38 該当者は一人
「……エーレ……?」
まずその名前に反応したのは、クルツだった。
口述筆記をしていた手が、一瞬、止まる。
「知り合いか?」
話が終わるまでは、口を出さないと約束しているため、エルフレードはクルツに小声で問いかけた。
「恐らく公国の……首席監察官の事だ。きっかけまでは知らないが、少なくとも4年半くらいは、手紙のやりとりをして、ルフトヴェーク語を含めた、色々な事を彼女は学んでいる。しょっちゅう、単語が分からないと、典礼省の書庫に調べに来ているから、典礼省では、既にちょっとした名物だ」
「……道理で、ルフトヴェーク語がペラペラな訳だよ」
エルフレードの隣で、オステルリッツも頷いている。
「深傷……第一皇子派で、叛乱に巻き込まれて負傷したとでも……?」
顔を上げたクルツと、ヒューバートの視線が交錯する。
ルフトヴェーク語で、確かめるべきかとクルツは思ったが、ヒューバートはそのまま何も言わずに、キャロルの方に向き直った。
『カーヴィアルへ来る事を、躊躇わなかった訳じゃない。来れば国際問題になる事くらいは、俺でも分かる。だが俺も、お嬢ちゃんに確かめないといけない事があった。だから事後承諾で、俺の判断で、あの方をここまでお連れしたんだ』
『確かめたい……こと……?』
ヒューバートの胸倉から手を離して、キャロルが顔を上げる。
『……ここで話して良いのか? 建前だけでも、個人の話としておく方が――』
『ううん。ウチの殿下には、自分が誰の部下なのか――公人であると言う自覚をしろ、何をしたところで、一個人としての話では通らない――って言われてるから…もう、誤魔化しは効かないと思ってる。って言うか、エーレが誰かって言う、そもそもの事を、私に教えてくれたのって殿下だから』
『……マジか。何者だよ、帝国の殿下……』
『掛け値なしの〝天才〟だと思うよ? 公国の第二皇子とか、側近レベルじゃ、絶対に歯が立たないって断言出来る』
『なるほどなぁ……』
『だから、教えて? エーレに、何があったのか。ううん、そもそもどうして、自分が第一皇子だって、私に言わなかったのか……』
『⁉』
口述筆記をしていたクルツが、驚きのあまりペンを滑らせた。
エルフレードとオステルリッツも、第一皇子、と書きかけていたクルツの文字を見て、弾かれたようにキャロルに視線を投げた。
『……皇族の気まぐれで、庶民を揶揄っているとか、思われたくなかったんだよ、あの方は。――本気だった』
『……っ』
『お嬢ちゃん、何か〝約束〟をしていなかったか? その為に、絶対に頑張っている筈だから、負けていられないと、ずっと、ルーファス公爵としての、首席監察官職も続けていたんだ。本来なら、皇太子になった時点で、監察は外れても良かったのに。まあ、監察で公都にいない事が、ある意味縁談避けにもなっていたから、そう言う意味でも、監察官辞めるつもりはなかったのかも知れないがな』
キャロルは完全に絶句しており、書き起こすクルツの文字も、震えている。
他国の皇子、それも皇位継承者であるなら、尚更一連の手紙は、納得だ。
『どのみち今度の外遊で、全て明らかになる筈だった。多分そこでなら、自分が本気でいる事も分かってくれる――そう言って、準備をされていたのは、俺も見てた。だからカーヴィアルへ行くのを、俺も楽しみにしてた』
もしかして……と、小声でクルツに呟いたのは、エルフレードだ。
「アイツが、アデリシアとの噂を歯牙にもかけなかったのって……」
そう言う事には疎い自覚があるクルツも、さすがに、何とも言えない表情を浮かべている。
「手紙の大半は、語学から政治経済までを説いているような代物で、そんな情緒的なものじゃなかった。さすがに一言一句、中を見て訳を教えた訳ではないから、断言はしないが……いや、そうか……手紙の〝彼〟が頻繁に帝王学を説いていたのは、むしろ自分の為だったのか……」
彼女に〝天才の通訳〟としての価値を教えたのは、もちろん、国の中でキャロルの立ち位置を確保させる為だろう。
だが〝王と同じ目線で物が見れる〟事に関しては、ルフトヴェーク公国皇位継承者にも、同じ事が言えるのだ。
「その第一皇子が、手紙の〝彼〟と同一人物であったなら、間違いなく、アデリシア殿下と互角に渡りあえる……」
マジか、と呟くエルフレードの率直さを、さすがに今はクルツも咎められない。
キャロル自身も、こちらの声は聞こえているだろうに、何も言わない。――言えないのかも知れない。
ポツポツと話す、ヒューバートの声だけが場に響く。
『叛乱は……いきなり第二皇子が、宮殿で叛旗を翻した訳じゃない。少し前に陛下の病が篤くなって、皇弟殿下が臨時に政務を執られるようになってから……少しずつ、歯車が狂い始めたんだ』
『……皇弟殿下?』
キャロルも初めて聞く単語――登場人物に、怪訝そうに首を傾げた。
『ミュールディヒ侯爵領から毎年多額の上納を受けている、筋金入りの、第二皇子派。エーレ様が監察で不在がちな事を利用して、実権を握ったんだ。とは言え、それでも後継者は、あくまでエーレ様だ。一時的に政務を執ったところで、よほどの無茶をしなければ、冬を前にわざわざ争う必要もないと、エーレ様も、しばらくそのまま、任せておられたんだ』
『……無茶、したんだ』
『本人は、無茶だとは思っていなかった筈だ。今の内にと、第二皇子派を増やそうとしただけだっただろうから。ただ、その皇弟殿下からの申し入れを、一顧だにせず切って棄てた侯爵が、いただけだ』
『……一顧だにしないって、何か凄い。仮にも相手は皇弟殿下なのに』
『元から、中庸派の人だったからなぁ……正室を持たず、跡継ぎは、平民の寵姫との間に出来た子供。国家式典以外には、公都にさえ来ない。長男は、いずれ侯爵領を継ぐだろうから良いにせよ、病気がちと言われる長女は、遠い南の国で療養中。とは言え、第二皇子とは、年齢が1歳しか違わない。皇弟殿下にしてみれば、この上ない親切だった訳だ。平民の母を持つ、後ろ立てのない「可哀想な侯爵令嬢」を、第二皇子の妃にしてやろう!と』
『……んんっ?』
途中までは、深刻に話を聞いていた筈のキャロルが突然、素っ頓狂な声をあげた。
中庸派。平民の寵姫。貴族社交界とは、ほぼ没交渉。1男1女。長女はルフトヴェークにはいない――そんな「侯爵」は、大陸広しと言えど、1人しかいない筈だ。
『うわぁ……』
キャロルは、ここがどこかも一瞬忘れて、頭を抱えて膝から崩れ落ちた。




