『ラ・レーヌ・ビクトリア』は姫の香り?
サンダルをつっかけて、玄関から外へと足を踏み出す。
人目を忍ぶ夜の買い物とは違い、今は燦々(さんさん)と太陽の光に照らされている。吸血鬼のような生活を数ヶ月してきた身にとって、直射日光は思いのほか強烈だ。
「うぐぐ……」
めまいに襲われ思わず壁に両手をつく。杉板の壁は古びた灰色で、表面は風雨に晒されてザラザラしていた。壁に手をつきながらも、紅葉は負けじと庭の方へとじりじりと壁伝いに歩いてゆく。
陽の光を浴びて暮らす、元の自分を取り戻す……! という確固たる決意を持って。
「具合が悪そうだが、大丈夫か?」
心配しているわけでもなく、遅いぞと言わんばかりの様子で葵がエプロンのホコリを払う。革の手袋をポケットから取り出し、すっかり仕事モードへと移行していた。
「ひ、陽の光を浴びるとダメージがあるのよ」
「……そういう設定が流行っているのか?」
「ほっといて、平気だから」
誘ったのは葵の方なのに、何という言い草か。軽い腹立たしさを覚えつつも、目に飛び込んできたのは、美しい薔薇の花だった。間近で見れば、まさに息をのむほどに美しい。深いピンクの色合いの『ガートルード・ジェキル』だ。
今日開花したばかりの一番花。目が慣れてくると綺麗に刈り揃えられた芝生と、瑞々しい青葉を茂らせた薔薇の蕾たちが、紅葉を誘うように輝いている。
「きれい……」
「だろう? 近くで見るとまた格別さ。こっちへ」
葵に誘われるまま、歩を進める。庭の中程に進むに従い、次第に甘い香りが
胸を満たす。まるで香水のような、いや、それよりはずっと自然で心地の良い新鮮な香り。
「甘くて、新鮮な香り……素敵」
「ガートルード・ジェキルは香りが強いほうだし、朝は格別さ」
「はぁ……」
「だが気をつけろよ、トゲは他の薔薇よりも格段に多いから」
「わ……ホントだ」
「ほとんど凶器だからな」
「ひぇえ?」
思わず花に手を伸ばしかけた紅葉は慌てて手を引っ込めた。
花屋で見かける赤や黄色の薔薇にも多少のトゲはある。けれどガートルード・ジェキルの茎にはビッシリと、それこそ無数に細かいトゲが生えている。触れられるのを拒むかのように。
それでも、顔を花弁に近づけて、香りを嗅がずにはいられなかった。
なんて可愛いのだろう。花の形にも見とれてしまう。丸い花びらがみっちりと詰まったような、ころんとした花姿。
「こっちはもう少し上品な花が咲くぞ」
葵が隣の株の前で手招きする。そちらの株にも淡いピンク色の蕾が、今にも綻びそうに膨らんでいる。
「これは何て言う……?」
「ラ・レーヌ・ビクトリア」
「貴族っぽい」
「言うと思ったが、まぁ当たらずとも遠からず。ヴィクトリア女王を意味する名花で、ブルボンローズという系統を代表する名花さ」
「はぁ……ぁ」
ため息と感嘆混じりの間抜けな声を漏らす。なんとも高貴な名前の由来に、まるで夢見がちな少女のように思わずうっとりしてしまう。
女王様の名前を冠する薔薇は、どんな気品に満ちた花を咲かせるのだろう。
「ラ・レーヌ・ビクトリアは可愛い。だが、俺に言わせれば女王さまというよりは、姫さま……だな」
「そ、そうなんですか?」
「丸くて可愛らしい花姿。ころんとしたピンク色の花弁。香りも爽やかでありながら甘い、典型的なダマスク香。まさにお姫様の薔薇、といったところだな」
異国の見目麗しい姫様を想い語る吟遊詩人のようにうっとりとする葵。すでに彼の目には可憐に花開くラ・レーヌ・ビクトリア姫が見えているのだろう。ちょっとヤバイ人である。
「あ、あの……ダマスクって何ですか?」
「む? それは一般的に云われる『バラの香り』と思えばいい。最もバラらしい香水や芳香剤、アロマオイル……。そんな香りさ」
「バラの香りがダマスクってことは、他にも香りに種類があるんですか?」
「ある」
きらん、と葵が表情を変える。聞いてほしかったらしい。
