筈もない。
アデリシアも、エーレが来た時点で、それが分かっていたから、書記を控えさせたのだろう。
まだ婚約段階であり、その上、皇妃ではなく側妃である時点で、抜け道は確かに存在していたのだから。
「彼女からは、自分が刺客を止められなかった場合は、どこかの貴族に毒殺された事にでもして、後宮から名前を消してくれれば良いとは言われていますよ。その発想をさせたのは……貴方なんでしょうね」
エーレが「まだ方法がある」と気付いていなければ、アデリシアも言い出す事はなかった話だ。
「私が直接的に彼女に指示をする事はありません。ただ……件の公爵家失脚の折には、側妃殺害の罪が一つ増えても構いませんよね? と、お願いしたかったのは、確かです。その方法であれば、例え彼女が無事に戻って来たとしても、採れる手立ての筈ですし――」
「――エーレ殿下」
アデリシアが、そこでエーレの言葉を遮って、ふと、表情を改めた。
「私は彼女と、彼女自身が刺客の手にかかった場合は、どこかの貴族に殺されたとする事、生きたまま第二皇子派の手に落ちた場合には、私の妃として外交ルートで取り戻す事、生き残って戻って来た場合には、今後の身の振り方は交渉する――と言う約束を交わして、帝国を発たせました。申し訳ないが、この話に関しては、私も、私の名にかけて、妥協は拒絶させていただく」
「アデリシア殿下……」
「貴方の申し出は、彼女が戻って来て、今後の身の振り方を交渉してきた場合にのみ、お受けしますよ。私とて彼女でなければ、例え政治の〝駒〟であっても、後宮の席までは用意しない。そもそも、今回の茶番が事実になっても、私はいっこうに構わない――と、彼女には伝えてあるのでね」
僅かに息を呑んだエーレに、ただ…と、アデリシアは静かに言葉を続けた。
「敢えて、貴方に塩を送るなら、彼女は茶番を事実にはしたくないようですよ。全力で足掻くつもりのようだ。私も、そこに関しては、邪魔も手助けもしない。彼女がどこまで本気なのかが、全てです。途中で諦められる程度の事ならば、私は彼女を手放さない。それだけの事です」
キャロル次第だ――アデリシアの瞳は、そう告げている。
エーレも、アデリシアから引き出せる妥協は、そこまでだと悟った。
「⁉」
そしてその時、三羽の鳩と、一羽の白隼が、窓の外で羽音を立てて威嚇しあっているのに、二人ともが気が付いた。
「あれは…ディレクトアの〝軍鳩〟?」
「白隼は……部下が、彼女に持たせていた――」
エーレの言葉に呼応して、アデリシアが執務室の窓を開けた。
軍鳩、白隼共に、足には手紙がくくりつけられており、ざっとそれに目を通していく。
二人共、内容はほぼ同じだろうと薄々察していたため、互いに確認を取る事なく、その場で読み進める方を選んだのだ。
「「…………」」
その結果、アデリシアは片手を額に当て、エーレは微苦笑とも言えるため息をついた。
「彼女が異母弟の手に負える筈もないと、分かってはいたが、まさか、ここまでとは……ね」
「ある意味、ディレクトアの王宮を掌握してきていますよ。どうします、エーレ殿下? 異母妹は今更ですが、アーロン殿下とグーデリアン陛下の連名で、彼女を私の皇妃とするのに、障害あっての側妃立后なら、この手紙を役立てて貰って構わない。彼女が遠慮をするといけないので、こちらは内密で送る――と、ありますよ。彼女自身の報告から察するに、これは本当に、アーロン殿下が独断で、グーデリアン陛下から賛同をもぎ取ったのでしょうね。そもそも、ディレクトアにおける彼女の評価は、ここまで高くはなかったのだから」
「……っ」
わずかに動揺の色を見せたエーレに、アデリシアの口元が微かに緩んだ。
「最も、私も彼女との約束があるので、決着がつくまでは、待つつもりではいますよ」
「……逆に言えば、彼女が刺客に捕らえられて人質となった場合には、貴方が、皇妃として、相応の扱いをするよう要求なさる、と言う事ですね。――側妃ではなく」
「そうですね。そうなりますね」
そうなれば、もう、そこにエーレの入る余地はない。人質となった場合には、どれほど渇望しようと、手出しをするなと、暗にアデリシアは言っている。
――それでも。
エーレは己を落ち着かせるように、ゆっくりと瞼を閉じ――そして、顔を上げた。
「彼女が戻って来た場合には、交渉の余地があると言う点では、変わりませんか」
「……そこまでは、彼女と約束をした事でもありますし、覆す事はしませんよ」
「ならば私も、彼女の決着を見守ります。――待ちますよ」
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「アデリシア殿下は、君が交渉をした約束は、遵守すると、帝都で俺に言ったよ。全て君次第だよ、キャロル――と。だとすれば、今……とりあえず君がアデリシア殿下の皇妃になる事は……なくなったと思って良いのかな……?」
エーレの右手が、眠り続けるキャロルの頬に、そっと触れる。
昨日届いたアデリシアからの手紙は、恐らく、クラッシィ公爵家が関与しての「キャロル・ローレンス」の殺害についての話なのではないかと、エーレは予想している。
アデリシアが、キャロルを表に出さない事に関しても、そろそろ限界が来ている筈だ。
「俺は……少しは自惚れていても良いのかな……君が、アデリシア殿下よりも俺を選んでくれたと……」
その時、キャロルの寝室の扉がノックされて、侯爵邸の侍女が、本来の屋敷の主とも言うべきデューイ・レアールが、エイダル公爵邸から戻って来た事を、エーレに告げた。
デューイは、キャロルを案じて戻って来た事ももちろんだったが、公国宰相たるエイダル公爵から、一つの伝言も、同時に預かっていた。
今、白隼はこちら側にあるため、デューイに伝言を託すより他なかったのだろう。
――皇帝陛下の危篤。
それは、エーレがこの雪をおしてでも、すぐさま公都へ戻らなくてはならない事と、同義語でもあった。




