24 そんな人は知らない
いったい、どうやってアデリシアの執務室から、近衛の宿直室に戻ったのかが、記憶にない。
「エーレ・アルバート・ルーファスって、誰……?」
ルフトヴェーク公国第一皇子。
そんな人は、知らない。
手紙が入った上着のポケットを、きつく握りしめる。
貴族だろうとは、思っていた。ヒューバート達が主と仰いで仕えていた状況から見ても、有力貴族なのだろう、と。
だけど。
〝俺の隣は、ずっと君だけのために、空けてあるよ〟
近衛隊の隊長になった事を報告した時、その返事には「誇れる自分になれそうかな」と、書いてあった。
あの時の約束を、覚えているのだと分かったキャロルは、一瞬躊躇った後に「あなたの隣の席は今、どうなっていますか」と、うっかり返信をしてしまった。
やっぱり出すんじゃなかった、とか散々苦悩して、周りを不審がらせた後の――今朝の、その返事。
カーヴィアル帝国への外遊に随行すると、今朝届いた手紙の、最後の一行。
嬉しかったのに。
「貴方の……隣の席……って……」
何より「深傷を負った第一皇子」は、エーレの事なのか。
知り合った当時でさえ、あれほどの頭脳と腕があったと言うのに。
ルフトヴェーク公国大使館に、今すぐ事実を確認しに行きたかった。
だがキャロルは近衛隊長であり、この帝国では平民市民だ。黙って宮廷を出られよう筈もなければ、大使館に行ったとて、取り次いでも貰えない。
何も出来ないもどかしさを抱えたまま、気が付くと部屋を照らしていた光は、紅い月の光から、朝の陽の光へと、変わっていた。
「隊長、寝てないんですか? 何かあったんですか?」
交代に来た、部下のトリエル・バートが、全く使われなかった風の寝具を見やって、眉をひそめた。
「隊長?」
「……何でもない。サウルは?」
「サウル副長なら、既に殿下の執務室の、控えの間の方へ。今日は大事な会談をなされるご予定だから、交代は早めの方が良い、と」
「……そう」
いつもなら、ここで、有能だが少々口煩い近衛隊副長に対する、悪口やら雑言やらが幾つか返ってくるところだが、この日のキャロルには、それがない。
だがトリエルは、それを会談の重要さ故だと解釈した。
「他の者の点呼と交代、オレがやっておくようにって、サウル副長も言ってたんで、隊長、このまま控えの間の方に行って下さい」
「……分かった、任せる」
軽く、労うようにトリエルの肩を叩いて、キャロルは宿直室を出た。
控えの間に着くと、中には副長以下、近衛隊の隊員が何名かと、ディレクトア王国の軍服に身を包んだ、ロバート・フォーサイス以下、数名の部下たちが、既に待機の姿勢を見せていた。
「これは……フォーサイス将軍、お待たせをしてしまい、申し訳ありません」
キャロルは慌てて頭を下げたが、先ほどと言っても良い昨夜のやりとりで、ある程度を察しているフォーサイスは、片手を上げてそれを制した。
「何、私が早く来てしまっただけの事だ。お気になされる事はない」
「将軍、あれから何か……?」
「いや、特には。やはり一人で先行してきたという事だろうな。その一点が、今日の会談の、大きな鍵を握っているのかも知れない」
宮廷の近衛隊長が、他国の駐在武官と会話をする事は、普段あまりない。キャロルもフォーサイスも、周囲を憚って具体的内容を出さないようにしながら、かろうじて会話を成り立たせていた。
そこへ典礼省の書記官が数名、控えの間へと顔を覗かせた。
今日の会談において、口頭の会話を書き起こす者、そしてそれを隣室にてさらに清書する者達だ。
もともと、石で出来た壁の向こうの会話など、直接聞きとれよう筈もない。こうして、控えの間で主文を清書する段階で、隣室のやりとりを垣間見るのだ。
「おやおや、また今日は多くのご同席で」
「期日の迫った、貴国とルフトヴェーク公国との会談は、双方と国境を接する、我が国にとっても、看過出来ぬもの。打ち合わせと言えど、殿下自ら行われるとあらば、私共としても、軽視出来ぬ事と考え、同席を申し出させて頂いた次第。宜しくお願いする、書記官殿」
フォーサイスが、目の前の初老の首席書記官、ハイザ・リンデに向かってそう一礼する。
その会談が、なくなるかも知れない……などと、微塵も感じさせない態度だった。
