アルトリアス伯爵の受難
フィーネ・アルトリアスはアルトリアス伯爵家に嫁いでまだ一月しか経っていない、いわゆる新婚である。
しかし彼女は今、暖かな日差しの入るサロンで憂鬱な表情で嘆息していた。
「ジェリー、旦那様は今日も?」
「……はい、お忙しいと……」
「そう」
すぐ傍にいた侍女の返答に目を閉じる。
再び出そうになった嘆息をお茶で無理矢理飲み込んで、眼を開けたフィーネは美しく咲き誇る庭の花々を見やった。
「……お仕事が好きならば、お仕事と結婚すればいいのに」
ぽつりと呟かれたその言葉に、侍女は答えられなかった。
*****
ヴァン・アルトリアスは由緒正しきアルトリアス公爵家の三男で、文官として国内最高峰の能力を持っていた。
この度、婚約者であったフィーネと結婚したことで公爵家が持つ伯爵位を譲り受け、分家の当主となった経緯を持つ。
しかし領地は持たない、宮中での仕事を専任する貴族である。
実家の公爵家は広大な領地を持つが、各地を配下の貴族に治めさせ、それを公爵家の当主に次期当主である長男が監督し、次男はそのサポートで領地内を巡回しているという体制が出来上がっていて、しかも上手くいっているので三男の彼の出番がない。
文官としての能力がいくら高かろうとも、領地経営のための文官組織もあり、いまさら入った所で……という悲しき理由もあった。
その能力を買われ、王太子直々に王宮に誘われたこともあって王宮に就職した。
のだが。
「おい、ノーム地方の書類は?」
「す、すみません! ま、まだこれからですぅ!」
「はやくしろ! ドレコ領のもだ!」
「しばしお待ちを!」
彼の執務室は毎日が戦場のように騒がしい。
それというのも、彼の能力が高いからと、王太子が様々な部署に声をかけ、その仕事を彼に任せていたからだ。
王太子曰く、
「お前なら出来る! うん! 我が王国の未来のために頑張れ!」
いい笑顔でヴァンにそう言い放った。
いくら王族とはいえ、無責任が過ぎる。
ヴァンも反論しようとしたが、不敬罪、の一言で押し黙らざるを得なかった。
無責任な人間であろうとも相手は王太子。王族に逆らったなどと言われ、実家の公爵家まで巻き込む騒動にはしたくなかったし、なにより当時は婚約者だったフィーネとの婚約に王族特権で邪魔を入れられたくなかった。
王太子は能力は高い。ヴァンよりは遥かに劣るが、文官としては優秀で、さらには剣術も修めている。
人柄も良く、貴族平民問わず朗らかに話しかけ、多少の無礼は笑って許す。
様々な所で評判がいい王太子だが、ヴァンからしてみれば迷惑な人間でしかない。
ヴァンと王太子は幼少の頃からの付き合いがある、幼馴染だ。
王太子はヴァンを頼もしい大親友と思っている。
逆にヴァンは王太子をクソガキとしか思っていない。
なぜなら幼少の頃からヴァンをお気に入りのオモチャのように傍に置き、何かするにしてもいちいち文句を言われ、どこかにいこうにも文句を言われ、何かあると呼ばれ、何一つスムーズにいったことがなかった。
公爵にも相談したが、真面目にとりあってくれず、友人にぽろっと愚痴を零しても外面のいい王太子がそんなことする訳ないと否定される。
さらにはフィーネとの婚約が調ってからはひどくなった。
婚約者とのお茶会だったり、デートだったり、夜会だったり。
様々な場面で王太子は乱入してきた。
先ぶれもなく、断りもなく、楽しくて堪らないという笑顔で。
怒鳴れば婚約者を怖がらせることになる。
かと言って断ればすぐに周囲が騒ぐ。なにせ相手は王太子で、彼は狙って人目のある場所で乱入してくる。
ならばと執務室などで注意しても彼は聞かない。すべて上の空で、時には王族の権力を使ってフィーネとの仲をいつでも裂けるのだぞ? ということを仄めかす。
なんとか婚姻にまでこぎ着けた。婚姻後はしばらく仕事を休んで夫婦の時間を過ごすことが許されている。
これなら邪魔されることなく、別荘地にでも行ってゆっくりできるだろう、と思っていた。
甘かった。
王太子は国王を巻き込んでヴァンに仕事を休むな、という勅命を出したのだ。
抗議したものの、国王の勅命だ。
断ることもできず、彼は結婚式の直後から近衛騎士に連れられて王城から帰ることもできず、軟禁されていた。
回される仕事は日を追うごとに増え続け、中には彼でなくても処理できるような簡単なものもあったが、王太子の命令だからとすべて彼が処理する羽目になった。
