挫折した紅葉(くれは)と闇の結界
風薫る5月。
桜の花も散り、道路の水溜まりにはピンク色の花弁が渦を巻いている。水の薫りに満ちた季節、木々は新緑に彩られている。
のどかな田園風景、それに小花の咲き乱れる山野を散歩でもすれば、実に心地の良いことだろう。
紅葉が一人暮らしをしている『藤咲家』は、東北地方の片田舎、そのまた村はずれにある。
広大な敷地は自給自足の出来そうな広さがあり、昔は畑もやっていたであろう跡が残っている。
立地は小高い丘の南斜面で日当たりもよく、雪深い季節以外は冷涼な気候も相まって真夏でも実に過ごしやすいのだ。
お屋敷は戦後に建築された平屋建てで、何処か西洋的でモダンな佇まい。色あせた杉の壁板や、落ち葉で汚れた瓦屋根も、古き良き時代を思わせるアクセントになっている。
短大を卒業後、就職した会社を事情により一年で辞めた紅葉にとって、祖母の死をきっかけに親戚からこの家の管理を任されたことは、実に都合が良かった。
「……うぅ……もう朝?」
カーテンを開けると既に陽は高く昇っていた。もう9時を過ぎている。のろのろと布団から這い出して、窓を開ける。
途端に心地よい風が吹き込んできた。
太陽の眩しさに目を細め、都会では味わえなかった新鮮な空気の薫りに感動すら覚える。
とまぁ、実に心地の良い平日の朝だが、こんな時間まで惰眠を貪れるのはひとえに紅葉が現在、無職であるためだ。
現実は厳しい。
くるりと部屋の中に目を向けると、そこには更に悪夢のような「現実」が広がっていた。
散乱したゴミ、特売のスーパーのお惣菜の空き容器、スナック菓子の袋はそのまま。カップラーメン空き容器には丸めたゴミが詰め込まれている。さらには、脱ぎ散らかした服や下着類、訳のわからない雑誌、使ったテッシュなどが万年床の周囲に散らばっているのだ。
それはまるで他人を拒絶する「闇の結界」のように囲っている。
枕元にはノートPCとヘッドホン。昨夜もほぼ一晩中ネットゲームに耽っていた。
ここ半年、無職でニート。
今風に言い直すなら「職業は自宅警備員です」だろうか。勤務するための制服は上下で3000円の特売のスエット。ちなみにだいぶ前から洗ってない。
これが人生に背を向けた女、紅葉の暮らしぶりである。
「……ログインしよ」
午前のゲーム空間は深夜以上に手強い連中が多い。全国の自宅警備の猛者たちが、レアアイテムで武装して襲いかかってくる。
でもお腹空いた……。朝ごはんどうしよう。砂糖水ですまそうか。
朝からみすぼらしい格好では買い物にも行けない。
いや、買い物にいこうにもなかなかいけない。問題なのは、ここが辺鄙な田舎に建つ、いわゆる「ぽっつねんと建つ一軒家」ということだ。
まず隣家まで300メートル以上も離れている。隣家との間には広大な田んぼと畑。それと「鎮守の森」が横たわっている。それを通り抜けてようやく隣家にたどり着く……。そんな日本とは思えない秘境のような場所にある。
買い物に行くとなれば、隣町に行く途中にある商店まで車で20分。コンビニまで30分、隣町のショッピングセンターは40分もかかるときた。
だから紅葉は買い物で必要な時以外、極力外出を控えていた。藤崎の屋敷から出かける時は人目につかない夕方以降と決めていた。
郊外のスーパーに車を走らせ(一応社会人だから免許はあるのよ)て、特売の半額弁当を買い込む。特売の時間ともなれば、そこか似たような雰囲気を漂わせる連中が集まってきて、特売弁当争奪戦となる。本当はこんな自分が嫌で仕方ないが、いきるためには仕方がない。
それに人里離れた山間部なので、訪問者もほとんどいない。
新聞の勧誘さえも、宗教への誘いも来ない。それほど辺鄙な田舎なのだ。けれど回覧板だけはしっかり回ってくるし、止めないようにしている。そんなことで村八分も怖いし、世間との繋がりが完全に途切れるのも嫌な気がしたからだ。
とはいえ人目を避け、夜中にこっそりと回覧板を置きにいくのは不審者以外の何者でもない。
だから、昨日はつい油断した。
ネット通販で注文していた大人気イケメンズが総出演の恋愛シミレーションゲームキャラの「抱き枕」が届いたのかと、扉を開けてしまった。
そこに立っていたのは例の謎の青年だった。
――日向蒼。
自称『薔薇庭師』
そもそも庭師っていうのは何なのか。個人経営なのか、何かの会社法人所属直なのか。
せめて勤めている会社なり、所属している造園業者の名前がわかれば、ネットで調べられるはずなのだが。
賞味期限の切れたパンをかじりつつ、再びまぶしい外の世界に視線を向ける。
ガラス窓に映る寝癖だらけの髪を適当に整えつつ、日当たりの良い南側の庭を眺める。
そこはよくみれば、紅葉の肩まで伸びた髪以上に、ボサボサに雑草が生い茂っていた。春の訪れとともに伸び始めた雑草が勢いよく生い茂り、庭木は手入れもさらず雑木林のように鬱蒼としていた。彩りと言えば元気に黄色い花を無数につけるタンポポたち。
春の花の便りが聞こえる素晴らしい季節だというのに、庭園らしい華やかさの欠片は微塵もない。
まるで、闇の結界に囲まれた、森の奥に佇む魔女の庭か。
自分の姿を心を映す鏡のようで、お似合いだとさえ思う。
その時だった。
ブボボボ……と遠くから軽トラックのエンジン音が聞こえてきた。白い車体がゆっくりと緩やかな坂道を上ってくる。
白い軽トラは坂を登ると左折し、曲がり道の先にある紅葉のいる藤崎の屋敷に向ってきた。ここからでは見えない北側玄関の方に停車したようだ。
エンジン音が止まると程なくして、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「え? ……まさか」
自称庭師の青年、日向蒼だろうか?