「ふむ……フォーサイス将軍は、いささか失礼な申し上げようながら、ルフトヴェーク語は解されるのかな?」
「いや。そこは潔く、書記官殿と近衛隊長殿を頼らせて頂きたいと思っている」
「えらく正直におっしゃるものですな。まぁ、儂に次席のクルツに近衛隊長殿と、3人いれば、意訳や話が曲解する可能性も少ないとは思いますがね」
エーレと手紙のやりとりを始めた頃、上手く訳せずに、書庫で辞書と格闘、リンデやクルツにも聞きまくっていた時代があり、キャロルがルフトヴェーク語には相当詳しくなっている事を、リンデを筆頭に、典礼省の者達はよく分かっていた。
しかも質問内容が、政治経済に派閥力学、戦略や戦術と、およそ10代の少女が語るには高度すぎていたため、現在となってはその知識が、上位の貴族軍人や、典礼省の新人よりも遥かに上である事も、である。
アデリシアの近衛隊長として立つキャロルに、色仕掛けなど、必要ない。それが本人も知らない、典礼省の総意だった。
今回は、キャロルとクルツが直接中に入って、側での待機と会談内容の書き起こし。リンデは控えの間で清書――が、この場で割り振られた、それぞれの役割だった。
「ローレンス隊長。私以外のディレクトア侍従武官は、会談終了まで周囲の警戒戦力として、お使い頂けるだろうか。既にある程度は、近衛隊で割り振られているだろうとは思うが……」
「この控えの間には、副長を残します。あとは部屋の外に散らせるつもりをしていましたので、では、極力この部屋の周囲に散っていただく形で宜しいでしょうか。……サウル、トリエルを呼んで、伝えて」
「は……」
淡々と指示をするキャロルからは、顔色の悪さを除いては、表向きの動揺は伺えない。
お飾りの近衛隊長、と言う陰口を、フォーサイスも幾度か耳にした事はあるのだが、これほど実情にそぐわない噂もない。
手近な部下に、近衛隊と協力して、周囲を警戒するよう指示を出したフォーサイスは、すぐ側の椅子に、わざと音を立てるようにして、腰を下ろした。
「ローレンス隊長。余計な事かも知れないが、少し顔色が良くないようだ。休む訳にはもちろんいかないが、大使が来られるまで、そこに掛けられては如何か」
「フォーサイス将軍」
「何、貴女に立っていられると、私と首席書記官殿と、2人だけが座っていると言う、微妙な空気に耐え辛いだけだ。ここはぜひ、共犯になって貰いたい」
「……お気遣いありがとうございます」
本来であれば、それでも受け入れないところだが、やはり本調子ではないのだろう。フォーサイスの申し出に、ややホッとしたように、腰を下ろした。
フォーサイスは本来、そう多弁な方ではないが、良い機会でもあるし、キャロルの気も紛れるかも知れないと、やや逡巡した後、口を開いた。
「ローレンス隊長。一度伺ってみたいと思っていたのだが」
「……はい」
「聞けばルフトヴェークだけではなく、我がディレクトアや、マルメラーデ、リューゲ自治領も旅をされた事がおありとか。何故、そのような事を思い立たれた?全ての地域を回るには、主要地だけにしたとしても、二ヶ月近くはかかると聞くが」
「ええ、そのくらいかかりました」
「しかも、言葉も同じではない」
「でも、文法の根本が違って、あまり通じなかったのはルフトヴェークくらいでしたよ。国境を接していれば、商人もよく行き来しますから、皆さん御存知なのかも知れませんね。将軍も、こちらへ赴任された際は、そうではありませんでしたか?」
「確かに。着任前に慌てて学んだ面はあるが、もともと、片言ながらでも話せる人間は、結構いる筈だ」
「不自由がないという事は、どこの国も根本は変わらないという事なんですよ。楽園なんて、本の中くらいしかないものなんでしょうかね」
自嘲ぎみなその口調が、常の彼女らしからぬものである事に、少なくとも帝国の全員が、気が付いていた。
「言語が違えど、人間の本質など変わりはせんよ。万人にとっての楽園を説く者など、詐欺師でしかないわ。必ず、誰かの幸福の影で、犠牲になっている誰かがいると、自覚しておいた方が良い」
意外にも、そう口を挟んだのはリンデであり、フォーサイスとキャロルが、興味深げに視線をそちらへと投げた。




