庭師と秘密の料金
「お祖母ちゃんが遺したローズガーデンの、意味?」
「そうだ」
「そんなの……知らないです」
紅葉はカーテンの隙間から答えた。
庭師の美青年、葵の働きぶりを惹き込まれるように眺めていた事に気がついて、思わず赤面。カーテンの内側に再び顔を隠す。
草取り作業の手を一度休め、ゆっくりと立ち上がった葵は、腰を逆海老反りに曲げ伸ばした。いくら若いとはいっても、しゃがんでの作業は辛いのだろう。
辛いならやめればいいのにと思う。無職という甘美な怠惰、たまに職安にいくことで失業保険も得られるという打算、そんな生活に進んで身を投じた自分の燻った気持ちと重ね、心の中で投げやりに呟く。
「この庭をとても大切にされていた。薔薇は藤崎様にとって宝石よりも大切な宝物だった。そういう意味だ」
葵は、まだ何の花も咲いていない庭を見回して目を細めた。額には汗が光っている。
「庭とバラが宝物……?」
紅葉は、春の終わりに差し掛かった庭を見回した。全く手入れのされてなかった庭とそれを囲む雑木の向こうから、小鳥のさえずりが聞こえてきた。
25メートル四方もありそうな広い庭は、雑草の生い茂る元芝生の部分と、それを囲む雑木の鬱蒼とした部分に別れていた。
それは、紅葉にとっては興味の対象外。味気ないただの山野。野放図な雑草たちの版図は、夏になれば忌むべき害虫が蔓延りそうな、足を踏み入れたくもない場所に思えていた。
庭には興味も感心も無かった。パソコンのゲーム画面の背景グラフィックの方がよほど良い。鮮やかな映像と耳に心地よい単調なノイズ。流麗なキャラクターたちの織り成す世界に浸っていらるのだから。
けれど、大好きだった藤崎のお祖母ちゃんにとっては庭が大切な宝物だった。それを聞いた途端、目の前に霞のように掛かっていた薄いヴェールが風に吹かれ、晴れた気がした。
味気ない庭に思えたが、よく見ると違う。
芽吹き始めた広葉樹の木々とは別に、棘の生えた低木が株になっているのが見えた。
目が慣れてくると、その株は無数にある。触れると怪我をしそうな鋭いトゲの生えた植物の枝が逆さまのホウキのように地面から生えている。それらは腰の高さほどの塊となり、庭のあちこちに幾つも並んでいる。
「この子達はすべて薔薇だ。古き系統の品種。これは、ラ・レーヌ・ビクトリア。それがキングジョージ4世、パーゴラに絡まっているのがマダム・アルフレッド・キャリエール。ブルー・マジェンダもある」
素敵。なんという格好いい名前だろう。まるで西洋ファンタジーの登場人物のよう。
「名前、すごいね。まるで外人みたい」
「すべて品種名だ。今は花は咲いていないから分かりにくいが、咲けばそれぞれ色も香りも、咲きかたにも個性がある」
「そう……なんだ。名前があるなんて知らなかった」
「お前いや。く……紅葉がへし折ったルイーズだって名前だっただろう」
「そ、それは私が折ったわけじゃないです」
「ふん」
葵は初めて紅葉の名を口にした。無愛想な表情こそ変えないが、少し口ごもった気がした。
窓越しにカーテンを半分だけ開け、視線を庭に向ける。
薔薇たちは庭に幾つもバランスよく配置されていた。芝生と雑木林を仕切る鳥居のように「藤棚」に似た木製の枠組みがあり、棘の生えた蔓が絡まっている。それが葵が言った「パーゴラ」だろうか。
植物に詳しくない紅葉にもようやく理解できた。
これらは全て芽吹き始めたばかりのバラなのだと。
「藤崎様は薔薇が好きで、珍しい品種を集めては大切に育てていらっしゃったんだ。オールド・ローズ。どれも思い出深いものだと聞いている」
けれど同時に疑問が浮かぶ。
「あ……アオイさんは、どうしてそれを?」
「俺が庭師を目指すきっかけになったから」
