119 即位式(前)
ルフトヴェーク公国は、さほど宗教が大きな力を持っていないため、通常は、皇帝を除いた最高位の貴族が基本の即位式を執り行う。
今回は、先帝の叔父にあたる、リヒャルト・ブルーノ・エイダル公爵が、当該する最高位貴族であった。
まず、最高位貴族が、月桂樹の葉が浮かぶ「聖水」を王笏に振りかけた後、これを新皇帝に授与。
新皇帝が執行人たる最高位貴族の前で「正義と法を遵守する」と言う内容の宣誓を行い、最高位貴族より、絹の法衣と皇冠を更に授与された後、玉座に着席。
列席者全員がその場で片膝を突き、新皇帝への忠誠を誓う――と言うのが、一連の流れであると、キャロルもデューイから聞かされていた。
その後に、新皇帝が玉座にて、参列貴族からの祝辞を受けるところまでが、即位式典の全容らしい。
参列貴族の規模によっては、過去、5時間くらいかかった事もあるそうだが、今回は先帝の喪明けすぐである事や、雪のため参列出来ない貴族が一定数いる事もあり、恐らくは、半分以下の時間で済むだろうと思われた。
むしろ、それを狙って、この時期にしたのではないかと言われている程だ。
そして今回、新皇帝即位に匹敵する衝撃を貴族界に与えたのが、ミュールディヒ侯爵家の失脚と、レアール侯爵家の台頭だった。
そもそも、当主デューイ・レアールさえ、滅多に中央に出て来なかったところが、掌中の珠と噂されていた、美貌の令嬢を伴っての、侯爵席最前列の着席である。話題にならない筈がなかった。
エイダル公爵家の侍女達が、これでもかと言う程に張り切ってキャロルを着飾った結果、デューイでさえ目を瞠り、エイダルに至っては「…詐欺か」と呟くような、渾身の力作が、そこには出来上がっていた。
キャロルとしては、土台が良すぎるエーレの正装の破壊力が、半端ない事が分かっていたので、このくらいハリボテ加工して貰って、ようやく気後れせずに、並び立てそうなくらいだった。
結果、旧第二皇子派からの怨嗟がデューイに、あわよくばエーレの妃狙いだった、他家のご令嬢や、その父親からの怨嗟がキャロルの背中に、それぞれ突き刺さっていた。
「だから、中央に出てくるのは面倒だったんだ……」
デューイ・レアールが、ミュールディヒ侯爵家の事実上の失脚によって、空席となっていた軍務大臣職に、新たに就く事も発表されているだけに、口さがない貴族達の中には、「レアール侯が、娘を使って新皇帝に取り入った」と言う者も一定数いたのである。
「申し訳ありません、お父様……」
貴族席で、小声で呟くキャロルに「おまえは気にするな」と、デューイも小声で返した。
「元はと言えば、あそこで王笏を振り回している、どこぞの公爵が悪いんだ」
「振り回して、って……」
思わず苦笑しながら、王笏に聖水を振りかけるエイダルを見たその時、キャロルは急な「違和感」を覚えて、ふと、眉を顰めた。
左側の耳を澄ます仕種を見せながら、一瞬、瞼を閉じる。
「キャロル?どう――」
どうした、と言いかけたデューイの声は、最後まで発せられなかった。
「いた、そこに……っ!」
カッと目を見開いたキャロルは、その場で椅子の下に屈み込む仕種で、ドレスの裾を捲って、右のふくらはぎに絡ませてあった、小石付きの長糸を解いた。
「おまえ何を……っ」
貴族令嬢らしからぬ、一連の動作にデューイが目を剥いたが、キャロルはそれどころではないとばかりに、長糸を手に立ち上がった。
それと同時に、場内の奥、エイダルやエーレが立つ位置のさらに向こう側から、短剣を手に走り込んで来る人影が、デューイの視界にも飛び込んで来る。
「フレーテ妃⁉ 馬鹿なっ、なぜそこから! 警備はどうした!」
「認めないわ……っ! おまえ如きが、次期皇帝などと‼」
儀式用の宝剣しか腰に下げていない列席者は、エーレを含め、事実上丸腰だ。警護も部屋の出入口を固めていた為、皇族用出入口から駆けこんで来たフレーテ・ミュールディヒに対して、全員の反応が、一歩遅れたのである。