部屋の出入り口には王太子の命を受けた近衛騎士が監視として立っており、トイレにもついてくる。
忙しい合間を縫って妻に手紙を認めても、その返事は来ない。
確認しようにも誰も分からない。さらに追及しようとすれば近衛騎士が出張ってきて話にもならない。
そんな中、ニコニコしながら王太子は執務室にやってきて、仕事の邪魔をする。
彼の理性は城塞にも例えられている。
どんな理不尽でも耐え、飲み込み、国のために働いている姿から。
しかし、
「あ、お前と結婚した女、実家に帰ったって。良かったな! これで仕事を続けられるぞ!」
どんな城塞だとて、破られる時が来る。
ヴァンは初めて、護身用にと手に入れていたナックルダスターを装着し、王太子の綺麗な頬を思い切り殴りつけた。
*****
フィーネは夫が捕まったと聞いて思わず倒れかけた。
仕事に忙殺され、家にも帰ってこれなかった夫が、なぜ捕縛されなければならないのか。
屋敷に慌ただしくやってきた近衛騎士たちにエスコートされ、王宮へと赴く。
王宮は慌ただしい雰囲気に包まれ、フィーネの不安はどんどん高まっていく。
近衛騎士はフィーネをエスコートしたままどんどん進み、やがて、国王との謁見の間まで来てしまった。
ここまで夫が捕縛された理由など何一つ明かされていないフィーネはもう何が何だか分からず、パニックで呼吸が浅くなっていた。
重厚な扉が開き、ふらふらと手を引かれるまま謁見の間に入れば、玉座には国王がおり、周囲には国の重鎮たち。その前に近衛騎士に膝をつかされた夫の後ろ姿が。
「旦那さま……」
小さく呟けば、ヴァンの身体がぴくりと揺れる。
振り向くのは近衛騎士に抑えられ、できなかった。
「アルトリアス伯爵夫人、こちらへ」
国王直々に招かれ、フィーネは近衛騎士に手を引かれて歩き出す。
その視線はヴァンの背中に注がれている。
「楽に」
ノロノロと国王へ礼をとろうとすれば、それを止められる。
「さて、今回呼ばれた理由、夫人は理解しておるのか?」
「わ、わかりません……お、夫が、ヴァン様が、つ、捕まったとしか……」
今にも倒れそうなフィーネに、国王は椅子を用意させ、強引に座らせた。
「今回、ヴァン・アルトリアス伯爵は王太子を凶器で殴りつけ、負傷させた」
国王の言葉に、フィーネは限界を迎えた。
「なぜ!? なぜですヴァンさま! なんでそんなことを!?」
膝をつき、うつむいたままのヴァンは答えず、ただ唇を噛む。
「落ち着け、夫人。さて、アルトリアス伯爵、今回の件、嘘偽りなく申せ」
近衛騎士によって再び椅子に座らせられたフィーネのすすり泣く声が響く中、ヴァンは口を開いた。
「不敬を承知で申し上げます。もう私は王太子に愛想が尽きました。幼少の頃から私のやることなすこと全てに口を出され、婚約者との逢瀬も邪魔され、結婚式の直後から王宮に軟禁され、新人でもできる簡単なものから王太子の仕事まですべて私に回され、遂には我が妻が実家に帰って良かったと笑顔で告げられ、我慢の限界を迎えました」
その場にいた全員が、言葉を失った。
言っている意味が解らなかった。
告げられた言葉を理解する前に、再びヴァンが口を開く。
「幼少の頃は読む本から飲む紅茶の銘柄、着るもの、髪型、口調にいたるまで指示され、出来なければ王族に対する不敬だとして公爵家に責を負わせると仄めかされ、成長してからも友人との語り合いも満足にできず、勉学も碌に時間が取れず、王太子に連れまわされ、睡眠時間を削りました。父である公爵に相談したものの、真面目に取り合ってもらえず、逆に不敬だと叱責されました」
「え、ちょ、ま──」
「婚約者ができてからも、内密にしていたはずがどこからか情報が洩れ、お茶会でも、デートでも、果ては夜会においても王太子は邪魔をしました。先ぶれもなく、断りもなく、逢瀬の場所に現れ、自分が主役だと言わんばかりに。婚約者へのプレゼントを選ぼうとすればどこからともなく現れて口を出し、内密に買えば王族の権力を振りかざして内容を変え、我が婚約者に似合いもしないものを私の名で送りつけ、それを悪びれもせず笑顔で私に告げる」
「いや待てそれは──」
「なんとか手を尽くしてフィーネには謝罪し、本来贈るはずだったものを贈り、許してもらっておりました。それで何とか婚姻までたどり着けましたが、結婚式が終了した直後に完全武装の近衛騎士に囲まれ、私は王宮の執務室に護送され、初夜を迎えることもなく書類の決裁に追われていました」
