ちいさな決意
日向園芸に到着したのは、午前10時前だった。
本来なら八時半までに出勤することになっている。けれど今日は、車のバッテリー交換ということで、葵には二時間遅れの出勤で良いと言われていた。
つまり予定より三十分ほど早く着いたことになる。
「おはようございまーす」
ガラスの引き戸を開けて事務室に入る。事務机が4つに応接セット。壁には予定の書かれたホワイトボード。小さな事務室を兼ねた店内には、店長である葵の親父さんと、葵の姿があった。
ふたりとも事務室に居るということは、現場の作業がないのかこれから向かうところなのか。ホワイトボードを見ると「午前:白鳥」とある。
「おぅ紅葉さん、おはよう!」
「はやかったな」
机からはみ出しそうなほど大きな身体のお父さんが、上機嫌で挨拶してくれた。大きな声に葵の「はやかったな」はかき消された。
「おはようございます。ホームセンターのバッテリー交換が意外と早くて助かりました」
けれど葵にはあらためて礼を言う。
「しばらく動かしてなかったんだって? 週に一度は車は動かさねぇと」
「はい、身に沁みてわかりました……」
親父さんは手に『月刊、日本庭園』を持って眺めている。
「いろいろと助けて下ってありがとうございました、葵さん」
「ま、直ってよかったな」
「おかげさまです」
もしかして葵は、待っていてくれたのだろうか?
「ということは明日からは車通勤ってことで良いんだな?」
けれど葵は特に愛想笑いもせず、事務的な調子でそう言うと、机に座ったまま紅葉を見上げる。
「はい、そのつもりです」
「じゃぁこの書類に車種とナンバー、あと通勤距離を書いて明日提出な」
「あ、はい」
ぴらっと一枚の紙を手渡された。見ると通勤手当申請書だった。個人経営の植木屋さんなのにちゃんとした書類があることにちょっと驚く。
「通勤手当はちゃんと出すよ紅葉さん。うちは個人経営だけど青色申告もしてる、優良な事業主だからよ、キチンとしとかねぇと」
「管理してるのは俺とお袋だろうが……」
えっへんと誇らしそうな親父さんの横で、葵さんが小声で文句を言う。何か含むところもあるのだろうけれど、深く立ち入らないことにする。
「わかりました。書類は明日提出します。お心遣い、ありがとうございます」
自分の席に座りパソコンの電源をいれて、メールの確認。伝票の入力と集計をする事務作業へと入る。
10時を過ぎると、葵が立ち上がった。
「じゃぁ現場に行ってくる。最初に金崎さんのところで先日やった剪定ゴミの回収、そのあとで白鳥さんとこの薔薇の調整」
「あいよ」
葵さんはいつもの英国ガーデナー風に身支度を整えると、店を出ていった。親父さんは短く返事をすると『月刊、日本庭園』に視線を戻す。
白鳥さんとは赤い薔薇の庭園を目指している男性、可愛い名前の薫さんのことだ。そんな可憐な名字で、薔薇の庭園を持つお宅が何軒もあるとは思えない。
「あ、そうだ……!」
赤い薔薇に詳しい白鳥さんなら『品種不明』の、あの特売の薔薇の品種を、同定できるんじゃないかしら?
葵さんに頼んでみようかしら、と席を立ち上がったその時。ガラス窓の向こうに葵の姿が見えた。
駐車場に停めた紅葉の車を覗き込んで、そして此方をチラリと見て車内を睨んでいる。
「あ、バラの苗が置きっぱなし……え?」
すると、スコップを振り上げて車の窓ガラスに向け、今にも振り下ろさんとする。
「――ちょっ!?」
紅葉は慌てて外に出ると、駐車場へとダッシュ。
「何やってるんですかぁああ!?」
葵に向かって叫ぶ。
「何って、熱中症で蒸し焼きになる前に、薔薇の苗を救出しようかと思ってな」
「だからって割ることないでしょう!」
「冗談だ。流石に割るつもりはないが……中は相当熱くなってるぞ」
スコップの先を地面におろし、車内に親指を向ける葵。
「あっ……」
閉め切った車内。外は夏の日差しが徐々に強くなっている。炎天下の車内は六十度、七十度にもなるという話を思い出した。
買い物の間、子供を車に置き去りにしたことで不幸な事故が、というニュースが脳裏をよぎる。
特売の薔薇の苗が心なしか、さらにぐったりとしている。
「サボテンも枯らすという植物キラーの称号は伊達じゃないな」
「そんな称号ありません」
慌てて車のドアをあけるとムッとする熱気が溢れ出した。既に車内の気温は相当高くなっていたようだ。
ホームセンターのビニール袋に包まれたバラの苗を取り出す。
「あぁ……大丈夫!?」
「そこで叫ぶなら『衛生兵!』だろうな」
「そうだ、お水! 水をあげなきゃ」
葵が呆れたようにため息をつき、鉢を抱えて水道の蛇口に向かおうとする紅葉を制止する。
「まてまて」
「なんですか」
「鉢まで熱くなっているところに水をかけたら、それこそ蒸し焼きだ。教えただろ」
「あ……」
そうだった。真夏の炎天下、鉢植えに水をあげてはいけない。なぜなら根が傷んでしまうから。
落ち着きを取り戻し、更にぐったりした薔薇の苗を見る。
買った時に聞こえていた幻聴も、今は聞こえない。
「涼しい日陰にでも置いて、夕方に水をやればいい。あと、その黒いビニールポッドだと鉢が小さい。二回り大きな鉢に……できればバラ栽培用のスリット鉢に植え替えるといい」
「わ、わかりました」
「紅葉の家の軒下に、スリット鉢の余りがあっただろ。あとであれに植え替えろ」
「はい!」
葵はテキパキと指示を出した。
苗を言われた通り、店の横の日陰に置かせてもらい養生することに。庭の剪定道具の出し入れにも邪魔にならない位置なので大丈夫だという。
「この子、処分される寸前で……可哀相な子だったんですよ。だから私、助けようと思って……」
ちょっと泣きそうになる紅葉。
「何を言ってるかわからんが、蒸し殺すほうが可哀想だ」
「うぅ……そうですね」
助けてあげると息巻いて、希望を与えたところで蒸し焼き地獄。ある意味、ホームセンターに並んでいたほうが良かったかもしれない。
「だが取り返しはつく。薔薇は強いからな、生きていればきっと」
「綺麗な花をつけてくれますかね」
「それは紅葉次第だ。自分で初めて買ったんだ。最後まで面倒見ろよ」
言われてみれば確かに。
今まで目を楽しませてくれた薔薇たちは、すべて先代の遺産。藤崎のお婆ちゃんが集めて大切に育てていた薔薇たち。その意思を葵が受け継いで、美しい花を咲かせてくれたに過ぎないのだ。
「そっか……私、初めて……」
自分の意思で手に入れた子。名もなき薔薇の苗。
捨てられる寸前だった、特売品。
手を差し伸べずにはいられなかった。
きっとそれは、どこか自分と似ている気がしたから。
「ま、わからないことがあったら俺に聞け。じゃあな」
葵はそう言うと軽トラに荷物を積んで、出かけていった。
「……わかりました、葵さん」
見送りながら、軽トラに向けて頭を下げる。
必ず、この子を育ててみせます。
紅葉は小さな決意を胸に、仕事へと戻った。
<つづく>




