一番花の咲く頃に
◇
「これは酷い! 何て汚い部屋でしょう!」
テレビからレポーターの悲痛な叫びが流れてくる。ゴミ屋敷に突入したカメラがゴミに埋まった部屋と、顔にモザイクがかけられた家主を映す。
「……」
ぽり、と煎餅をかじりながら、紅葉はぼんやりとした眼差しでテレビを眺めていた。『突撃! ゴミ屋敷を片付け隊!』なる社会派バラエティ番組のワンシーン。引き籠り歴十年を越えるという中年男性が溜め続けたゴミの量はハンパではない。
レポーターが「どうしてこんなになるまで溜めたんですか!?」とマイクを突き付ける。
「人間、溜め込みたい時だってあるわよ……」
大先輩をさりげなくフォローしながら、煎餅をかじる。
綺麗なちゃぶ台の上には、湯気を立てるお茶と醤油煎餅の袋がひとつ。
周囲の畳にはチリひとつ無く、雑誌もノートパソコンも本来あるべき場所に戻っている。窓は開け放たれ、5月半ばの心地よい風が緩やかにレースのカーテンを揺らしている。
人間やれば出来るもの。土の中で眠っていた種が春の陽気を感じて発芽するがごとく、紅葉は覚醒した。
引っ越してからおよそ半年間も蓄積し続けたゴミ。それは暗く鬱屈した紅葉の気持ちを代弁するかのように、澱のように周囲に降り積もっていた。パワハラまがいのリストラと失恋が重なり、何事に対してもやる気が起きなかった。
けれど、このままではいけない。そう思いったが吉日。猛烈な勢いでゴミを袋に放り込み、分別し片付けた。部屋に積み重なっていた服や荷物を本来の位置に戻し、少しずつ綺麗に掃除をしていった。
そして2週間。
気がつくとテレビが映し出すゴミ屋敷の惨状を、まるで他人事のように眺めている紅葉がいた。
――人間、何かで挫折することはありますよ。けれど何かきっかけがあれば、立ち上がれるものなんですけれどねぇ。
コメンテーターがゴミ屋敷の家主に対し、実に良いことを言った気がする。なるほどね、と紅葉は相槌を打ちながらお茶をすする。
「……あ、いけない」
気がつくと時計はもうすぐ午後3時前を指していた。
庭先からは庭仕事をしている気配がする。午後1時から仕事をはじめた庭師の葵は、甲斐甲斐しく薔薇や庭木の剪定をしたり、防虫の薬剤を散布したりと忙しく働いている。
紅葉が生活を改める気になった「きっかけ」は、庭師の葵だった。
遠い記憶の向こう側で霞んでいた輝く宝物。それは子供の頃に感じた「夏の庭」の美しさだった。その想い出を葵は甦らせてくれた。
だから、少しでも前に進もうと立ち上がる決心をした。
まだ仕事を探す気にはならないけれど、せめて生活だけはお祖母ちゃんに恥ずかしくないようにしようと思う。いつか、この土地で新しい仕事を見つけて、暮らしていけるように。
「お茶を出さないと」
ここのところ葵は1日おきに午後になると軽トラックでやってくる。
紅葉に挨拶をして庭を掃除、薔薇の手入れはもちろん、他の庭木も剪定し手入れを行う。そして、きっちり午後4時前には帰ってゆく。
どうして毎日来てくれないのだろう?
