止まるんじゃねぇぞ
◇
朝の訪れは早かった。
うつらうつらとしているうちに、空は白み始める。
時計の針が5時を過ぎると、空は東から濃い群青色へ、やがて黄金色に変わってゆく。
「ふぁ……眠い……」
こんなにも眠いのは、葵とのSNSで興奮したわけでも、ネトゲで一晩中遊んでいたわけでもない。夜中じゅう蚊の襲撃と戦っていたせいだ。
昨夜、甘酸っぱい薔薇の香りに誘われて、つい網戸を開けてしまった。ロマンチックな香りに、天の川まで手が届きそうなダイナミックな星空――。
それが敗因だった。結果、乙女の血を求めて蚊が大挙して侵入。
耳元でぷぅんという羽音が聞こえるたび、紅葉はガバッと起き上がっては明かりをつけ、「おのれぇ!」と一人で暴れていた。
傍から見れば完全に危ない人である。泥棒だって家主が夜中に暴れているような家には、決して近寄らないだろう。
腕と脚がかゆい。
「あー! 二箇所も刺された」
今にして思えば、玄関に『植物用』の殺虫スプレーがあった。あれを使う手もあったけれど、果たして蚊には効いただろうか……。
今日はバイトの帰りにでも絶対にホームセンターに寄って、蚊取り線香を買わなきゃ。とにかく快適な眠りが欲しい。
いや……まてまて、そのまえに車を直さなくてはいけないんだった。
そんな悶々とした朝を迎えた紅葉。やがてモゾモゾと寝床から起き上がると眠い目をこすり、縁側からサンダルをつっかけて芝生の庭へと向かう。
時刻はまだ朝の6時前だというのに、気の早い朝日は山の稜線越しに顔を覗かせている。
真夏の早朝、庭先は涼しいと感じるほどだった。程よい湿度を含んだ空気は綺麗に全身に潤いと活力を与えてくれる。
「あぁ、君だったのね」
――なんて綺麗な白い薔薇……!
それは思わずうっとりするほどの純白だった。
白い花弁による密度の濃いカップ咲き。中心部には雌しべが見当たらず、代わりに淡い緑色の花びらが「ちょこん」と集会を開いているみたい。
これが葵の言っていたグリーン・アイ。稀有な色合いが白さを際立たせている。
昨夜は香りだけが漂い、闇夜の向こうに白くぼんやりと幽玄に浮かんでいた白い花。その正体はオールドローズの名花『マダム・アルディ』だった。
朝露に濡れた瑞々しい葉、近づいただけでレモンに似た芳香が強く香ってくる。
やがて訪れるであろう夏の暑さも忘れ、しばし眺める。
「っと、そろそろ支度しなきゃ」
早めの朝ごはんを食べてシャワーを浴び、なんとかそれらしいナチュラルメイクを施して、髪を整える。
蚊にかじられた痕は大きく腫れているけれど、絆創膏でごまかす。
服装はジャージが楽だけど、流石にまずい。ならばあまり堅苦しくもなく、動きやすいパンツスタイルで。濃いめの色の半袖インナーに、白っぽいシャツを羽織る。
鏡に映る自分は昨日よりはだいぶマシ。
着実に社会復帰……いや、マイナスからゼロに戻りつつあるだけ、なのだけど。
「げっ、目の下にクマが!?」
慌ててファンデーションを濃くしたり、拭き取ってみたり悪戦苦闘しているうちに時間は過ぎ、午前9時半。
やがて『日向園芸』の軽トラがプポポと坂を登ってきて停車する。
お願いした通り葵が迎えに来てくれたのだ。
「よう」
「おはようございます! 来ていただいて、ありがとうございます」
「別に、構わんが」
相変わらず愛想は無いけれど、嫌そうでもないような。
「無理いってすみません」
「どこかに行くのか?」
車を降りるなり、目を細め紅葉を観察する葵。今日も造園用の英国風エプロンに長袖の木綿のシャツ姿である。
「今から日向園芸のバイトです。って他に何の用事があると思ってます?」
「そうだな。なんとなく学生みたいな格好だな、と思って」
「学生……!」
それって若いってことよね。
「いやぁ、それほどでも」
「昔の服しか持って無いなら作業着を貸してやるぞ? 剪定用のツナギ」
憐れみの笑みを浮かべる葵。貧乏学生っぽいと思われたみたい。
「んなっ!? そういう意味ですか」
ここは平常心。葵はそういう人だった。朝から心かき乱されてどうする。