「そんな──」
「部屋の入り口には常に王太子の命で近衛騎士が立って私を監視し、部屋から出れば近衛騎士が張り付き、忙しく働いていれば笑顔の王太子が世間話をしにやってきて、相手をしなければ妻がどうなってもいいのかと嬉しそうに脅し、その分遅れた仕事は私の責任だと言われ、睡眠時間を削って処理しました。しなければ近衛騎士にたたき起こされましたから」
「──っ」
「終いには妻が実家に帰ったことを良かったと言うではありませんか。これでも私は我慢しなければなりませんか? 家族に、妻に、私のせいで迷惑をかけたくないのでいままで我慢してきました。全ては不敬罪を回避するため。ですがもう限界です。王太子にはもう憎しみしかありません」
淡々と、抑揚なく言葉を紡ぐヴァンを、国王を始め重鎮たちは見つめることしかできない。
ゆらり、とヴァンが顔を上げた。
そこには、無しかなかった。
国王は悲鳴を何とか堪えた。
「国王陛下。いまここで私を家から除名し、平民のただのヴァンとして下さい。公爵家も伯爵家も関係ありません。王太子を害したのは平民の愚か者ただ一人。なにとぞ、お願いいたします」
「いますぐ、縛を解けーっ!」
国王の悲鳴が謁見の間に響き渡った。
*****
小鳥の囀りが耳朶を震わせ、フィーネは目を覚ます。
薄暗い部屋の中、目の前には口をだらしなく開けて熟睡する夫の姿。
小さく、彼女は微笑む。
ヴァン・アルトリアスが王太子を殴ったあの日から、すでに半年が経過していた。
ヴァンの暴露話を聞いて国王はすぐさま彼を解放し、一時的に王宮にある客室へ療養として宿泊させた。
付き添いとして、フィーネも部屋に滞在することを許した。
その後すぐに王太子の息のかかった近衛騎士や侍従侍女といった関係者全員、さらにはアルトリアス公爵も呼び、嘘偽りを禁じて話を聞きだした。
そうして、ヴァンの言った事が事実だと判明した。
近衛騎士は王太子の命だから。または国のために働くのは臣下として当然だから。そういった理由でヴァンを──公爵家の血を引き、特別有能な人間を働かせることに疑問を挿むどころか当然としていた。
侍従侍女たちも王太子の命だから。公爵家の人間であろうとも不敬罪をちらつかせる王太子相手では自分たちなど簡単に処罰されるだろうという理由で見て見ぬふりをしていた。
公爵に至っては子供同士のことだからと悩む素振りをみせず軽く流していたが、自分の息子がそんなことをされていたのだとようやく理解して、愕然としていた。
さらに公爵はフィーネからの、夫が一月も帰ってこないという手紙を受け取ったにも拘らず読むのを忘れ、ずっと放置していたことも発覚。
さらに国王は捜査の手を広げ、幼少期のことまで出来る限り調べ上げた。
結果、王太子のヴァンに対する権力を振りかざした横暴な振る舞いが出るわ出るわ。
仕事をせず、フィーネとの仲を修復して、憂いがなくなり、たっぷりと睡眠と食事をとって回復したヴァンへ国王と公爵が会いに行き、王太子の横暴を見過ごしていたことや、今まで苦しんでいたことに気付かずにいたこと、それら全てのことに対して謝罪をした。
無論、それで全て水に流せるわけも無く。
国王は王太子位を一旦取り下げ、再教育をさせる事。
王太子に従った近衛騎士は近衛から王国騎士団の最下級へ送り、一月は家に帰ることもなく無休で働かせること。
侍従や侍女たちも給与を減らし、配置転換すると告げた。
だが、ヴァンは首を横に振った。
近衛騎士も侍従侍女たちも、命令に従っただけで、元凶は王太子である。
その王太子が軽い処罰で、彼ら彼女らがそのような扱いをされるなど我慢ならない。
さらにこう聞いた。
「そもそも、王太子は何故自分にああも執着するのか?」
その答えを、国王は気まずそうにこう言った。
「王太子は、お前に歪んだ友情を持っている」
王太子が初めて会った同年代の者がヴァンだった。
最初は同年代とあったことが嬉しくて、ヴァンはずっと自分の傍にいると、子供にありがちな思いがあった。
大体の場合、成長すれば世界も広がり、交友関係も多様化し、やがてはそれ相応に落ち着くことになるのだが、王太子は王族ということもあり交友関係は限定的で、年上の身分の確かな者がほとんどであった。
そんな中で自分と同じ子供。
しかも話しかけても怒られたりしない。
むしろ率先してヴァンとの交流を推奨してくる。
王太子がヴァンに対してべったりと張り付く環境が出来上がってしまったのだ。
