ヒマラヤ帰りの女将さん
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愛車、おとうふ号は今日も快調。
秋の気配漂う村道をひた走り、勤務先である日向園芸へと向かう。
アルバイトから正式に契約社員という肩書に昇格したことで、一層やる気も出てきた。気がつけばいい感じに社会復帰させて貰ったことに、感謝せずにはいられない。
葵に、店主である親父さんを始めとした皆さんに。
稲穂は重そうに頭を垂れ、黄金色に色づき始めている。窓を少し開けながら車を走らせると、朝の澄んだ空気が心地よい。
信号待ちでバックミラーに視線を向け、メイクと髪をチェック。
薄いナチュラルメイクに、自然に伸びた肩までの長さの髪。とりあえず鋤のない「働く女」の顔であることを確認する。
「よし、今日も大丈夫、たぶん大丈夫」
自分に言い聞かせるように、青信号とともにアクセルを踏む。紅葉の運転する車はやがて、村の中心部にほど近い日向園芸の駐車場へと滑り込んだ。
車を降りると、ちょうど店の横開きの扉がカラカラと開いた。
中から、ほうきと塵取りを持った女性が姿を見せる。
「おはようございます!」
紅葉の仕事は、この挨拶から始まる。
「あ、紅葉ちゃんおはよう! 今日も肌艶がいいね」
「やだもー、女将さんには負けますよ」
「はっはっは!」
快活な笑いが返ってきた。
キャリアウーマン風の中年女性は、白いスラックスに仕立てのいいグレーのジャケット姿、髪はやや茶色で長くてウェーブした髪を一つに結わえている。
老舗旅館の女将さんのような品の良さと、面倒見の良さそうな人懐っこい笑顔が魅力的な女性。
「掃除なら私がやりますから!」
慌てて駆け寄ってホウキと塵取りを、その手から奪う。
「仕事を取られたぁ……」
「女将さんは会長なんですから、でーんと座っててください」
「別にいいのにぃ。身体がなまるわぁ」
店先で「うんっ!」と背伸びをするこのお方こそ、日向園芸の影の支配人、日向柚子さんである。
つまり葵のお母様。
にこにこと不満を漏らしつつも、背筋はシャンとしていて、鈍っているようには見えない。
キリリと整えられた眉に年を感じさせない目の輝き。顔の雰囲気は、どちらかというと優しい美人の茜さんより、兄の葵に似ている感じがする。
紅葉がバイトから契約社員に格上げされたことで、雑務と会計職、つまり事務職を引退。店の会長職に収まったらしい。
時折、どこぞの組の姉御といった風格と凄みを見せつけて、店主であるはずの旦那さんはもちろん葵も軽くアゴで使っている。
「……おう、紅葉」
「あ、おはようございます葵さん」
眠そうな顔で葵がやってきた。庭先さきから来たところを見ると、松や他の植物への水やりなど、手入れをしていたのだろう。
「なんだぁ? そのシケたツラァ」
さっそく女将さんに絡まれる葵。
「うるせぇな、朝は弱いんだよ」
「髪もちゃんとしなさいよ、面倒なら坊主にしてあげようか。中学生のときみたいに」
「やめろや!」
寝癖のついた頭をワシワシとすると、葵が手で払い除けた。
「あはは……」
いくつになっても母と息子なんだなぁ、とちょっと微笑ましい。
葵は心底イヤそうだけど。
そういえば恥ずかしいのか、女将さんを「おい」と呼ぶばかりで、面と向かって「お母さん」とか「ババァ」とか呼んだところを見たことがない。
「水、やっといたからよ」
ぶっきらぼうに言う葵に、女将さんは「あんがと」と応じている。
女将さんの趣味は、村の涼しい気候を生かして、幻の花と呼ばれる「メコノプシス」を育てることだ。
メコノプシス――通称、青いケシ。
まだ写真でしか見たことはないけれど、真っ青なブルーの透き通った色合いの花が咲く。
四弁花と呼ばれる四枚の花びらが、重なるように咲く姿は神秘的。ケシとはいってもどちらかというと、ポピーという園芸品種に似ている。高山植物に分類されるので、東北や北海道、いわゆる寒冷地でないと夏越し出来ず、育てるのは極めて難しいのだとか。
なんたって原産地はヒマラヤ山脈の周辺。そこはネパールの首都、カトマンズから更に遠い標高1500メートルを超える高山地帯なのだから。
そこは女将さんが夏に二週間ほど姿を消し、避暑してきたという場所でもある。
仏教とヒンドゥー教の神々の史跡をめぐり、、原産地に咲く本物の花を直接見てきたのだという。ベストシーズンからは少し外れてはいたものの、運良く花に出会えたと写真を見せてくれた。
葵といい女将さんといい、何かに夢中になるあたり実に親子らしいと思う。
バイトである紅葉をたいそう気に入ってくれて、バイト期間終了後も雇い続けることを決めたのも女将さんこと、柚子さんなのだ。
「さて、掃除が終わったら、営業会議をするから店の中に来てね」
今日の営業会議とは、つまり仕事の割り振りだ。
「はい!」
紅葉はホウキを動かす手を早めた。
<つづく>




