『ガートルード・ジェキル』の誘い
◇
窓を開けると目のさめるような香りがした。
風に乗り運ばれてきたのは甘くて、けれどキリッとした爽やかさを感じさせる薔薇の香りだった。
「……わ、咲いてる!」
香りに誘われて庭に目を凝らすと、目に飛び込んできたのは鮮烈なピンク色の花だった。
窓から比較的近い位置に植えてあるブッシュ状の薔薇の株で、何輪かの花が開いている。
確か、葵さんが早咲きの薔薇、『ガートルード・ジェキル』と呼んでいた。それは早咲きで香りも強い品種なのだとか。けれど、薀蓄で聞かされるのと実際に咲いた花を見て、香りを感じるのとでは雲泥の差。目の覚めるような深いピンクの色合いと、甘くて強いキレのある強烈な芳香に驚く。
「いい香り……!」
近寄らなくても鮮烈な香りが漂ってくる。人工的な香水やお部屋の芳香剤と比べるのは失礼なほど、その香りは自然と鼻の奥深くに入り込み、心を軽やかにする。
もっと見たい……! 窓辺から身を乗り出して観察すると、『ガートルード・ジェキル』は地面から伸びた細い枝が幾本も絡まりあい、1メートルほどの株になっていた。全体的に葉は少なめで、枝も葉も他の品種に比べると赤みがかっている。細い枝の先端には、いくつものピンク色の蕾がついているが、幾つかはほころび、手のひらで包み込めるほどのカップ咲きの花を開いている。
剪定も弱めなのか、やや乱れがちの樹勢。けれど目立たない黒い金属製の支柱に、麻ひもで几帳面に整えられているのがわかった。それは『薔薇庭師』である葵の手による仕事だ。
花は数えるほどしか開いておらず残りの多くは蕾のまま。お花屋さんで売っている薔薇のように茎も真っ直ぐではなく、花姿も整っていない。花束にするバラとは明らかに趣の異なる、言い換えればどこか野生味を感じさせる味わいのある花姿。
その色合いと香りに、薔薇に詳しくないはずの紅葉でさえ、しばらくの間うっとりと見とれていた。
「一番花の香りこそ正に至高」
「きゃっ!?」
窓の下から声がして、紅葉はちいさな悲鳴を上げた。
「朝から騒々しいな。……おはよう紅葉さん」
窓の下側の地面に座った葵の髪と、いつもの作業着が見えた。すはー、と深呼吸しながらうっとりと、薔薇の香りを楽しんでいる様子だった。
「あ、葵さん!? おはようございます。って、いつからそこに!?」
「朝6時から」
「え、えぇ!? まさか、一番花を見るために?」
「当然だ」
「……信じられない」
「信じられないものか。手塩にかけて育てた、愛すべき薔薇。その花開く様子を見たいと思うのは庭師なら当然のことさ」
さも当然、とでも言いたげに薔薇を見つめている。窓の下に座った葵は、まるで修行僧のように座禅を組み、傍らにはミネラルウォーターのペットボトルが置いてある。
「何かの修行なんですか?」
ヨガの修行のように深く香りを吸い込んでいる。
「この素晴らしい香りを家主より先に俺が全て吸い込んでやろうと思って」
「私にも残してください」
まさに薔薇狂い。
葵さんは庭師としては一流なのかもしれないけれど、ちょっと変な人なのかも。紅葉はどこかで警戒しつつも、その様子が可笑しくて。
家から出たくない無職ニートのダメ女に、朝っぱらから薔薇の香りを吸い込みに来たという変人の庭師さん。けれど妙な親近感も感じなくもない。
二人で暫くの間、うっとりと庭の薔薇を眺めていた。
「……香りは甘さだけではなく、深みがありスパイシーでキレもある。この香りは、ダマスク・クラシック香というんだ」
葵の薀蓄にしばし耳を傾ける。大人の男性なのに、声に不浄さを感じさせない耳障りの良いものだ。
「これが、オールド・ローズなんですか?」
「まぁ、正確には古典薔薇の系統ではあるが、とある作出家の作出した品種だ。コンテドシャンボールと、ワイフオブバスから交配されたガートルード・ジェキルはオールドローズ・ハイブリッドともいわれていて……」
「わ、わかりました……もういいです」
しばらく花を眺めていた葵は立ち上がった。そして、くるりと紅葉のほうを振り返った。紫紺色を帯びた瞳がじっと見つめている。
「紅葉さんも、庭に出てみないか?」
「えっ……?」
「他にも咲きそうな品種がある。紹介しておきたい」
営業スマイルとも違う自然な笑みを浮かべ、誘うように庭の方へ視線を向ける葵。
「でも……私は、あまり……外は」
苦手で、好きじゃない。お日様の下は特に。
自分がみずぼらしい気がして。お日様の下で綺麗な薔薇と並んだなら、自分のちっぽけな価値なんて吹き飛んでしまう気がした。
「永遠にそこに閉じこもっているつもりか?」
「……! ほっといてよ」
余計なこと、言われたくないことを言われ、紅葉の声が上ずった。
「すまない。余計なことを言った」
僅かに頭を下げ、背を向ける。葵は何事もなかったかのように、すたすたと庭の方へと歩いていった。途中で立ち止まり薔薇の木々の様子を眺め、葉の裏に虫がいないか見ている。
「葵……さん」
ぎゅっと窓枠を握りしめる。もし、手を掴んででも外に連れ出してくれたなら……。
庭ぐらい散歩してもよかったかも。もっと強引に、などと身勝手な妄想だろうか。きっかけをみすみす無くしてしまったことに紅葉は気がついた。
薔薇庭師の葵にとっては薔薇こそが一番で、家主は取るに足りない存在なのだ。やはり自分は価値のない人間なのか。
「紅葉さん」
と、窓から一歩、離れようとした紅葉の耳に声が届いた。
抑え気味だが、明らかに嬉しさを抑えきれないような、弾んだ葵の声。
「……?」
「嫌でも苦手でも、とにかく庭に出て来るべきだと思うんだが」
「葵さん……」
「花を近くで見て欲しい、そこで感じるより、香りもずっと凄いから!」
葵がまるで子供のように目を輝かせた。そして手を差し出す。
「う、うん!」
<つづく>
【おまけ】
薔薇データ
『ガートルード・ジェキル』
(作出年度 1986年、作出者はディビッド オースチン)
英国生まれのピンク色の大輪でロゼット咲き、とてもゴージャスな感じです。
イングリッシュローズを代表する名花で、甘く強い芳香を放ちます。
そのため英国ではローズのアロマエキスを抽出するために利用されているのだとか。
性質は丈夫で、日本の蒸し暑い夏にも寒い冬にも耐え、庭植えが可能。病気にも負けないほど成育は旺盛。けれどトゲが多いです。全体を細かくて鋭いトゲが覆っているので注意が必要です。