其の肆 人と妖って
辻喰い。
聞き慣れない事件を耳にした小太郎は、同心早乙女の後を追って西へ走り出す。
夕暮れの弥勒町は、夏にしては涼しい風が吹いていた。
野次馬は去り、安倍川もちの店先に腰掛けた小太郎は、一人黄昏れていた。
鈴彦姫の言では、早乙女は鬼童丸の柊を連れて、川岸の掘っ立て小屋の中で被害者の女性に話を訊いているようである。
本当に「話」だけなのだろうか。何かしら良からぬ事でもしているのではないか。
そう思ってしまう小太郎は、何も悪くない。
悪いのは、この数刻のうちに見せた早乙女の素行だ。
奉行所を見学に訪れただけの小太郎を岡場所へと引っ張り込み、鬼っ子の男児を弄び、自身の目明しの女性にはしっぺを食らう。
──これが裏町奉行所の同心か。
それが紛れもない小太郎の本心だった。
「小太郎様」
済んだ声音と共に、鈴の音がしゃりんと鳴る。頭に鈴をつけた早乙女の目明し、鈴彦姫だ。
鈴彦姫は麦湯の湯呑みを両手に、小太郎の横に腰を下ろす。
麦湯の一つを小太郎の側に置き、鈴彦姫自らも少し啜って「はぅ」と息を吐く。
その姿、仕草。
おそらく小太郎が初めて出会った、肉親以外の、しかも艶《つや》やかな大人の女性。
小太郎の胸は、その意思とは関係なく高鳴ってしまう。
「何か、お悩みでしょうか」
「悩みというか、分からないことだらけで」
小太郎は、これまでの経緯を語った。
昨日声を掛けられて、今日は見学のつもりだったのに、事情も分からぬまま此処にいること。そして奉行所同心である早乙女という人物がまったく理解出来ないことを、初対面の鈴彦姫に零す。
それは、鈴彦姫の雰囲気に小太郎が絆されたからに他ならない。
小太郎の気持ちを知ってか知らずか、鈴彦姫は小太郎を見つめ、親身になって話に耳を傾けている。
「まあ、そういう事でしたのね」
「ええ、まあ」
それでも事前説明くらいするものだろう、と小太郎の胸に黒いモノが渦巻くが、説明前に事件が起こってしまったと解釈すれば、致し方なしと納得するしかない。
「何も分からずに此処にいるのは、おかしな話ですよね」
苦笑を浮かべる小太郎に無垢を感じた鈴彦姫は、少しでもその不安を薄めようと口を開く。
「では小太郎様にも、事件のあらましをお伝えしておきますね」
鈴彦姫は幾分姿勢を正して、小太郎へと向き直る。
妖艶な気配は消え、そこには仕事の出来る女の顔があった。
「──影が、盗られた?」
「ええ、その様です」
「そんなことが」
あってたまるか。
思わず零しそうになった言葉を途中で吞み込む。
だが鈴彦姫には小太郎の意は伝わっていた。
「あるのですよ。だって此処は──」
駿府は、妖の生きる町、ですから。
妖しく微笑む鈴彦姫に女性を感じてしまった小太郎は、冷めた麦湯を啜る。
微笑みを湛えて小太郎を慈しむ鈴彦姫も、その艶やかな口唇を麦湯で湿らせた。
「それはそうと、小太郎様も早いうちに『木枯らしの森』へ行かねばなりませぬね」
「どうしてですか」
訊き返す小太郎の帯を見て、鈴彦姫は全てを悟る。
十手が、ない。
十手が無ければ、妖を縛につかせる事は叶わない。
そう言えば、今日は見学のつもりだと小太郎は言っていた。
裏町奉行所は、公儀と駿府城の上層部しか知らない特殊な組織。
その一端を鈴彦姫は、まだ同心では無い小太郎に喋ってしまったのだ。
駿府は、古来より妖や物の怪が多い土地だ。
そしてこの地を終の棲家と定めた大御所家康公は、妖との共生を望んだのだ。
だが、そうなると妖を律する組織が必要となる。
こうして置かれたのが裏町奉行所である。
