三つめの蛍
Kは、仕事を辞めた。
理由は色々あるようで、何も無いようで、
今時のことだから、わかりにくい。
Kは、疲れていた。
国のほとんどが都会になっているのに、
都会に馴染めないなどと、
そんな理屈があるものかどうか。
そのあたりも、わかりにくい。
とにかく、損得で生きる人には、
もう会いたくないと思った。
Kは、田舎に帰ることにした。
古い火葬場が移転したり、
リゾートホテルが出来たりして、
田舎が、少しずつ町になっていると、
わかってはいたけれども、
とにかく帰ることにした。
田舎には、老いた母と兄が住んでいた。
若い人の多くは、車で一時間ほどの
T市に働きに行くのだが、
Kの兄は、亡くなった父から引き継いだ、
田んぼや畑を守り、農業の合間に、
ホテルで働いていた。
兄は、母の面倒を見てくれていた。
夢ばかり見て、何もかも、
頼りっぱなしだったKは、
結局、何もつかめないままだったと、
兄に詫びるしかなかった。
兄は、持ち前の明るさで、
Kの帰りを喜んでくれた。
ただ、Kは、兄が今までとは違う、
人になっている気がした。
母の世話で、疲れているのだろうか。
「兄ちゃん、俺、もう一度ここにいて、
畑とか、手伝っててもいいかな?
もちろん母さんの面倒もみるし」
Kは縁側に腰を掛けて、
煙草を吸っている兄に言った。
「ふう……ああ……いいさ。
ちょうど、ホテルの仕事が忙しくて、
畑の世話で、ほら、お前の同級生の、
奈美ちゃんが手伝いに来てくれてることに
なってたんだ……覚えてるだろ。
小さいとき、よく遊んでた。
あの子も、今、こっちに戻ってきてる」
兄の吹かす煙草の煙が、
隣に座ったKの目に沁みていた。
奈美ちゃん……
Kは小学校三、四年ぐらいまで、
一緒に遊んでいた小さな女の子を思い出した。
この庭で、ビニールプールで水浴びをした。
花火をした。西瓜割りをした。
今頃の季節には、一緒に蛍を捕りに
行ったこともある、農協の理事の娘だ。
中学までは、同じ地元の学校に通った。
進学の時、KはT市の高校に入学したので、
地元の高校に入学した彼女とは、
それっきり会わなくなったが、
Kの心の中では、しばらくの間、
彼女がいたこともあったかもしれない。
思春期のことだった。
「ふーん、奈美ちゃんか……
もうずいぶん会ってないけど……
確か、高校卒業して、叔父さんの会社を
手伝うとかで、どこだっけ、よその県に
行ったって聞いたような気がする」
「……実はな、まだ言ってなかったけど、
俺、奈美ちゃんと結婚することにした。
奈美ちゃんも、それでいいと言ってる。
お前に伝えなきゃと思ってたんだけど、
お前の同級生だった奈美ちゃんと、
結婚するっていうのが、なんて言うか、
照れくさくて」
兄は、側にある灰皿には入れず、
吸殻を庭に落とし、踏みつけながら、
俯いて笑った。
「……そうなんだ。良かった。
でも、いつの間にそんな感じになってたの。
まあ、いっか。おいおいわかるんだろうし。
そう言えば、昔、母さん言ってたな。
奈美ちゃんって、よく気がつく子だって。
それだけ覚えてるんだけどさ。
ほら、母さんが蛇に咬まれて、病院に運ばれたとき、
着替えとか、後で持ってきてくれたって」
「へえーっ、そんなことがあったのか。
また、聞いてみようか……
さてと、そろそろ時間だ。
俺、これから、ホテルの植木を刈り込みに
行かないといけないから。
奥の部屋で母さん寝てるけど、
もう少ししたら奈美ちゃんが来てくれるから、
母さんのことは、頼んであるから。
母さん、母屋の奥で寝てるよ。
もう、俺のこともわからないんだ……
……帰ったら、また話すよ」
兄は、ポケットの携帯電話を取り出し、
何処かへメールを打ってから、
部屋の方へ上がっていった。
Kは一人残されることになった。
曇り空を避けるように、燕がどこからか、
飛んできて、縁側から見える、
母屋の玄関の軒先に消えていった。
そうか、燕がいたんだ。
