2 華姫の娘
確かさっきまで、深夜の寮で、休校中の読書課題として〝エールデ・クロニクル〟を読んでいた筈――。
突然意識を失い、次に深青が目を覚ました時、何故か自分の姿は、言葉もまともに話せない、赤ん坊だった。
(ええっ⁉)
気持ちは、ガバッと起き上がった筈なのに、これも端から見ると、小さな手足をバタつかせているようにしか見えない。
「ええ、あなたの言いたいことは、良く分かるのよ? 私もそうだったから。けれど、どうしても、自力で歩けるまで一年、ある程度話せるようになるまでは、二年は最低かかるでしょうから……それまでは、私に世話をさせてね、キャロル?」
まるで、自分の戸惑いを察しでもしたかのような柔らかい声に、私はふと、動くのをやめて、声のした方を向いた。
「あなた〝エールデ・クロニクル〟の、華姫の章を読んだのでしょう? 初めまして。私がカレル・ローレンス…華森志帆です」
「ふえっ⁉」
どう言う事かと目の前の女性に詰め寄りたいのに、いかんせん、身体は赤ん坊。目を大きく見開いたまま、手足をバタつかせる事しか出来ず、ポンポンと、頭を撫でられてしまう。
「あなたが話せるようになるのを楽しみにしているわね、キャロル?」
少したってから、自分が八剣深青ではなく、キャロル・ローレンスと呼ばれる存在である事を聞かされたものの、赤ん坊の姿では疑問も反論もぶつけられない。
自分の意思で思うように話せない間、志帆=カレルが、少しずつ〝エールデ・クロニクル〟の事や、現在のエールデ大陸の情勢を、話して聞かせてくれた。
ただ、志帆自身もある日いきなり、目が覚めたら赤ん坊だったと言う、私と酷似した状況だったとの事で、肝心の「何故こうなったのか」――と言うところに関しては、答えようがなかったみたいだった。
「こうなった以上は、この場所で、自分がやりたかった事を叶えていくしかないと思うのよ? 私はフラワーアレンジメントの仕事をするのが夢だったから、この地でそれを叶えた。あなたにも、向こうでやりたかった事があるのなら、出来るだけ、この地でもそれが出来るように私も協力するから、遠慮しないで言ってね?」
(私が……やりたかった事……)
10ヶ月たち、二足歩行と、自らの手で何かが握れるようになったところで、何を置いてもまず、手ごろな木の枝を探して、裏庭の地面に日本語を書いて、志帆との意思疎通を試みる事から始めた。
深青の側からすると、華森志帆と言うカレルの元の名前からして同じ日本人だとは分かるものの、肝心の深青がまだ赤ん坊でロクに話も出来ない以上、志帆の側からはまだ、娘キャロルの内側に眠る「深青」が、どこの何人かも分からない状態でいるに違いないからだ。
この時点で、志帆は既にカレル・ローレンスとしての生活が確立されていて、話す言葉は、ルフトヴェーク訛りのカーヴィアル語だったらしい。
ただそこは表向き、母娘としての血の繋がりが為せる事だったのか、志帆が話す言葉だけは、何故か生まれてすぐの頃から理解が出来ていた。
生後10ヶ月の幼児が、木の枝を不格好に握りしめて地面に書く文字など、元の自分の文字を知る身としては、赤面ものと言って良かったが、それでも最初に「シホさん」と地面に書いた文字を見せた時には、志帆は言葉もなく大粒の涙を零した後、しばらく深青を抱きしめて離さなかった。
後日、街で黒板とチョークを買ってきた、志帆と深青との、2人だけの日本語のやりとりは、その後死ぬまで密やかに続いていく事になる。
カレルとキャロル、日々の母娘の生活があったとしても、自分達が元日本人であると言う事実だけは、お互いに忘れたくなかったのかも知れなかった。
二年たち、舌足らずながら言葉が話せるようになってくると、深青としての意識は、志帆と二人だけの時のこととして、ますます心の奥底に深むようになった。
何故〝エールデ・クロニクル〟の世界に来たのかも分からず、志帆=カレルを見ている限り、元の日本に帰る手段さえも闇の中。
