其の捌 新米同心、清瀬小太郎
駿府の城下町で起こった「辻喰い」の事件は一応の解決となりました。
そして、清瀬小太郎は──
辻喰いの一味の一人が捕まって数日後の午後。
駿府の町は何事も無かったように平和になり、幸い小太郎にも怪我は無かった。
──そして。
あの時、小太郎を助けた猫又のセンリは、何処へともなく姿を消した。
母が作った煮物で二膳、朝食を摂った小太郎は、意を決して長屋を出た。
妖、辻喰い。
此度の事件は、小太郎の知らない事ばかりだった。
それがどうにも落ち着かない小太郎が向かう先は、藤右衛門町。
裏町奉行所だ。
そろりと寺の境内に踏み入った小太郎は、早乙女何某の姿が無い事を確かめる。
その上で、再び裏町奉行所の門を叩いた。
「お、来たな小太郎くん」
小太郎を出迎えたのは、与力の斎藤だ。
別に小太郎は、同心になりに来た訳ではない。
自分が関わった事件の顛末を知りたかっただけ。
そんな小太郎を、与力の斎藤は快く迎え入れた。
「辻喰いの下手人? そりゃ、元の場所に帰されてお説教、だな」
今回、影法師たちが奪った影は一人分。
その奪われた影も、ひと月も経てば元に戻るらしい。
が、聞けば被害者は、呉服屋の大店、三保原屋に女中奉公の身だという。
影が戻るまでのそのひと月で仕事は暇を出され、生活は立ち行かなくなるだろう。
なればこそ、影法師たちを懲らしめたのだが。
「影法師たちは、何処にいたのですか」
小太郎が知らないのは無理もない。疑問に思うのも当然だ。
斎藤は出涸らしの茶を啜りながら、渋い顔をしている。
そして何かを決したように小さく頷いた斎藤は、盆に湯呑みを置いた。
「小太郎くん」
「はい」
「ここから先は、ご公儀の一部と裏町奉行所の役人しか知ってはならないことだ」
「……はい」
「キミは、同心となる覚悟はあるか?」
小太郎は即答出来なかった。
影法師たちの前で、自分は無力だった。それどころか足手まといになっていた。
道場で鍛えた剣の腕も、何ひとつ活かせてはいない。
「僕に、務まるでしょうか」
自信の無さは、疑問となりて口に出る。
それを知ってか、小太郎を見る与力、斎藤の目は優しく、強い。
それは、早乙女が言っていた昼行灯とは真逆の眼差しだ。
「やれば出来るよ。幸いキミには、懇意にしている妖がいるようだし」
「猫又、ですか」
「そうだね」
斎藤はにこやかに答える。が、その真意は自信の無い小太郎には伝わらない。
「それはすなわち、僕よりも猫又を必要としている。そういう事ではありませぬか?」
斎藤は再び出涸らしの茶を啜り、顔をしかめる。
「小太郎くん。キミにとっての猫又は、どんな存在なんだい?」
「命の恩人であり、もう一度会いたい……人です」
「ふむ。ならば少しだけ考え方を変えたらいい」
考え方。
それを変えて、何が変わるのか、若き小太郎にはまったく分からない。
「猫又と一緒にいたいとは思わないかい?」
「思います、けど……センリの意思もあるし」
若く経験が無い故に、決断を他者に委ねる。
そんな小太郎の若さを、斎藤は好ましく思えた。
「キミは、猫又に居場所を提供する。その見返りとしてキミのお役目を手伝ってもらう、てのはどうかな」
なるほど、御恩と奉公という奴である。
武士ならば誰でも知っている、武士の中の常識だ。
「でも、肝心のセンリが何処にいるのか……」
「それは如何とでもなる。決めるのは、小太郎くんだよ」
小太郎は俯いて考え込んでしまう。
そこに、脈ありとみた斎藤の甘言が小太郎の耳を震わせる。
「待遇は普通の同心と同じ、三〇俵二人扶持だよ」
三〇俵二人扶持。
給金としての三〇俵に、一日五合の米が二人分支給される計算だ。
つまり、年収にして十五石。