紅葉の質問に、葵は腰を伸ばすと、淡々とした口調で説明し始めた。やれやれ、というよりもまるで質問を待っていたかのように。
「た、たとえば?」
「ティー系と呼ばれる紅茶に似た香り、これは20世紀の現代バラを代表するハイブリッド・ティの名前の由来にもなっている。他にも、独特の甘さを持つブルー系、これは紫系統のバラに特有の爽やかな香り。他にも刺激的なスパイシー系、中には『マダム・アルディ』のようにレモンの香りがするものまであるんだ」
「す、すごい……!」
実にすらすらと薀蓄を披露する葵。バラの香りといえば、芳香剤や香水しか知らなかった紅葉にとって実に興味深い話だった。
気がつくと紅葉は太陽の光を浴び、青い空を見上げていた。
これから咲くであろう薔薇はいったいどんな香りを放つのか。楽しみになっている自分が居た。
こんなに世界は綺麗だったのね。と、今更ながらに思い出す。
葵が別の薔薇の解説を始めているスキに、ラ・レーヌ・ビクトリアの膨らんだ蕾に手を伸ばした。
可愛い、まだ花弁は開いていないけれど、香りを確かめたい。
だが、蕾の先端にそっと触れた途端、突如「くったり」と付け根から折れ曲がった。
「――え!?」
まるで死んだかのように力なく下を向いた。
「えぇえええ!?」
「なんだ一体トゲでも刺し……うぁああ!?」
葵がその光景を見て悲鳴をあげた。更に慌てたのは紅葉もだ。
「ち、ちち、違うんです! 私、何も!」
「おま……何を?」
「ちょ、ちょっと触れただけですよぅ!?」
「……生命力を吸い取ったのか?」
「いっ、いやいや!?」
ジト目の葵に、首をふる紅葉。なんだかすごい顔で睨まれている。
けれど思い当たる節が無いわけでもない。観葉植物はもちろん、サボテンすら枯らす女、紅葉。植物キラーと妹に呼ばれた力は、生命力を吸い取るがごとく薔薇さえも枯らしてしまうのか。
「吸血鬼系というより、生命力を吸い取るエナジードレインか」
「ち、違います! たぶん………」
自分の植物キラーとしてのスキルが発動し、この庭の薔薇を枯らしたというのなら、薔薇を偏愛する葵に殺されかねない。いや、庭師に殺されて肥料にされる家主ってなんなのさ。
やはり、自分は庭に出てはいけなかったのだろうか。ラ・レーヌ・ビクトリアの蕾と同じように項垂れる紅葉。
「冗談はさておき」
のしのしとやってきた葵はそんな紅葉をよそに、蕾をしげしげと眺めた。そして何かを確信したように「くっ」と、舌打ちをする。
「これはバラゾウムシの食害の痕だ」
「え……?」
食害?
「犯人は害虫だよ。薔薇園芸家にとって最大の敵、バラゾウムシ……!」
葵は折れた薔薇の蕾、その付け根部分を眺め名探偵の如く犯人を言い当てた。亡骸――折れたバラの蕾を悔しそうに握りしめる。
「蕾を、虫が食べたんですか?」
「食べたと言うより、茎に口を刺して汁を吸うんだ。すると蕾が萎れてしまう」
「な、なぁんだ……そうだったの」
おもわずホッと胸をなでおろす紅葉。
「安堵している場合か紅葉! ……始めるぞ!」
「な、何をです」
自分の名前を呼び捨てにしたことなど気にならないくらい、気が抜けていた。
「戦争を」
「えぇ!?」
葵は目の前を飛んでいたコバエのような虫を、まるでス○ープラチナのような素早い動きで捕らえ、握りつぶした。
<つづく>
【おまけ】
薔薇データ
『ラ・レーヌ・ビクトリア』
(作出年 1872年 作出国 フランス 作出者はJシュワルツ
フランス生まれのブルボンローズを代表する名花で、英国のビクトリア女王に捧げられたバラだそうです。
とにかくかわいい。
ラベンダーローズ、淡いピンク、言い方は様々ですが優雅な王女様です。
丸くて深いカップ咲きで、数輪まとまとまって咲きます。香りは甘くて上品なダマスク香。
枝は細く、トゲも少ないです。シュラブ状からつる状まで、とても良く伸びます。支柱に絡めたりパーゴラなどに這わせても良いかも。
インとなる場所へ誘引して咲かせると大変美しく、しっかりとした存在感があります。