其の伍 鬼火と思い出
小太郎「ぼくまだ同心じゃないのに」
早乙女「まあまあ、優しく導いてあげるから」
小太郎「え、遠慮しますっ」
早乙女が小太郎達のいる茶店へ戻ってきたのは、暮れ六つ(日没)の鐘が鳴った後だった。
「お鈴、小太郎くん。お待たせー」
相変わらずの飄々とした優男の早乙女の横には、鬼の男の娘である鬼童丸しかいない。
「あの、襲われた女性は」
「彼女は完全に日が暮れてから保護するよ。なんせ喰われたのが影だからねぇ」
「影、ですか」
影が喰われた。
それが今日入ったばかりの小太郎が正しく理解できる筈はない。
「小太郎様」
見かねた鈴彦姫が、小太郎へ助け舟を出す。
「影を喰らう妖は、この駿府では二種類ほど確認されておりますわ」
流水の如く語り始めた鈴彦姫の声音に、しばし小太郎は夢現となる。が、何とか要点だけは頭に留められた。
「──では影が戻らない限り、あの女性はお天道様の下を歩けないのですね……」
「そういう事だね。今の彼女にとって、お日さんは毒でしかない」
いつのまにか取り出した煙管を燻らせる早乙女が、小太郎の句を継ぐ。
「さ、小太郎くん。現場に戻るよ」
「え……今からですか。もう日暮れなのに」
「何を言っているんだい。日が暮れれば夜、妖の支配する時間だよ」
確かに早乙女の言う通りだ。
空は薄暮に差しかかり、あと半刻(一時間)も経たずに辺りは闇に包まれる。
しかし、である。
小太郎はもちろんのこと、早乙女たちも提灯を持っていない。
「よし、ひとつ拙が小太郎くんに教えて進ぜよう」
吸い終えた煙管をポンと叩いて歩き始めた。小太郎も急いでその後を追う。
現場である安倍川へ向かう道中、早乙女は小太郎に語って聞かせる。
一つ、裏町奉行所が扱う事件は、妖や物の怪が関わっている。
一つ、物の怪とは、人の理屈を超えた存在である。
故に、妖に力を借りるのだ、と。
全然一つじゃないじゃん、という言葉を呑み込んだ小太郎の横に、鈴彦姫が並ぶ。
「帯刀様は、あれはあれで良い男なのですよ」
鈴彦姫のその口からは、早乙女を擁護する言葉が羅列され始めていた。
「いい加減ですし、男女見境いなく口説くし、隙あらば廓に入り浸るし、顔の良さしか取り柄はありませんけれど」
否、まったく擁護になっていなかった。
ほとんどは早乙女に対する愚痴、苦言である。
が、小太郎の肩に置かれた鈴彦姫の細い指に、力がこもる。
「それでも、わらわの大切な主人……なのですよ」
思わず小太郎は鈴彦姫へ向き直る。その瞳は、妖とは思えない程に、澄んでいた。
「お鈴、その辺で勘弁してくれないかね。どうも尻の中がむず痒い」
「わらわの話にかこつけて自分の性癖を晒すのはよしてくださいね」
鈴彦姫が早乙女を睨むのと同時、鬼童丸の手にポゥと青白い火が浮かんだ。
柊が灯した鬼火が、色濃い闇に包まれた安倍川の河川敷を照らす。
その青白い光は、小太郎の目には神秘的に映った。
「綺麗ですね、しかも便利だ」
「小太郎様は、鬼火を恐れないのですね」
便利だなと感心しきりの小太郎に、鈴彦姫が問う。
「あ、いや……便利だとは思いますけど、恐いとは」
まだ幼い頬をぽりぽりと掻く小太郎に、鈴彦姫は笑みを浮かべる。
「裏町奉行所の同心は、どうやら小太郎様にとって天職のようですわね」
「そ、そんなこと!」
ふふ、と上品な笑いを洩らす鈴彦姫に、小太郎はぐうの音も出ない。
小太郎自身、普通の感覚を持っていない自覚はあった。
幼い頃、小太郎は妖に出会っているのである。
──尻尾が二股に分かれた仔猫、いわゆる猫又だった。
よたよたと夕暮れの草むらを歩く猫又を見つけた幼い小太郎は、その足に刺さった大きなトゲを抜いてやり、その傷に手拭いを巻いてやった。
その時小太郎は、仔猫又にかぷりと指先を噛まれた。
仔猫とはいえ猫又は妖怪。噛まれたら恐がるのが普通だろう。
しかし小太郎は恐がるどころか、猫又の震える背中を撫でたのだ。
『こわかったね。でもだいじょうぶ』
優しい声音に猫又の震えは止まり、その瑠璃色の丸い瞳はひたすらに小太郎を見つめていた──
それから幾度となくその猫又を見かける度に、元気そうで良かったと小太郎は笑みを浮かべいた。
「あの子、元気かなぁ」
小太郎が呟いた声は、誰の耳にも届かずに夏の夜風に吹かれた。
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この作品は、秋月忍様主催の「和語り企画」参加作品でございます。
この「和語り企画」、どの作品も力作揃いですっごく面白いです♪
拙作ともども「和語り企画」をよろしくお願いします。