やがて成長したヴァンは多くの人間と同じく交友関係が広がったが、王太子は変化がなかった。
世界が広がったヴァン。
王宮という閉じた世界にいる王太子。
ヴァンが友人や婚約者が出来たとしても、王太子は変わらずヴァン以外に友人がいない。
いや、友人として紹介されたとしても彼はヴァン以外に心を開くことをしなかった。
まるで刷り込みのようだ。
健全に成長するヴァン。
逆に王太子は悪知恵を働かせるようになった。
相も変わらずヴァンにべったりな事を教育係や乳母たちに苦言を呈された彼はそれを煩わしく思い、直すのではなく猫を被って誤魔化す方向に行った。
それで苦言がなくなったからか、より一層猫を被り、周囲の目を欺き続けた。
そこで止まればよかったのだが、増えた知識で王太子はヴァンの囲い込みに舵を切った。
自分の交友関係を増やそうとも思わず、ヴァンのみを望む彼の思考に話を聞いた一同に怖気が走った。
周囲には出来のいい王太子という評価を受け、陰では権力を存分に振るってヴァンを自分に縛り付ける。
しかしヴァンに婚約者ができた。
王太子の歪みは加速した。
もはやなりふり構わず婚約者との逢瀬を邪魔し続けた。
それでもヴァンは婚約者を捨てず、遂には婚姻まで及んだ。
王太子はこの時点で、後戻りできないほどに、狂った。
暴君のように近衛を脅し、命令を強制し、ヴァンを拉致した。
家に戻れない様に仕事を大量に振り分け、もし遅れたらヴァンの責任にするよう命令し、近衛騎士も動員して監視させ、ヴァンの手紙は全て王太子が手に入れた上で燃やし、その上で悠々と会いにいった。
王太子はご機嫌であった。
ご機嫌で、浮かれて、ヴァンの溜まりに溜まった不満にも気付かず、そして、止めの一言を繰り出した。
「あ、お前と結婚した女、実家に帰ったって。良かったな! これで仕事を続けられるぞ!」
もちろん、王太子の嘘だ。
彼はこの一言でヴァンが妻となったフィーネを捨て、仕事に没頭し、自分の相手を喜んでするだろうと勘違いした。
結果は、ナックルダスターでの顔面パンチ。
ヴァンはこれまで暴力を振るったことは一度もない。
けれど拳を傷めず、相手へのダメージを上げる凶器を使えば、素人であろうととんでもないことになる。
王太子は頬が大きく腫れ、左の歯が上下ともに壊滅。頬骨にも大きくダメージがあり、目と耳にも被害が及んでいる。
王太子は治療を受けてはいるが、元に戻る保証はなく、また鎮痛剤で眠りに落ちても悪夢に苛まれて起きて悲鳴を上げて暴れるといったことを繰り返していた。
ヴァンに殴られたことが多大なショックとなったのだ。
今まで王族と言う立場で守られていたので暴力とは無縁。痛みにも耐性は無く、執着して自分の味方だと妄信していたヴァンに初めてにして最大の痛みを与えられた王太子は、肉体的にも精神的にも再起不能に陥った。
これには国王や公爵、重鎮たちも頭を悩ませた。
王太子を再起不能にしたのだ。不敬罪や国家反逆罪が適応される。
けれどその過程は王族の横暴であり、怠慢が招いたことだ。
さらには訴えがあったにも拘らず無視をしたのは大人たちだ。
これでヴァンを罰したとなれば、自分たちの無能を若者一人に押し付けた上で処分する、暴君にして暗愚の誕生だ。
結果、王太子は病気療養という名の軟禁が決まった。
ヴァンへは、無期限の公爵領での謹慎が申しつけられた。
最初は爵位返上の上、平民となってもう王族──王太子であることは言わずもがな──とは一切関わらないよう王都からも遠ざかることを切望したが、ヴァンの能力は惜しく、また公爵としても罪悪感があり、さらにはフィーネの生家との兼ね合いもあり、フィーネからも離縁は許されず、平民になってもついていくと告げられ、愛する人にこれ以上の苦労はかけられないとヴァンは思いとどまった。
しばらくは仕事はしない。妻との時間を設けたい。
ヴァンの望みを受け、今現在二人は王家からの慰謝料を使って悠々自適なスローライフを過ごしている。
王都では王太子の選定しなおしだったり、教育の見直しや人格面の判定方法の確立だったりと慌ただしい。
さらには貴族たちの派閥争いも活発になって、とても不穏だ。
けれど、ヴァンも、フィーネも、特に気にせず二人の時間を過ごす。
「ゆっくりしましょうね、ヴァン様」
未だ起きる気配のない愛しい夫に寄り添い、フィーネは再び目を閉じた。
ナックルダスター=メリケンサック