夏の記憶
◇
「私がこの子を立派に育ててみせます」
聞く人が聞いたら勘違いされそうな宣言を残し、紅葉は家路を急ぐ。
思い立ったら、吉日。
この不憫な薔薇の苗を自分の手で救いたい。そんな一心だった。
葵に貰ったアドバイス通り、まずは家で一回り大きな鉢に植え替えたい。
暑さを避け日陰で休ませたおかげで、葉は元気を取り戻していた。助手席の足元に置いた薔薇の鉢植えが、車の動きに合わせて小さく揺れている。
運命的な出会いを果たした薔薇の苗。
売れ残った苗と、思い通りにならない自分の人生を重ね合わせていたのかもしれない。つまずいて、転んで、逃げ出した自分。
それでも、まだ終わっちゃいない。
こうしてなんとか生きている。
捨てる神があれば拾う神もいるのだから。
「これを読んでおけ」
「葵さん……」
見捨てずに手を差し伸べてくれた人がいる。
――『はじめての薔薇栽培』
バイトの帰り際に手渡された本は、葵の私物だった。
「小学生の時のものだが、紅葉には丁度いいだろう」
「は、はい」
さっと目を通すと、栽培方法や鉢植えの管理方法がわかりやすく、写真と図解で示されている。彼いわく「小学生の時には内容はすべて暗記していたぞ」と豪語するほど読み込まれた古い本だった。
確かにボロボロで薄汚れていて、背表紙には『5年2組 ひなたあおい』と名前まで書かれている。
「夏休みに読みまくって、感想文はこれで書いた」
「マジですか……」
ハウツー本、しかも薔薇の育成本で感想文を書く子なんて、先生はどんな顔をしただろうか。捻くれているというか、突き抜けているというか。
村はずれの信号で停車し、青信号を待つ。
「うふふ、小学生の葵さんかぁ」
あの顔立ちなら子供の頃は美少年だったに違いない。さぞかし可愛かっただろう。いや、けれどあの性格だし。目付きの悪いクソガキ、だったかもしれない。
ハンドルを握ったまま思わずニヤニヤしてしまう。
ひぐらしの声が一段と高くなる。傾きかけた太陽が、道端に並んでいる背の高いひまわりの影を長くする。
「あ……?」
不意に、景色と記憶の片鱗が重なった。
こんなふうに暑い、夏の日――。
小学生の頃、あれは何年生だったのか。3年生、4年……?
夏休みのある日、紅葉は藤崎のお婆ちゃんの家に居た。
まとわりつく空気、背の高いひまわりと、目にも鮮やかな薔薇の咲く庭。
むせかえるような夏の匂い。そこは今暮らしている「藤崎のお婆ちゃん」の庭の風景で間違いない。
真紅の薔薇の咲き誇るアーチ、まるで迷路のような庭。
探検するのが楽しかった。
そこで、出会った男の子がいたのだ。
迷い込んだらしい不思議な子。顔は……思い出せない。けれど、植木職人の父と一緒に来ていたのだ。それは間違いない。
「まさか……だよね」
小学生なのに薔薇の育成本を読む子。実家は日向園芸。
あれはまさか、葵だった……?
そこで信号が青に変わり、アクセルを踏む。
風景が流れ、青々と育った稲の海原を抜け、我が家へと無事に帰宅する。愛車『おとうふ号』も復活して一安心、明日からまたよろしくね。
助手席から鉢植えの苗を下ろし、縁側の前に運び入れる。
「今日からここが家ですよー」
もう少し日が傾いて涼しくなったらお水をあげよう。庭の草花にも水やりをしよう。
地植えの薔薇たちは根を深く張っているので、水やりはいらない。
ちょうどいい鉢を見つけて、植え替えてあげよう。
やることはいっぱいある。
焦らなくてもいい。
葵はそうも言っていた。
その言葉は薔薇の栽培について。けれど、自分に向けられたものにも思えた。
「やってみます」
傾き始めた日差しを感じてか、ひぐらしの声がまじりはじめた。
開け放した縁側で冷たい麦茶を飲みながら、紅葉はページをめくる。
まずはもう一度、『はじめての薔薇栽培』を読み直そう。
<つづく>




