其の壱 奉行所を見学しよう
ここは駿河国の城下町、駿府。
そこに、小太郎というかわいいお侍さんがいました。
そして小太郎がとある場所をたずねた所から、物語は始まるのです。
時は元禄。
花のお江戸は八百八町。
ご当地駿府は九十六ヶ町と申します。
ですが、実はもう一つ、ここ駿府城下には「町」があったのです──
「猫だ、化け猫が出たぞ!」
町人たちの騒ぐ声が、寺の境内まで響き渡る。
その喧騒に塗れた寺の中、若き侍である清瀬小太郎は苦悩していた。
後悔もしていた。
せっかく職にありつけそうだというのに。
同心になれるかどうかの瀬戸際だと云うのに。
「……なんだよ、裏町奉行所って」
小太郎は、生まれも育ちも駿州安倍郡。
駿府町奉行所が駿府城の近くにあることくらい、当然小太郎は知っている。
なのに何故自分は、駿府城から半里(およそ二キロメートル)も西の藤右衛門町の寺にいるのか。
だが、確かに此処は奉行所である。
一見ただの寺だけれど、れっきとした奉行所なのだ。
「清瀬小太郎どの、だね。ようこそ裏町奉行所へ」
奉行所でたった一人の与力である斎藤辰巳は、朗らかに両手を広げる。
だのにまだ小太郎は納得がいかない。そもそも裏町奉行所なんて、聞いたことがない。
思えば、最初から怪しかったのだ。
昨日の事である。
剣術の道場から長屋へ帰る途中、小太郎はとある人物に声を掛けられた。
枯れた芝生の様なでこぼこの坊主頭に、藍色の羽織。帯には大小の刀が二本差し。
最初は苗字帯刀を許された大店の商人か豪農かと思ったが、よく見ると帯に白い房がついた十手を差している。
そして、でこぼこ頭は小太郎に言ったのだ。
奉行所で働いてみないか、と。
──それがすべての始まりだった。
不満げな顔で与力斎藤の話を聞いているが、十手に目が眩んで「何でもやります」と云ったのは小太郎本人だから仕方がない。
「もうすぐ他の同心や天文方も来ると思うから、そこらに座って待ってて」
寺の境内の隅っこに建てられた小屋。
その土間というか三和土というか、そこから座敷へ上がる段へと小太郎はへたりと腰を下ろす。
大小を帯から抜いて横へ置く時、小太郎はしばし現実を忘れた。
ついこの間まで、本差一本だったのだ。脇差は、母が工面してくれたものだ。
そうして偶然の出会いから得た、仕官の口。
安い給金では裕福な暮らしは無理としても、月に一度くらいは母に甘味を馳走するくらいは可能だろう。
やっと母の恩に報いることが出来るかも知れぬ。
そう考えなければ、小太郎の心は目の前の現実に押し潰されてしまいそうだった。
「いやぁ、暑かった」
小屋、もとい奉行所に入って来たのは藍色の羽織の優男。
「早乙女さんだ、当奉行所の同心だよ」
「拙は早乙女だと何度言えば」
与力のよく通る声が、狭く暑苦しい小屋、もとい……いやもう小屋でいいか。
狭い小屋に響く。
慌てて立ち上がった小太郎は、深々とこうべを垂れた。
「拙者、清瀬小太郎と申します」
「ああ、わざわざありがとう。拙は早乙女帯刀だ。宜しくね」
優男が、いかにも優男らしい苗字を名乗って挨拶を返すが、どうしても小太郎は「こちらこそ宜しくお願い致します」とは云いたくなかった。
数え年でまだ十七だが、若輩の小太郎にも一丁前の武士の誇りはあるのだ。
「早乙女さん、清瀬殿にお勤めの説明をしてやってくれ」
「いえ、本日は見学だけで……」
そもそも小太郎は、まだ同心になるとはっきりとは言っていない。だがそんな小太郎そっちのけで話は進む。
「えー、新人くんへの説明は斎藤様がやっといてくださいよ。拙はこれから二丁町へ見回りに行くんですから」
「この昼間から岡場所かね。色男はお忙しいんだねぇ」
二丁町とは、かの大御所家康公が城下の犯罪抑止の目的で置いた遊廓である。
とはいえ、今ではほとんどが江戸の吉原に移転してしまい、駿府に残るのは二ヶ町のみの歓楽街となっている。
「いやね、うちの可愛い目明しちゃんが聞き込みに行ってるんですよ」
「え、目明し……ちゃん?」
思わず声に出し、小太郎は即座に後悔した。
これは絶対に面倒なことになる。この手の直感について、小太郎は外した事がない。
「ほほう、興味あるかね。うちの可愛い可愛い目明しちゃんに!」
「いえ……別に」
「そうかそうか、初対面では興味があるとは言えないよなぁ。よし、此れから一緒にイこう」
「一緒に行こうって、何処へでございますか」
「この世の極楽、さ」
原因不明の悪寒に襲われた小太郎だが、与力斎藤へ目を向けると首肯を返されるのみ。
仕方なく立ち上がって慣れない大小を帯に差し、小太郎は早乙女へと向き直る。
「宜しくお願い致します」
「大丈夫、優しくするから」
またしても悪寒が走る。
「気をつけなよ。早乙女さん、二刀流だから」
きょとんと首を傾げる小太郎の耳たぶを甘噛みする、早乙女。
思わず小太郎の全身は硬直し、皮膚は粟立つ。
「拙が優しく導いてあげる」
何となく悪寒の正体が判った小太郎であった。
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この作品は秋月忍様の「和語り企画」参加作品でございます。
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