そして早速バイトに行くのかと思いきや、ガレージの方へと向かう葵。その背中を追う。
「あれ、どちらへ?」
「車の調子が悪いんだろ。見てやるよ」
意外な言葉に驚く。
「葵さん、車のことわかるんですか!? 薔薇とは違うんですよ!?」
「ナメてんのか」
ギリ、と睨まれた。
「い、いえ……そういうわけじゃ。ありがとうございます、助かります」
「いいから鍵を開けろ、ボンネットもオープンだ」
くいっと親指で指し示す葵。
「は、はいっ!」
紅葉は言われるがままドアの鍵を開け、次にボンネットを開けようとここでも悪戦苦闘。ボンネットの開け方がまるで分からない。
給油口のフタがパコっと開いた段階で、葵は苛立たしげに「どけ!」と紅葉の肩をつかんだ。けれど意外と優しく押しのけて、入れ替わりに運転席に半身を滑り込ませた。一瞬身体が触れてドキリとする。すると、ポコンと音がして、ボンネットが開いた。
「おーっ!」
パチパチ、と思わず拍手する紅葉。
「……おまえなぁ、開けたことないのか?」
「噂では開くって聞いたことはあるんですけど」
「噂じゃねぇ! 教習所で習っただろ」
「でしたっけ?」
「ったく」
だめだこりゃ、とばかりにボンネットの中を覗き込んだ葵だったが、再び運転席へ。キーを回してみるがやっぱり情けない「きゅるるん」という音がして、エンジンがかからない。
「バッテリーあがりだな。交換すりゃ直る。だが問題は自走出来るか……」
「バッテリー、車の電池みたいなものですか?」
「使わないと放電して電力が失われる。するとエンジンが始動しない。スマホと同じだ」
「どどど、どーすればいいんですか!?」
レッカー移動して整備工場へ行くとなれば、いったい幾らかかるんだろう。バイト代全滅……なんてことに?
「一応ケーブル持ってきたから、うちの軽トラと繋いでエンジンかけてみるか」
「ちょっと何を言ってるかわからない……」
「お前をバッテリーに繋いでやろうか」
ギリリと本気で眉間にシワを寄せる葵。
怖いけど、何を言ってるのかさっぱりだよ。
「ていうか、薔薇狂いの園芸店のひとですよね、葵さんは」
「狂いは余計だ」
「ごめんなさい、おまかせします」
「うむ。同僚のよしみで大サービスだからな」
「同僚……」
なんだか嬉しい一言だった。
「紅葉は運転席に座れ、俺が合図したらエンジンかけろ。ギアはパーキングのまま動かさなくていいからな」
「は、はいっ!」
葵は軽トラを移動させ、紅葉の『おとうふ号』の直前で顔を突き合わせるようにして停める。
次に軽トラのバッテリーと、『おとうふ号』のバッテリーを太い赤と黒のケーブルで接続した。
「これでよし」
「あー、エヴァンゲリオンみたいな?」
「どういう例えだ……。まぁ電源を供給してエンジンをかけてみる。かかりゃ儲けもんだ。レッカーを頼まなくても自走出来る」
言われたまま運転席に乗り込んで待っていると、軽トラのエンジン音が響いた。すると葵が「いまだ! エンジンかけろ」と叫ぶ。
「えいっ!」
キーを回してアクセルペダルを踏む。きゅるっ……ぶぉん! と『おとうふ号』が息を吹き返した。
「やった、すごい! エンジンかかりました!」
「よし。じゃぁそのまま紅葉はホームセンターに行って、軽自動車用のバッテリーを購入! サービスカウンターで交換を頼めば、すぐにやってくれるはずだから。わからなかったら店員に聞け」
ビシビシと指示を飛ばす葵。やっぱり男の人は頼りになるなぁと感謝。
「自動車屋さんじゃなくてもいいんですか?」
「田舎のホームセンターは何でもアリなんだよ。タイヤ交換とオイル交換、バッテリー交換できる資格をもつ店員もいるから」
「へぇ……! あ、でもバイトに遅れちゃいます……」
「二時間遅れてもいいから。来いよ、いいな」
「わかりました」
葵がケーブルを片付けて、軽トラをバックさせる。紅葉はこのままホームセンターに行くことにする。
「それと、大事なことを一つ言っておく」
「なんです?」
「止まるんじゃねぇぞ」
葵は軽トラの窓から指を空に向けてそういった。とあるアニメのネタである。
「はい……団長!」
<つづく>