――ただ一人を除いて。
デューイの横をすり抜けて、貴族席から飛び出したキャロルは、野球のサイドスローの要領で、小石が付いた方の長糸を、走り込んで来る女性に向けて、投げた。
「なっ⁉」
それはちょうど、短剣の刃の部分に幾重にも絡みついたが、恐らく、天蚕糸に近いと思われるこの長糸は、案の定、刃そのものに絡みついても、切れない。
キャロルが思い切り糸を引っ張ると、それはあっと言う間に非力な襲撃者の手を離れて、宙を舞った。
左手で短剣の柄を掴んで、その「凶器」を回収したキャロルは、同時に、空いた右手で襲撃者の右手首を掴むと、有無を言わさず床に引き倒して、片足で上から押さえ込んだ。
右肩に一瞬痛みが走って顔を顰めたものの、女性一人を引き倒すくらいなら、なんとかなるだろうと思っての動作だった。
そしてそのまま、さも、心配だとばかりに駆け寄って来た、祭祀担当官の喉元に、ピタリと短剣の刃を当てる。
「その法衣の下の、物騒なモノから、手を離そっか。仮にも先帝の側室を煽るだけ煽って、失敗したら口封じは、ナシだよね。それとも、アルバート陛下を刺すつもりだったかな? 多分コレ、刃に毒塗ってあるでしょ。ああ、否定するなら、アナタで試すだけだけど。やってみる?」
「ぐっ……」
「まぁ、祭祀担当官だったら、警備の担当外の皇族扉でも、手引き可能だものね。お金? それとも、ご実家がそっち方面とか?」
片足で踏みつけた、ドレス姿の女性とは、もちろんキャロルは初対面である。
だが現状、この状況下でこれを企むなら、フレーテ・ミュールディヒ以外にはないとの消去法と、デューイが叫んだ事とで、確信を得たのである。
「キャロル⁉」
駆け寄りかけたエーレを視線で遮ったキャロルは、騒然となりかける中で、更に叫んだ。
事前に会場内をブロック割して、指示を飛ばしやすいようにしておいたのだ。
「ヒュー! D―4の最後尾席二人と、B―3の前列席一人と、グルだから、外に出さないで! ルスラン! A側の窓に、雇われのご同業が張り付いてるから、剥がして!」
「馬鹿な……全員を把握していた、だと……⁉」
呻く男に、キャロルが冷ややかな目を向けた。
「最初から把握していた訳じゃないけど、殺気は隠せてないし、周りと違う行動で逃げようとするし、それこそ素人が何言ってんだか。ソユーズ宰相書記官、いらっしゃいます? エイダル公爵は、まだ儀式途中なんで、この人達いったんお預けしても?」
「……ええ、まあ…預かります、が……」
どこにいたのか、ファヴィル・ソユーズが、祭祀担当官の真後ろに、苦笑混じりに音もなく現れた。
「我々の完敗ですね、キャロル様。我々はもっと、あらゆる可能性を警戒しなくてはならなかった。まさか、その格好でまで、武器を仕込んで警戒しているとは、思いもしませんでした。下の連中が、貴女に新しい暗器を試させたがる筈だ。長糸だけで、それだけの活用術を見つけられるのですからね」
「そこに勝ち負けは求めてませんって。ただ留学先の方が、今よりもうちょっと物騒だっただけですから」
何しろ、カーヴィアル帝国において、現時点でただ一人の皇子であり、なおかつ天賦の才を持つ宰相閣下の周りは、危険とトラブルの宝庫だったのだ。
警戒は、し過ぎるくらいで、ちょうど良い
――と、キャロルは学んでいる。
会話の合間に、ファヴィルの合図で〝黒の森〟に属する一人であろう青年が駆けつけて来たが、彼はキャロルには軽く会釈をしただけで、すぐに祭祀担当官の方を連れて、奥へと下がって行った。
ファヴィル自身は「側室を踏みつける侯爵令嬢などと、聞いた事もありません」と、頭を振りながら、キャロルの足元から、憤怒の表情を見せるフレーテを引っ張り上げる。
そう言えば、自分の存在は、公国のためにならないと、イルハルト経由で言われていたな……と、フレーテの視線を臆す事なく受け止めていたキャロルだったが、自らが名乗るよりも先に、エイダルの方が、そこに割って入った。




