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エールデ・クロニクル――剣姫、紅月に舞う――  作者: 渡邊 香梨
第三章 壊れた世界の紅い月
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24 そんな人は知らない

 いったい、どうやってアデリシアの執務室から、近衛の宿直室に戻ったのかが、記憶にない。


「エーレ・アルバート・ルーファスって、誰……?」


 ルフトヴェーク公国第一皇子。

 そんな人は、知らない。


 手紙が入った上着のポケットを、きつく握りしめる。


 貴族だろうとは、思っていた。ヒューバート達が(あるじ)と仰いで仕えていた状況から見ても、有力貴族なのだろう、と。


 だけど。


〝俺の隣は、ずっと君だけのために、空けてあるよ〟


 近衛隊の隊長になった事を報告した時、その返事には「誇れる自分になれそうかな」と、書いてあった。


 ()()()の約束を、覚えているのだと分かったキャロルは、一瞬躊躇(ためら)った後に「あなたの隣の席は今、どうなっていますか」と、うっかり返信をしてしまった。


 やっぱり出すんじゃなかった、とか散々苦悩して、周りを不審がらせた後の――今朝の、その返事。


 カーヴィアル帝国への外遊に随行すると、今朝届いた手紙の、最後の一行。

 嬉しかったのに。


「貴方の……隣の席……って……」


 何より「深傷(ふかで)を負った第一皇子」は、エーレの事なのか。

 知り合った当時でさえ、あれほどの頭脳と腕があったと言うのに。


 ルフトヴェーク公国大使館に、今すぐ事実を確認しに行きたかった。


 だがキャロルは近衛隊長であり、この帝国(くに)では平民市民だ。黙って宮廷を出られよう筈もなければ、大使館に行ったとて、取り次いでも貰えない。


 何も出来ないもどかしさを抱えたまま、気が付くと部屋を照らしていた光は、紅い月の光から、朝の陽の光へと、変わっていた。


「隊長、寝てないんですか? 何かあったんですか?」


 交代に来た、部下のトリエル・バートが、全く使われなかった風の寝具を見やって、眉をひそめた。


「隊長?」

「……何でもない。サウルは?」

「サウル副長なら、既に殿下の執務室の、控えの間の方へ。今日は大事な会談をなされるご予定だから、交代は早めの方が良い、と」

「……そう」


 いつもなら、ここで、有能だが少々口煩い近衛隊副長(サウル)に対する、悪口やら雑言やらが幾つか返ってくるところだが、この日のキャロルには、それがない。


 だがトリエルは、それを会談の重要さ故だと解釈した。


「他の者の点呼と交代、オレがやっておくようにって、サウル副長も言ってたんで、隊長、このまま控えの間の方に行って下さい」

「……分かった、任せる」


 軽く、(ねぎら)うようにトリエルの肩を叩いて、キャロルは宿直室を出た。


 控えの間に着くと、中には副長以下、近衛隊の隊員が何名かと、ディレクトア王国の軍服に身を包んだ、ロバート・フォーサイス以下、数名の部下たちが、既に待機の姿勢を見せていた。


「これは……フォーサイス将軍、お待たせをしてしまい、申し訳ありません」


 キャロルは慌てて頭を下げたが、先ほどと言っても良い昨夜のやりとりで、ある程度を察しているフォーサイスは、片手を上げてそれを制した。


「何、私が早く来てしまっただけの事だ。お気になされる事はない」


「将軍、あれから何か……?」


「いや、特には。やはり一人で先行してきたという事だろうな。その一点が、今日の会談の、大きな鍵を握っているのかも知れない」


 宮廷の近衛隊長が、他国の駐在武官と会話をする事は、普段あまりない。キャロルもフォーサイスも、周囲を(おもんぱか)って具体的内容を出さないようにしながら、かろうじて会話を成り立たせていた。


 そこへ典礼省の書記官が数名、控えの間へと顔を覗かせた。


 今日の会談において、口頭の会話を書き起こす者、そしてそれを隣室にてさらに清書する者達だ。


 もともと、石で出来た壁の向こうの会話など、直接聞きとれよう筈もない。こうして、控えの間で主文を清書する段階で、隣室のやりとりを垣間見るのだ。


「おやおや、また今日は多くのご同席で」


「期日の迫った、貴国とルフトヴェーク公国との会談は、双方と国境を接する、我が国にとっても、看過出来ぬもの。打ち合わせと言えど、殿下自ら行われるとあらば、私共としても、軽視出来ぬ事と考え、同席を申し出させて頂いた次第。宜しくお願いする、書記官殿」