だが今日は玄関に鍵をかけてある。絶対に入れるつもりもないし、相手にするつもりもない。
「何が庭師よ、怪しいし、関係ないし。お金なんてないし」
先代、つまりお婆ちゃんから庭の手入れ任されたとしても、どうせ高額な費用を請求されるに違いない。手入れだなんだという名目で請求してくるのだ。
ピンポーン。ピンポ、ピンポーン!
結構しつこい。だが紅葉とて伊達に自宅警備をやっていない。居留守こそ最強。絶対に出なければ相手はやがて諦め帰ってゆくのだから。
やがてチャイムが止んだ。
「フッ、あきらめて帰れ帰れ」
薄ら暗く笑いながら万年床に横になろうとしたその時だった。
「なんで出ないんだ」
「きゃぁ!?」
窓から顔を覗かせたのは、細面の日向蒼だった。
「今日から来るって言っただろう」
「け、警察! おまわりさん、不法侵入で……!」
だっ! と窓に駆け寄ってカーテンを閉める。開け放した窓ではなくカーテンを最初に閉めたのは、荒らされたような部屋の惨状を見られたくないという、せめてもの乙女心からだった。
「俺は庭師だ。庭に入るのは当たり前だろうが」
「そんなわけないでしょ! 警察呼びます」
カーテンの隙間から顔だけを出して、紅葉は応対する。
「呼んでも無駄だ」
「なんでですか?」
「この村の駐在は俺の幼馴染だからな」
「怖ッ!? 田舎怖ッ!?」
ホラーゲームの舞台を連想させる閉鎖的な村だったようだ。目の前で葵が作業着の上から、園芸用らしい分厚いエプロンかけ、背中の紐を結ぶ。
蒼は英国風のトラッドスタイルな庭師ファッションに早変わり。昨日と同じ格好だが、軽トラには似合わない英国風の庭師を見て、本来なら笑うところか。けれど一歩間違えば逆上し、惨劇の始まりになりかねない状況かもしれない。
「ちょっ、あの、何をするつもりですか?」
「とりあえず今日は、草取りから始めさせてもらう」
しゅっ、と革手袋をはめる。それが実にサマになっていた。まるで執事が白手袋を嵌めているシーンのようだとさえ思った。
「草……とり?」
「そう。折角の薔薇庭園にまったく手入れがされていない。まずは雑草を取る」
「それだけ?」
「そうだ。見ての通り酷いありさまだ。先代の藤崎さまが一年も入院され、依頼が途絶えていたとはいえ……。いや。俺の父も悪いのだが」
葵そこまで言うと、ペコリを頭を下げ、窓の近くの庭先にしゃがみ込んだ。
どうやら仕事開始の礼儀らしい。そして、手で草をむしり始めた。死神の鎌で草を刈るわけでもなく、地味に一本ずつ丁寧に抜いてゆく。
「……本当に、庭師なんですか?」
「本当だ。見てわかるだろう」
「いや……まぁ、そうですね」
会話が続かない。カーテンで顔以外を隠したまま小声で返事をする。
葵はその間も黙々と、けれど確実に草を抜き去ってゆく。既に1メートル四方の地面が見え始めていた。手際の良い仕事ぶりでみるみる緑の小山を作ってゆく。
「あの、家の中には……入らないですよね?」
「庭師は庭が仕事場だ。入ったりはしない。明日以降、北の玄関脇の小道からこの南側の庭園に通させてもらう」
「そんな……困ります」
「困らないだろう? 迷惑はかけないし、家の中を覗いたりもしない」
「……ホントですか?」
「本当だ。だが部屋の中がかなり散らかっているのは見なかった事にする。おまえは部屋を片付けることだ」
「見てるじゃないですか!?」
「見えただけだ」
部屋の惨状を見られていた!?
「もう! それと……おまえって。私にも名前があります」
顔を赤くしながら紅葉が抗議する。
「そう言えば、新しい家主の名前を聞いていなかった」
こちらには目もくれない。けれど言葉はしっかり届いている。
「私は、木枯紅葉。藤崎の孫娘です」
「孫?」
「そうです」
「なら、この庭の持つ意味を知っているんだな?」
「意味……?」
「先代の藤崎様が遺した……ローズガーデンの意味を」
葵はすっと立ち上がると、前髪を避けるように汗を手の甲で拭いた。
<つづく>