棺の中、そして芽吹き
「この庭は、初夏から夏にかけて薔薇が一番、綺麗に咲く。それまでに俺がなんとかする」
葵は自らに言い聞かせるように庭を見回した。
雑草が生い茂り荒れ果てていた庭は、いつの間にか草取りが終わっていた。
輪郭が見え始めた庭のあちこちには薔薇薔薇の木やつるが芽吹きの時を待っているようだった。根本の周囲はスコップで掘り起こされ、肥料を鋤き込んでいる最中らしい。
「夏の庭……」
夏空の下で賑やかに揺れる薔薇の花の姿が重なった。美しく青い芝生に、赤や黄色にピンク色のカップ咲きの薔薇の花。夢の中で見た庭が、ここなのだ。
そうだ――ここがお祖母ちゃんの庭。
紅葉はぎゅっと手のひらを握りしめた。
芽吹き始めたばかりの庭の木々、薔薇の苗には当然まだ花は無く、若芽がようやく目覚めたばかりに見える。繁茂する雑草に埋もれながらも、新しい家主や庭師の手が入るのをじっと待っていたような気がした。
厚い革手袋を付け直すと、すちゃっと葵はスコップを構えた。
「兎に角、俺は忙しい」
「あ、はい」
「今日と明日で根切りに施肥をすべて終える。次は、古い枝の剪定、つまりカットをする」
「ヘアサロンみたい」
「そんなところだ」
葵は意外にも素早く反応してくれた。
我ながら良い例えだと思ったけれど、紅葉は自分の寝癖のついたままの髪を思い出した。今更ながら、何という格好で男性と話しているのかと赤面し、窓際から部屋の奥へと後ずさる。足元でゴミ袋が音を立てた。
「本当は4月になる前にそこまで終わらせたかった。だが仕方ない。若葉が出始めたら忙しくなるぞ」
葵の頭の中には育成プランでもあるのだろう。多少予定と変わってしまった工程表を組み直し、スケジュールを変更しているようだった。
「お、お願い……します」
紅葉はとりあえず葵に任せるより他に無かった。自分が何か、薔薇の手入れをするなんて出来っこないと思っていたし、何よりも外に出るのが嫌なのだ。
「あぁ勿論だとも。ところで新しい家主さんよ。人のことを泥棒呼ばわりする暇があったら、ルイーズの見舞いでもしたらどうだ?」
そういうとふいっと後ろを向き、スコップを近くの苗の根本に向けた。
「え……ルイーズ?」
ルイーズ・オディエ。
玄関先でトラックに踏み潰されて折れてしまった、あの薔薇の苗だ。
「あの子は生きている。薔薇は強いものだからな」
ざくっと音を響かせながらスコップを地面に突き立てる。
紅葉は思わず窓辺から離れ、駆け出していた。ゴミ屋敷のような部屋を跳び越えて廊下に出る。古新聞と雑誌、古着の入った袋が障害物のように置いてある。
薄暗い廊下の先にある玄関にたどり着くと、サンダルをつっかけてジャージ姿のまま玄関の引き戸を開ける。
優しい朝の光と眩しさ、水の匂い。
春の終わりを迎える皐月の風が、冷たくも心地よい風が全身を撫でた。
やがて目が慣れてくる。
すると玄関先の濡れた石畳の向こう、門柱の脇に竹の棒が三脚のように設置してあるのが見えた。先日までは無かった竹の三脚の下には麻の紐で縛られ支えられた小さな苗木がある。
ぱたぱたとサンダルのまま近寄って、しゃがみこんで観察する。すると、根本まで深く枝をカットされたうえ、三脚のような竹の棒で支えがしてあった。
「ルイーズ・オディエ……無事だったの!?」
無残にもへし折られたはず苗木。
葵との出会いの木。「殺した」とまで言われた苗木には、大怪我の治療を終えギプスでもしたかのように養生されていた。
本来なら誰からも手を差し伸べられることなく、残酷な新しい家主に見捨てられ、枯れる運命だった。
哀れで痛々しい折れ曲がった姿に紅葉は自分自身を重ねていたのかもしれない。
「あ……!」
よく見ると淡い赤色を帯びた若芽が枝の先から伸び、小さな葉を広げ始めていた。まだ小指の先程の芽生え。ごく小さな葉の先にはゴマ粒のような水滴が光っている。それは固く枯れた印象の枝から伸びており、必死に生きようとする命の輝きを感じずにはいられなかった。
生きている――。
傷ついてボロボロだったルイーズ・オディエの木。枯れる運命に抗うかのように、必死に生きようと頑張っている。そんな風に思えた。
古い薔薇の系統、オールド・ローズ。確か葵はそう言っていた。踏みつけられてへし折られてもこうして新しい芽を伸ばす。その生命力の強さに心動かされる。
一体、どんな色の花を咲かせるのだろう。
遠い記憶の糸を辿ると……確かに玄関先のここににも何か薔薇が咲いていた気がする。お祖母ちゃんの家を訪れた時に最初に感じた甘い匂い。あれはもしかして、ルイーズ・オディエの花の香りだったのではないだろうか?
確かめたい。出来ることなら、もう一度。
紅葉は静かに立ち上がると、大きく鼻から息を吸い込んだ。朝露と湿った森の匂いがする。ゆっくりと息を吐きながら、玄関へと向かう。そして薄暗いトンネルのような廊下を通り闇の神殿のような自室へと戻る。
カーテンが閉じられた薄暗い部屋の中。窓の外からは葵が作業を続けている音が聞こえてくる。
万年床と化した寝具と青白く光るパソコンの画面。そして周囲を埋め尽くす白い葬列のようなゴミの山。まるでここは棺の中だ。
自分は生きているのにまるで、死んでいるかのよう。
先ほど感じた玄関先の空気と光、そして想い出の向こう側の薔薇の香り。
懐かしい記憶の向こう側の光景に目を細める。
葵の言う、「夏の庭」に戻りたい。
――私もまた……立ち上がれるかな?
ルイーズ、貴女みたいに。
紅葉は小さく呟くと、手近なゴミをビニール袋に詰め込みはじめた。
<つづく>