 フォーサイスが、目の前の初老の首席書記官、ハイザ・リンデに向かってそう一礼する。


 その会談が、なくなるかも知れない……などと、微塵も感じさせない態度だった。


「ふむ……フォーサイス将軍は、いささか失礼な申し上げようながら、ルフトヴェーク語は解されるのかな?」


「いや。そこは潔く、書記官殿と近衛隊長殿を頼らせて頂きたいと思っている」


「えらく正直におっしゃるものですな。まぁ、(わし)に次席のクルツに近衛隊長(キャロル)殿と、3人いれば、意訳や話が曲解する可能性も少ないとは思いますがね」


 エーレと手紙のやりとりを始めた頃、上手く訳せずに、書庫で辞書と格闘、リンデやクルツにも聞きまくっていた時代があり、キャロルがルフトヴェーク語には相当詳しくなっている事を、リンデを筆頭に、典礼省の者達はよく分かっていた。


 しかも質問内容が、政治経済に派閥力学、戦略や戦術と、およそ10代の少女が語るには高度すぎていたため、現在(いま)となってはその知識が、上位の貴族軍人や、典礼省の新人よりも遥かに上である事も、である。


 アデリシアの近衛隊長として立つキャロルに、色仕掛けなど、必要ない。それが本人も知らない、典礼省の総意だった。


 今回は、キャロルとクルツが直接中に入って、側での待機と会談内容の書き起こし。リンデは控えの間で清書――が、この場で割り振られた、それぞれの役割だった。


「ローレンス隊長。私以外のディレクトア侍従武官は、会談終了まで周囲の警戒戦力として、お使い頂けるだろうか。既にある程度は、近衛隊で割り振られているだろうとは思うが……」


「この控えの間には、副長を残します。あとは部屋の外に散らせるつもりをしていましたので、では、極力この部屋の周囲に散っていただく形で宜しいでしょうか。……サウル、トリエルを呼んで、伝えて」


「は……」


 淡々と指示をするキャロルからは、顔色の悪さを除いては、表向きの動揺は伺えない。


 お飾りの近衛隊長、と言う陰口を、フォーサイスも幾度か耳にした事はあるのだが、これほど実情にそぐわない噂もない。


 手近な部下に、近衛隊と協力して、周囲を警戒するよう指示を出したフォーサイスは、すぐ側の椅子に、わざと音を立てるようにして、腰を下ろした。


「ローレンス隊長。余計な事かも知れないが、少し顔色が良くないようだ。休む訳にはもちろんいかないが、大使が来られるまで、そこに掛けられては如何か」


「フォーサイス将軍」


「何、貴女に立っていられると、私と首席書記官殿と、2人だけが座っていると言う、微妙な空気に耐え辛いだけだ。ここはぜひ、共犯になって貰いたい」


「……お気遣いありがとうございます」


 本来であれば、それでも受け入れないところだが、やはり本調子ではないのだろう。フォーサイスの申し出に、ややホッとしたように、腰を下ろした。


 フォーサイスは本来、そう多弁な方ではないが、良い機会でもあるし、キャロルの気も紛れるかも知れないと、やや逡巡した後、口を開いた。


「ローレンス隊長。一度伺ってみたいと思っていたのだが」


「……はい」


「聞けばルフトヴェークだけではなく、我がディレクトアや、マルメラーデ、リューゲ自治領も旅をされた事がおありとか。何故、そのような事を思い立たれた?全ての地域を回るには、主要地だけにしたとしても、二ヶ月近くはかかると聞くが」


「ええ、そのくらいかかりました」


「しかも、言葉も同じではない」


「でも、文法の根本が違って、あまり通じなかったのはルフトヴェークくらいでしたよ。国境を接していれば、商人もよく行き来しますから、皆さん御存知なのかも知れませんね。将軍も、こちらへ赴任された際は、そうではありませんでしたか?」


「確かに。着任前に慌てて学んだ面はあるが、もともと、片言ながらでも話せる人間は、結構いる筈だ」


「不自由がないという事は、どこの国も根本は変わらないという事なんですよ。楽園なんて、本の中くらいしかないものなんでしょうかね」


 自嘲ぎみなその口調が、常の彼女らしからぬものである事に、少なくとも帝国の全員が、気が付いていた。


「言語が違えど、人間の本質など変わりはせんよ。万人にとっての楽園を説く者など、詐欺師でしかないわ。必ず、誰かの幸福の影で、犠牲になっている誰かがいると、自覚しておいた方が良い」


 意外にも、そう口を挟んだのはリンデであり、フォーサイスとキャロルが、興味深げに視線をそちらへと投げた。

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