その性質上、受けて奉行所の存在は大っぴらにはせず、知る人ぞ知る役目となっていた。
いずれにしても早計だったと、鈴彦姫は後悔した。
が、小太郎の身の安全の為にも、説明だけはしておくべきだ。そう言い聞かせて、鈴彦姫は言葉を継ぐ。
「同心になれば、小太郎様も目明しを持たないといけませんから」
「……そうですね。僕一人では、何も出来ませんからね」
そんな小太郎を可愛いと思ってしまい、鈴彦姫はほんのりと頬を赤らめる。
若いとはいえ、侍から「僕」なんて聞かされるとは思わなかったのだ。
愛でたい。抱きしめて閨へ誘って仕舞いたい。
その欲求を麦湯で流し込み、鈴彦姫は平常心を取り戻す。
「裏町奉行所の同心にとっての目明しは、目であり、鼻であり、剣であるのです」
一般的に目明しは、同心にとっての情報屋という位置付けである。
だからこそ小太郎は驚いた。
「では、同心のお役目とは」
「お侍様は、怪異を捕らえるのがお務めです。立ち回るのは、我ら妖の務め」
妖が戦い、人が捕らえる。
ここ駿府では、飛鳥の時代からそうしてきた。
当然早乙女も鈴彦姫も、鬼童丸さえもそう心得ていた。
妖や物の怪には、妖でしか対抗出来ないのだ。
例外として陰陽師や山伏、幕府天文方が作る呪符はあるが、それはあくまで補助であり、決定打とはなり得ない。良くて封印出来るくらいなのである。
「つまり早乙女さん達は、女性や子どもを働かせて、その上澄みだけを得ているのですか」
鈴彦姫は思わず目を見開く。
この若者は、一体何を言っているのか。
妖は、女だろうが子どもだろうが妖だ。
妖が人の世で生きるには、人の傘下に与するしか無いのだ。
少なくとも鈴彦姫は、そう思って百余年を生きてきた。
だが小太郎には、それが理解出来ない。
「女子供に働かせて、何の為の武士なのだ。何の為の二本差しなのだ!」
少し余った羽織の袖の中、小太郎の握りこぶしが震える。
それは若さ故か。甘さ故か。
それとも潔癖さ故なのか。
しかし鈴彦姫は、そんな小太郎を微笑ましく思った。
「貴方様は、人と妖を同列に考えていらっしゃるのですね」
「だって、皆おなじ土地に生きているのでしょう」
さらに小太郎は語る。
「我ら武士は、一人では生きられない。誰かが育てた米を食い、誰かが設えた着物を着て、誰かが打った刀を差しているのです」
鈴彦姫は目を丸くして小太郎を見つめる。
「我ら武士は、そんな人たちの平和を守るためにいるのです。僕は、母からそう教わりました。なのに……」
鈴彦姫は、震える小太郎の拳に手を添え、柔らかく包み込む。
「小太郎様は、お優しい方ですのね」
「違う、武士として当然のことなのです」
優しい母に育てられたであろう、小太郎。
その小太郎にとっての武士がどんなものか、鈴彦姫にはまだ判らない。
だが、まだ小太郎は人と妖の事情を知らないのだ。
それを知れば、世間を知れば、きっと小太郎も変わってしまうのだろう。
そう、あの早乙女のように。
「小太郎様」
鈴彦姫は、柔らかく小太郎を抱き寄せる。
その豊かな胸に埋まった小太郎を、甘い香りが包み込む。
「どうか小太郎様は、そのままでいてくださいね」
鈴彦姫の気持ちが伝わったのかは判らない。
ただ、美しく優しい妖の胸に抱かれて、小太郎は幸せを感じていた。
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この作品は、秋月忍様主催の「和語り企画」参加作品でございます。
この「和語り企画」、どの作品も力作揃いですっごく面白いです♪
拙作ともども「和語り企画」をよろしくお願いします。