そうなると、否が応でも志帆を母カレルと受け入れて、生きていくしかないと腹を括らざるを得ないのだ。
そして腹を括った「キャロル」は、エールデ大陸の言語をいくつか学ぶところから始めていった。
その時点での二人が暮らしていたのは、カレル・ローレンスが生まれ育ったルフトヴェーク公国ではなく、公国の侯爵領に花を卸していた老夫婦が暮らす、カーヴィアル帝国だった。
帝国中央――帝都・メレディスからは、馬車等を使えば1日半程の中規模の街・クーディアに、老夫婦の家はあった。
ただ花卸と言う職業柄、老夫婦は街にいない事が多く、カレルが身を寄せるまでは、人を雇って屋敷や庭の花の手入れを行なっていたところが、今はカレルが、キャロルを育てながらそれを引き受けていると言う状況だった。
そしてやはり、カーヴィアル帝国でも、カレルの日本仕込みのフラワーアレンジメント技術は珍しいらしく、花屋の経営は、本業の花卸を上回る勢いで順調だった。
その頃になると、深青としての自我とキャロルとしての自我が、自分の中で折り合いが付けられるようになっていたのかも知れない。
手ずから木刀を作って、母親と店の警護も、自主的に始めるようになった。
足りない身長は、反射神経やスピードで補おうと、体力作りも並行して行うようになり、走り込みや素振り、腕立て伏せを行う幼児の姿に、カレルは仰天。
最初は慌ててそれらを止めようとしたものの、一人娘が「八剣深青が望んでいたのは、剣道の高校全国大会で優勝すること。目指していたのは、社会人としては、警察官になって、剣道を続けていくことだった」とハッキリ口にしてからは、周りがどれほど驚いても、それを止める事をしなくなった。
この世界には、日本刀や竹刀はないが西洋剣があり、日本式の警察はないにしても、街には警備隊があり、帝都の宮廷には皇族警護の近衛隊がある。
強くなりたい、自分の手で、無辜の市民を守りたい――「深青」が日本でそんな風に思っていたのなら、キャロルとしても、それに近い事は出来る筈と、カレルは教えてくれた。
そんなある日。
ライバル花店が、人を雇ってカレルの店をめちゃくちゃにしようと乗り込んで来た事があった。
だけど、前世剣道部16歳の3歳児を舐めちゃいけない。
荒くれ者達の足元を、自分の体格に合わせて手作りした手製の木刀で次々なぎ払い、よろめいたところに「突き」技を繰り出す事で、警備隊が駆けつけるまでを何とか凌ぎきったのだ。
本来、中学まで「突き」は試合では禁止。高校でようやく認められる技のため、深青として生活していた頃ですら、技が未熟な自覚はあった。
あれと同じ事をやれと言われれば、次も成功するとは限らない。だけど見た目が3歳児である以上、使える技は何でも使わなければ、やっていられない。
逆に、大の大人とまともに打ち合える筈もないのだから、それしかやりようがなかったとも言えた。
「マジか……何だこの3歳児……」
無謀ではなく、自分に足りない物を理解した上で、母親を守る為、剣を取った――駆けつけたクーディアの警備隊隊長の目に、当時の私はそんな風に映ったらしい。
話の又聞きでは、眉唾としか思わない出来事も、自分達が目撃したなら、信じざるを得ない。そのうち、母親であるカレルからも頼まれた事によって、警備隊に出入りして、本格的な剣の手ほどきを受けられるようになった。
花卸から戻って来た老夫婦が「孫(実際は孫ではないけど、周囲には孫だと説明してあった)が嫁に行けなくなる!」と顔面蒼白になっていたらしいけど、その頃にはすっかりこの規格外幼児を気に入っていた警備隊隊長の「大丈夫だ、アレなら将来、警備隊の誰かの息子のヨメになれる!」とのおかしな太鼓判で、ますます誰も私の訓練を止められなくなった。
そうしてカレルの花屋にちょっかいを出す人間もいなくなれば、その娘もまた、街の名物となっていったのだ。