俺はここに帰ってきて、また何処かへ
飛んでいくのかどうか。
Kは、兄が踏みつけた吸殻を拾って
階皿に入れた。
“奈美ちゃん、昨日言ってた、
弟が戻ってきてるんだ。
結婚のこと、今さっき言ったから。
だから、奈美ちゃんのこと、
弟に話してもらってもいいよ。
ホテルの仕事が終わったら、
すぐに帰る。悪いけど母さん頼む。
弟は、しばらく畑の仕事手伝うって。
水遣りとか、任せるよ。行ってきます。“
Kが、母親の様子を見てこようと、
母屋の玄関に回ると、田んぼに下りる畦道から、
女が駆け上がってくるところだった。
奈美ちゃん……きっと、あれは奈美ちゃんだ。
Kは、どう声を掛ければいいのかと緊張し、
女の姿に気がつかない振りで、
土間のほうへ入っていった。
土間には、野菜を運ぶときの一輪車と、
長靴が二足置いてあった。
大きな長靴が兄のもので、小さなものが、
多分、彼女のものだとKは思った。
女が奈美ちゃんなら、もうすぐここに、
入ってくるはすだ。
Kは、幼馴染みの奈美が姉になることを、
とにかく、喜こぶことにした。
喜べば、そこから、話せるだろうから。
「こんにちは。ご無沙汰してます。
奈美です。Kさんお帰りなさーい。
すいません、遅くなって。はあはあはあ……」
息を切らしている奈美の声が、土間に響く。
想像していたより、綺麗な声だった。
「ああ、ああ、こんにちは。ひさしぶり……」
Kは、目の前にいる奈美という女に、
昔の面影を、とっさに探していた。
中学の頃、長く伸ばしていたはずの髪を、
ばっさりと短くしていること以外は、
小さなころの面影も、最後に見たときの記憶も、
女の顔の隅々に残っていた。
「あの……お兄さんから、聞いてもらったと
思うんですが……私、こちらに来させて
もらうことになったんです。
突然で、びっくりされたでしょう。
もう少し早く言えばよかったんですよね」
「ああ、いえ、そんなことは。
俺が、母親のこととかほったらかして、
ずっと、帰ってなっかったんで」
「あっ、ごめんなさい。お母さんが……」
奈美は、話の途中で、急に土間から家に上がり、
Kがこれから、歩こうとしていた廊下を、
走っていった。
奈美が、廊下を右に曲がってから、
Kは靴を脱ぎ、奈美の後を追いかけた。
奈美に何が聞えたというのだろう。
母親の声が聞えたのだとしたら……
母親に何かあったのだろうか。
廊下を進みながら、Kは、母親の姿を、
浮かべた。
脳がかなり、萎縮していると言う。
兄の話から、Kは自分のことも、
わからなくなっているんだろう。
兄のいる間に、母親を見舞うべきだった。
「奈美ちゃん……どう?母さん……」
Kは、奥の部屋に入る前に、
廊下から覗き込んで言った。
「うん、大丈夫です。お母さん、私が来ると、
わかるみたいで、奈美ちゃんって、
呼ばれるんです。それが、私にも聞えて。
それに、お母さん、私の手を握ってると、
記憶がよみがえるみたいなんです。
お医者様も、不思議がってて」
奈美が、布団の中にある母の手を握っていた。
Kは、ゆっくりと、音を立てないように、
奈美の横に跪いた。
「お母さん、ただいま……わかる?」
「……あああっ、来た……」
拉げた人形のような目が、Kを見ている。
Kは、頼りないその視線に、すがりついた。
ちゃんと、わかられていますと、
奈美がKを見て言う。
「お母さん、連絡しないでごめん」
「……ああ、ああ、ホタル、ホタル」
「何?お母さん、蛍がどうした?」
「…………おかえり」
Kに向けられた視線は、空を横切り、
奈美のほうに向かっていた。
母親は、奈美を信頼しきっているのだろう。
実の子供よりも、奈美という近所の女の子を。
奈美は、母親に薬を飲ませたり、
下の世話をしたりするからとKに言った。
Kは、奈美がこの家を守っているのだと知った、
縁側に座って、兄の帰りを待っていた。
梅雨時は日が長く、夕暮れといっても、
まだ空は明るかった。
