夏の宵と『マダム・アルディ』
――『車が故障してしまいました』
『まじか』
――『まじです。たすけて』
『送迎してもいいが、バイト代から差っ引く』
――『え!? なら歩いていきます』
『冗談だ』
葵とスマホで何度かやりとりを交わした結果、明日の朝はなんとか迎えに来てもらえることになった。一応は無料で。
紅葉はホッと胸をなでおろしつつも、部屋で頭を抱えた。
「あーもう! バイトなのに送迎させるとか……私ってば、何やってるの」
社会復帰の船出は決して順風満帆とはいかないらしい。それでも内心は、迎えに来てもらえてちょっと嬉しかったりもする。幾ら齢を重ねても乙女心はなんとも複雑なもの。
愛車――『おとうふ号』のエンジンの調子が悪いのは、定期的に動かさずに放置していたからバッテリーが上がったんだろう。と葵は言っていた。
車が「ユー、これを口実にアオイに迎えに来てモラエヨ★」なんて、気の利いた友達みたいなことをしてくれたわけではない。
事はそんな呑気な話ではない。レッカー代や修理費用などを考えると、下手をすればバイト代が全て吹っ飛びかねない。
かくなる上は……、二週間の短期バイトのみならず、頑張って役に立つ姿勢を見せ、その後も居座り……いや長期バイトの座を射止めるしかない。
「……そうね、ここは前向きに考えましょう」
そうと決めたらまずは気分転換。部屋の中でドタバタと服を脱ぎ散らし、シャワーを浴びる。
考えてみれば初日からほぼノーメイク。最低限のナチュラルメイクを、更に水で薄めたようなことはしていたけれど、社会人女性としては流石にまずい。明日からはもうはもう少し小奇麗にしていかなきゃ。
シャワーの後は簡単な飯を食べて、ビール片手にくつろぎタイム。そこで忘れないうちにと、しばらく使っていないメイク道具を引っ張り出す。
ファンデーションの蓋を開けてみると、パフがまるで煎餅みたいに固くなっていた。一事が万事、こんな感じでは気持ちも凹む。
「ぐ……メイク用品は百均でも買えるわ」
前向きに進もうにも、過去の自分が亡霊のように絡み付き足を引っ張っている気がする。
仕事にも人生にも絶望して、全てに後ろ向きで投げやりで、ズボラだったダメダメな自分。
暗闇の袋小路で行き詰まり迷った挙げ句、逃げ込んだのが、片田舎に遺された祖母の家なのだ。
そこで庭の命の輝き、芽吹きと共に立ち上がることが出来た。薔薇のひたむきな美しさに心打たれ、家主なのに葵に尻を蹴飛ばされ……、それでようやく前に進み始めた気がする。
葵は薔薇の事しか頭にない朴念仁だけど、何だかんだと手を差し伸べてくれた。それにはとっても感謝している。
――明日も忙しくなりそう……。
ごろりと布団の上に横になり目をつぶる。
夏の夜、昼間の暑さは和らいで網戸越しに涼しい風が入ってくる。
リン……と風鈴の涼し気な音色が響いた。
真夏でもエアコン無しで過ごせてしまうのが、北国の夏のいいところだ。もちろん昼間の灼熱の時間帯は冷房が必要だけれど。それでも夜になると山からの心地よい温度の風が吹き下ろしてくる。
とはいえ、うら若き乙女の一人暮らし、いくら田舎でも夜に網戸だけで過ごすのは防犯上よろしくない。
立ち上がり、戸締まりを確認する。
と――。
夜風が爽やかな香りを運んできた。
鼻腔をかすかにくすぐる、心地のよい香り。
やや湿度を伴った濃密な闇の向こうからそれはやって来たらしい。夜風に混じるのは、まるで柑橘を思わせる芳香だ。
「……? いい香り」
何だろう?
レモンのような、それでいて甘い花のような濃厚さも併せ持っている。
真夏のこの時期、暑さにもめげず庭にはいろいろな花が咲いている。ホームセンターで買った草花やハーブ類、それに薔薇だって元気に咲いている。
けれど、こんな香りの花ってあったかしら?
疑問に思い、部屋の明かりを落とし、網戸を開ける。そっと庭を見回すと、外は満天の星。
月のない静かな夏の夜、庭は青黒いモノトーンの色彩に染まっている。
やがて目が慣れてくると、闇夜の中にぼうっと、薔薇の花々が浮かび上がった。
その中でも幽玄に浮かび上がったのは、白い薔薇の花だった。
軒下に近い位置、大きめのコンテナに植えられていた品種。葵は時折水やりをしながら丁寧に剪定をおこなっていた。
香りはその白い薔薇が放っているらしい。
「君は、なんて名前だったっけ……?」
――『アオイさん。起きてますか』
思わずスマホを片手に、頼りになるあの人にメッセージを送る。
『おう』
――『レモンっぽい香りがします。薔薇だと思いますが』
数秒を待たずに、返事が来た。
『マダム・アルディだな』
「マダム……アルディ?」
何処かで聞いたような……。確か、葵が香りのいい白バラの代表として教えてくれたことがある。
――『夜風に乗って香ります。レモンっぽくて、いい香りです』
『うむ。オールドローズのダマスク系、完璧な白と呼ばれる品種だ。気品のある純白の花が咲き、香りは爽やかなレモンの香りに、濃厚な薔薇の香りが交じる』
――『解説、ありがとうございます』
『一番の特徴は、中心部がグリーン・アイと呼ばれ、淡い緑色をしていることだ。他の薔薇には無い、オンリーワン。朝になったら拝んでおくといい』
――『わかりました。明日、見てみますね!』
『うむ』
――『おやすみなさい』
再び布団に横になり、そして検索エンジンでその名を探す。
マダム・アルディ(ハーディ)
作出1832年、フランス。
マルメゾン宮殿の庭師ハーディが作出した品種。
奇跡のように美しい純白のバラを宮殿の婦人に捧げたという。
強香でレモンに似た香り。
最大の特徴はグリーン・アイという美しい花弁の中心部である。
「葵さんの言ったとおり」
流石だなぁ。すらすら出てくる辺り、本当に薔薇が好きなのだろう。
この庭師のハーディさんも薔薇が好きな庭師だったのね。
どんな想いを託して薔薇を育て捧げたのかしら。
もしかしてお屋敷の婦人のことが好きだった……とか?
目をつぶると優雅で豪華絢爛な、フランスの宮廷絵巻が見えるような気がする。今夜はなんとも素敵な夢が見れそう。
明日、日が昇ったら花を見てみよう。
――はやく、明日が来ないかな。
<つづく>