ついでに玄関先の蜘蛛を退治してほしかったのに。
庭師は仕事なのだから他にもお客さんを抱えているのだろう。当然といえば当然のことに思い至る紅葉。きっと午前中は何処かの家、午後はこの家という風に、あちこちの家の庭を巡回しながら仕事をしているのだろう。そんなことを直接聞くのもなんだか躊躇われた。
けれど、来ない日は心なしか胸の奥が苦しい。
待ち焦がれているわけではないが、車のエンジン音が聞こえると、つい窓から外を覗いてしまう。
庭師なのだから毎日来てくれるのかと思っていたのに、来ない日もあることに少しがっかりだ。
けれど今日は庭に来て手入れをしている。
だからせめて今日はお茶を出そう。
リビングを立ち、台所に置いてある年代物の冷蔵庫を開ける。中には冷えたコーラしかない。外は日差しが強いだろうから、熱いお茶よりも冷えたコーラがいいだろうか。
ひとしきり思案した後にお盆にコーラの缶を載せて運ぶことにした。
「どうぞ、三時のお茶です」
お盆に載せたコーラごと、窓からにゅっと手をのばす。
お茶というかコーラですが、と一言添える。
「これは……お気遣い感謝します」
「どういたしまして。あのこれ、ダイエットコークですけど」
「人工甘味料は自然の摂理に反している。自然の糖分の方がありがたいんだが」
「次から考えておきます」
葵なりの冗談か本心か。軽く笑うと、仕事の手を止めて窓から突き出たお盆の上からコーラを受け取った。
庭師さんには午後のお茶だけでなく、お茶菓子も出すべきかしら……。そんな風に思う紅葉。ポテトチップスならばあるのだけれど今はこれが精一杯。
縁側もあるのだが、そこに出てお茶を勧める勇気はまだない。
ぷしゅ……ごくごくという音を窓越しに聞きつつ、庭に視線を向ける。
いつの間にか薔薇の木々は葉を広げ、若々しい芽を急速に伸ばしていた。
木々の根本に植えられていた地植えのクリスマスローズ――これも葵が教えてくれた花の名前なのだが――額だけを残して色あせている。遅咲きだった枝垂れ桜は散っている。
北国の遅い春が終わり5月の半ばを過ぎた今、雑草に覆われていた庭は綺麗に整えられ、次の主役の登場を待ちわびる舞台のように思えた。
「もうすぐ、一番花が咲きそうだ」
葵は視線を庭に向けたまま、コーラの缶を軽く振る。
「え? 一番槍?」
「ここは戦場じゃない」
「すみません、ボケです」
消え入るような声で言う紅葉。とっさに絞り出したボケを拾ってくれたことにやや赤面しつつ、一番花の話題に戻る。
「一番花って、最初に咲く花って意味ですか?」
「そうだ。薔薇の蕾が膨らみ始めている。見えるか?」
「あ……ほんとだ」
窓から顔を出して庭に目を凝らす。遠くてよく見えないが葵が指差す薔薇の木にうっすらとピンク色を帯びた蕾のようなものが見えた。
「最初に咲くのはガートルード・ジェキルか、あるいはシャルル・ドゥ・ミルか」
何と素敵な名前だろうか。まるでフランスの名門貴族のよう。
目が慣れてくると薔薇の木の仔細が見えた。若葉の先端にふっくらとした丸い蕾がいくつか見える。
「ちゃんと花が咲くんですね」
「あぁ、去年は何の手入れもされていなかったが、それでも一人で咲いていたみたいだ。今シーズンも手入れなしだと弱って枯れてしまうところだったが、ギリギリだった」
「そうなんですか……」
「本当を言えば、今年は花芽をすべて摘み取って樹勢を回復させたいところだが……ひとつも咲かせないのも寂しい。俺も花や香りを確かめたいし、蕾をいくつか残してみた」
どうやら弱った木を剪定し、今年は花を咲かせないようにしたかったらしい。けれど花をいくつか残してくれたということらしい。
「えと、ちなみに……もう一回。なんて名前でしたっけ?」
どうも名前が難しくて覚えられない。先日までは薔薇に名前があること自体知らなかったのに、これもちょっとした進歩だ。
「トゲの多いシュラブ樹形、赤っぽい葉がガートルード・ジェキル。向こうで株立になっているのが、シャルル・ドゥ・ミル。花の色や香りは、咲くまでのお楽しみだ。シャルル・ドゥ・ミルはガリカ系で、カップ咲きが可愛いんだ。花弁は濃厚なピンクでダマスク系の強い香りをもつとても魅力的なバラで……」
葵は饒舌に薀蓄を喋り続けた。その様子は実に楽しそう。
そんな葵の横顔と庭先の薔薇の木を交互にチラ見しながら、紅葉はつい尋ねた。
「葵さんは薔薇にとても詳しいんですね。他のお宅でも……薔薇の手入れをしているんですか?」
質問を耳にした途端、葵は語るのを止めた。一瞬、端正な横顔がこわばったようにも見えた。
「……葵、さん?」
「仕事にもどる。ごちそうさま」
「あ、はい……」
空になったコーラの缶を紅葉に渡すと、葵はいつものように革手袋をはめて庭に向かってスタスタと歩いていった。
その翌日から2日ほど、葵は姿を見せなかった。
<つづく>