「そうなんですか」
「あぁ」
短く答え、それ以上は語ろうとしなかった。葵は手袋を再び付けると、地面に片膝を付きながら、再び草取り作業を再開した。
祖母、藤崎のお祖母ちゃんと薔薇庭師を名乗る青年、葵の間に何があったのだろう。それ以上、深入りして訊くことも躊躇われた。
「じゃ、よろしく頼みます」
理由はどうあれ、庭の草むしりと手入れをしてくれるなら有り難い。
あのまま放置していては、雑草たちが繁茂し、おぞましい害虫達の巣窟になるのは目に見えていたのだから。
面倒くさい。あとは庭師――葵に任せよう。
紅葉は分厚いカーテンを閉めると、布団にあぐらをかいてヘッドフォンを装着、黒縁のメガネを装着しノートパソコンのロックを解除。
青白い人工的な光が紅葉の顔を能面のように照らし出す。
「……」
起動したノートパソコン画面。その中では素敵な騎士様と悪役令嬢が恋に落ちるノベルゲームが展開されていた。騎士様に敵役の貴族が決闘を申し込み、何故か上半身の服が破けるという熱いシーンが展開されていた。
けれど、いつもなら涎を垂らしそうになるほど没入できるのに、今日はどうも頭に入ってこない。それでも一度始めたパソコン世界の度はやめられない。
ただの惰性、ルーチンワークのようにマウスをカチカチとクリックし時間を指先ですり潰してゆく。
どれくらい時間が経っただろう。
時計を見ると、昼を挟んでもう午後3時近かった。
「もうこんな時間……」
何かモヤモヤする。何か……が気になる。
気になることがある。心の片隅に澱のように。
「あ……!」
気がついた。
とても、大事なことを忘れていたことに。
紅葉は立ち上がり、おもむろにカーテンを開けた。
「あの! 料金は!? 何ていう造園業……」
言いかけて紅葉は言葉を失った。
眩しい光に悲鳴を上げそうになる。自分は闇属性のダメ女、このまま吸血鬼のように溶けてしまうんじゃ、とさえ思えた。
庭師への報酬はいくらなのだろう? 世の中、無料は存在しない。従量制で草取りの作業量で課金されても堪らない。
しかし、目が慣れてきた時、そこに葵の姿は無かった。
忽然と消えたかのように、美青年の庭師は居ない。代わりに、取り去った雑草を積んだ小山がいくつか庭の隅に出来ていた。芝生は遂にその本来の姿を取り戻し、傾きかけた太陽の光を浴びて嬉しそうに輝いている。
「あ、綺麗になってる……」
芝刈りもされ、綺麗に刈り揃えられている。
なんという手際、綺麗な仕事ぶりだろう。
紅葉は思わず見とれていた。
まだ雑木やパーゴラの周囲は雑草が残っているが、半日たらずで芝生の雑草は全て取り払われ、本来の美しさを取り戻していた。
芝生のあちこちには、レンガを並べた円形の小さな花壇が点在している。その中には背の高さの違う薔薇の樹が数本、植えられている。
若芽が出始めた薔薇の木々は、まるで楽しそうに、これから訪れる季節に向けて、仲間たちとお喋りをしているようにも思えた。
全てが外人みたいな名前の「オールド・ローズ」たちなのだろう。
しかし、どれがどれだか、さっぱりわからない。
名札の立て札ぐらい付けてくれたら、せめて多少なりとも興味も湧くのだけれど。
「って、アイツは何処に消えたの? 帰ったの?」
ハッと我に返り窓から身を乗り出して、辺りを見回す。
けれど、ブボボボ……と遥か遠くで軽トラが遠ざかっていく音が聞こえた。丘を下り去っていく謎の庭師。
「あぁ、もう!」
あとで法外な手入れ料金を請求されたらどうしよう。
紅葉はため息を吐きつつも、明日もまた来るのだろうか? とそんな事を考えている自分に気がついた。
――だったら、せめて顔ぐらい洗って、髪もすこしマシにしないとダメじゃん……。
<つづく>