ぜいたくは出来ないが、月に一度、母を外食に連れていく程度は出来る。
「──やります」
「よし、なら話そう」
与力の斎藤の顔は真剣そのものだ。
「あやかしの里という場所がある。そこは、里長のぬらりひょん様が治める里だ」
「あやかしの里? ぬらりひょん様?」
何処から出したのか、斎藤は安倍川もちを頬張り始める。
が、きな粉をまき散らしながらも、尚も斎藤の話は続く。
「あやかしの里に行くには、通行手形が必要でな。普通の人たちはまず辿り着けない。ぬらりひょんというのは、代々の里長が継ぐ身分のことだ」
きな粉が飛ぶ。
小太郎は少しだけ斎藤から離れた。
「ま、そのうち小太郎くんにも里に行ってもらうことになるよ」
「その前に猫又を、センリを探さないと」
「心配は要らないよ、ほれ」
「──にゃ!?」
斎藤が小屋の床をたん、と踏み鳴らすと、縁の下から猫が飛び出してきた。
その尻尾は二股に分かれていて。
「え」
「あれ以来、ずっと此処でキミが来るのを待っていたんだよ」
尾が二股の猫は空中で翻り、あっという間に可愛らしい白い小袖の少女となる。
「センリ!」
「コタ!」
センリが小太郎へ飛びつく。が、小太郎は力負けして押し倒された格好となってしまった。
「コタ、コタ、会いたかった」
「センリ、なんでいなくなったんだよ」
小太郎の問いかけに、センリはふいと横を向く。
その頬は赤く染まって、何やら口の中でモゴモゴと言葉を綴っている。
どうやら言いにくいらしい。
小太郎は、そんなセンリの髪を撫でながら、もう一度礼の言葉を呟いた。
「助けてくれてありがとう、センリ」
その言葉を合図に、センリは小太郎の胸元にぐいぐいと頭を押し付け始めた。
「センリ、くすぐったいってば」
「少し我慢する。センリはずっと我慢した」
センリの華奢な肩が揺れる。
小太郎の胸元が温かく感じるのは、きっとセンリのせいだろう。
「コタ」
「ん?」
「ふとん敷く」
「センリ!?」
驚いた小太郎は、胸元のセンリを起こしてその顔を凝視する。
が、恥ずかしいのか、センリはすぐに小太郎の胸にぽすんと顔を埋めた。
「これこれキミたち、まだ昼間だよ」
「……コタ、はやく敷く」
再び小太郎の胸にすりすりしながら、センリは目を細めて喉を鳴らす。
「センリくん、と言ったね」
「──だれ?」
与力の斎藤が声をかけると、センリの気がピリッと締まった。
「申し遅れたね。それがしは裏町奉行所筆頭与力、斎藤辰巳という者だよ」
「……センリ。猫またやってる」
朗らかに話す斎藤に対して、未だセンリは警戒を解かない。
センリにとっての人間とは、小太郎だけなのだ。
「キミは小太郎くんと一緒にいたいかい?」
「当然。ずっと一緒。布団も一緒」
「ちょ、センリ!?」
ふんすと胸を張るセンリの言葉に、小太郎は動揺する。が、もうセンリの頭の中は小太郎との暮らしで一杯だ。
「小太郎くんは、この裏町奉行所の同心になる。キミが小太郎くんの目明しになれば、ずっと一緒にいられるよ」
「なる」
即答だった。
「よし、これで小太郎くんの目明しも決まったね」
「トントン拍子過ぎませんか!?」
「コタ、よろしく」
「うんよろしく、じゃなくて!」
斯くして裏町奉行所の新米同心となった、清瀬小太郎。
この先、小太郎にはどんな困難が待ち受けているのだろう──
「センリ、コタをばっちり守るから」
「ありがとう、って、なんで僕を押し倒すの!?」
「……妻の務め」
「妻!?」
──いや、困難のひとつは、既に小太郎のすぐ傍にいるようである。
了
お読みくださいまして、本当にありがとうございました。
この「和語り企画」。
書いていて、とっても楽しかったです。
秋月忍さま。
楽しいイベントを、ありがとうございました♪