雲は相変わらず厚く、それを避けて、
低く飛んでいたはずの燕は、見えなかった。
Kは、夏が来る前に、何処か寒々しいと、
この家のことを見ていたことがあった。
あれは、どうしてだったのか。
母親は、ほとんど、女で一つで、
兄と自分を育てた。
農協に勤めながら、畑を耕しながら、
時に、山に入って、自然薯を掘りながら、
毎日遅くまで、働いてくれたのだ。
それで、男の子二人を食べさせて、
Kは希望通り、T市の高校に入学するこができた。
進学校の学費は、それなりに高いほうだった。
母親は幸せだったのだろうか。
折に触れて思うことが、また頭に浮かんできた。
母親は笑っていたのだろうか。
薄暗くなってきた庭先に、雨が降り出した。
ふと、小さな黄緑色の光が、一つ、舞った。
そう言えば、子供の頃、兄や奈美ちゃんと
蛍を捕りに出かけようとしたとき、
奈美の父親が、家に来て、母親とこの縁側で
話をしていたな……あの時、母親は、
確かに笑っていた。
今度は、小さな黄緑色の光が、二つ、舞った。
「お母さん、眠ってるわ。Kさんが戻られて、
きっと嬉しかったんだと思う。
あの後、なかなか、私の手を離してくれなくて」
奈美が、部屋の中から縁側に来て座った。
「ねえ、奈美ちゃんは、どうして、兄ちゃんと
結婚しようとって思ったの?」
Kは、蛍が見えたことを言う前に、奈美に尋ねた。
「うん……私、一度、結婚して失敗してるの。
高校を出て、都会に行きたくて、父親の側から
離れたくて、そういうの、Kさんならわかるかな……
叔父の会社に就職して、そこで知り合った人と
好きかどうかもわからないうちに、結婚して……
でも、人生ってそう上手くいかないのよね。
その人のお母さんと上手くいかなくて、
その人も、お母さんの肩を持つようになって、
気がついたら、家を飛び出しちゃってた……
娘が一人いたわ……どうしてるかな……」
奈美は、隅にあった香取線香に火をつけて、
Kと自分の間に置いた。
「そうだったの……大変だった……ね」
「それでね、去年、父親が亡くなったんだけど、
その時に、あなたのお母さんのことを
頼むって、言われたのよね。
もう虫の息なのに、私の耳元にね、
頼む、頼むって、何度も言ったのよ。
父親は、あなたのお母さんが好きだったのよ。
きっと……」
「えっ、それで、兄ちゃんと結婚する気になったの?」
「うーん、それもあったかな……
でも、やっぱり、あなたのお兄さんが、
私のことをずっと好きだったって言ってくれたから。
そう、あなたのお兄さん、不器用だけど
いつも私を守ってくれていたなって
思い出したの。」
「ふーん、兄ちゃん、奈美ちゃんを守ってたんだ」
「ほら、いつだったか、あなたのお母さんが、
畑で蛇に咬まれたでしょ。
あの時ね、本当は私が咬まれるとこだったのよ。
私が蝮に気づかなくって、たまたま、
畑から帰って着てたあなたのお母さんが、
払いのけてくれてね」
「えっ、その話……」
「お母さん、結局、近所の人に病院に運ばれて、
私、びっくりしてどうしようって思ってたら、
お兄さん、私に、お母さんの着替えを
届けさせてくれたの。
私が、謝りたいって言ったから、そうして
くれたのよ。
後になってね、優しい人だったんだって思った」
辺りはすっかり暗くなり、畦道のほうからは、
蛙の鳴き声が響いていた。
「兄ちゃん、遅いな……奈美ちゃん、いいの?
遅くなっちゃって。」
「ああ、いいの、いいの、家に戻っても、
金魚が一匹泳いでるだけだから。
それに、お母さん、一人にして出られないもの。
でも、どうしてお母さん、私ならわかるんだろ。
私も、わかってくれるから、お世話できるんだよね。
あっ、ほらほら、蛍が飛んでるよ。ほらほら見える?」
「えっ、どこどこ……」
Kは、奈美のはしゃぐ声に沿うように、
小さな黄緑色の光を探した。
一つ、二つ、そして、三つ……
Kは、草むらに駆け出していく奈美の後ろ姿を、
どこか懐かしい目で見つめていた。