紅葉(くれは)のバイト奮戦記
タタタ、ターンと指の動きも滑らかにキーボードを打つ。
売上伝票の入力なんてお手のもの。
エクセルで組まれた簡易入力画面にデータを入力し、保存。あとは印刷プレビューで書式を確認してプリントアウト。ジコージコと音を立てインクジェットプリンタがファイリング用の書類を吐き出し始めた。
「うん、オッケー」
半年間の無職ニートという重いハンデを背負いながらも、社会復帰を果たした瞬間だった。
仕事机とパソコンを前に、一抹の不安も感じた紅葉だったが、仕事の感覚を取り戻すのに小一時間もかからなかった。
指は軽やかに動くし――むしろこれはネトゲ三昧だったからとも言えなくもないが――簡易入力ソフトの使い方も感覚で理解できる。
強引にバイトに駆り出されたのは、ちゃんと身を正すいい機会だったかもしれない。
葵には感謝……である。
「ありゃ、もうこんな時間」
気がつくと『日向園芸』の事務員のバイトを初めて二時間が経過していた。
時刻はそろそろ二時四十分。
三時には出掛けている葵がもどってくる。それまでに山のように溜まった伝票の半分でも整理しておきたい。
自分にしては頑張ったと思うのでここで一息。お茶を淹れて一服する事に。
お茶を手にしていると、隣りにある葵の机の上に本が数冊あるのが目に入った。
どれも園芸の本で『英国薔薇庭園の歴史』『品種別剪定のコツ』といった薔薇に関するものばかり。やはり常に勉強をし、実地で努力を重ているのだろう。
これからは私も頑張らなくっちゃ。
渋い煎茶を一気に飲み干すと、やる気も湧いてくる。
なんとなく事務室内をモップがけ。さて入力の続きをしようかと思ったところで、プルル……と事務所の固定電話が鳴った。
「う……!? 電話」
一瞬、受話器を取るのを躊躇う。
留守を任されているのだから、電話には出なければならない。バイトとはいえ日向園芸の事務員なのだ。粗相の無いようにと受話器を取る。
「ハッ、ハイ! ひ……日向園芸です」
声がちょっと裏返ったけれど、相手には伝わったみたいだった。電話の主は老人であることがすぐにわかった。
『……あー、どもども。ウチのね、生け垣。いつもの剪定を頼みたくて。来週でいいから……』
「あっ、はい。生け垣ですね、えぇと……いつものカットですね」
なんだカットって。ヘアサロンじゃないんだから。でも「生け垣を頼む」っていわゆる、切りそろえて欲しいってことよね。つまりカットでもいいような。
『あー、茜ちゃん、この前ホームセンターで、ありがとうね』
「……えっ!? あ、あの私……バイトで、茜さんじゃないんですが……」
茜ちゃんとは葵の妹ちゃん。19歳で高校を卒業したばかりの可愛らしいホームセンターの店員だ。つまり、電話の主と茜ちゃんは何か商品の案内でもした、ということなのかしら。
『おんや!? そうだっぺ? 声が似てたもんで……すまんのぅ。んじゃ、頼みますね』
そこで電話が切れた。
「って、今の誰!?」
しまった。電話の基本。相手が誰かを聞いていなかった。
何たる失態。
ううぅと思わず頭を抱えつつ、とりあえず電話があったことをメモをする。
お爺さん、いつもの生け垣をカット、茜さんとホームセンターで何か案内した……と。
後で妹ちゃんに確認してもらうしか無い。
やや意気消沈しつつ伝票の入力を再開する。カタカタと金額を打ち込んでエンターキー。
何度か繰り返していると、また調子が出てきた。
と、再び電話が鳴った。
「――はい! 日向園芸です」
今度はうまく喋れた。あとはお客様の名前と要件を聞き漏らさないように確実に。
『葵くんいるぅ?』
いきなり甘ったるい女性の声だった。しかもアオイくんをいきなりご指名である。
「あっ、あの……今は外回りで作業中で、留守にしておりまして」
動揺を悟られてしまっただろうか。声が僅かに上ずるのを感じていた。でもここは兎に角、要件とお名前を聞き出さないと。
『あらぁ? 妹さんじゃないのね』
「すみません、私バイトでして……」
『へぇ、そうなんだ』
「……あの、失礼ですがお名前とご用件を伺ってもよろしいでしょうか?」
『あぁ、私ぃ、狐崎です。薔薇のお手入れを頼みたくてぇ』
若い感じの声は余裕を湛え、察するに若奥様といった感じもする。
「こざきさま、薔薇の剪定……ですね」
メモを殴り書きしながら必死で平静を装う。
『えぇ、暑い日が続いているでしょ? 葵くんおすすめの薔薇も元気がなくって。私ったら水やりも億劫でぇ』
そりゃぐったりもするわ。水やりぐらい自分でやりなさいよ。言いたくなるのをぐっと堪え、ホワイトボードの予定表をにらみつける。
「……ご希望の日時などはございますか?」
『そうねぇ、25日のお昼がいいわぁ』
25日には『木枯』の文字が書き込まれていた。
咄嗟に「予定があるようだ」と言いかけて口をつぐむ。
そもそも予定なのかも定かではない。紅葉の勝手な思い込みに過ぎない可能性もある。
「その日は、確認してみないと」
『その日がいいわ』
「……あの」
『なんとかなるでしょ?』
此方がバイトだとわかったからか、あからさまに高圧的な口調になった
この女ァ……! 思わず受話器を持つ指に力が入る。
「戻ってきたら確認しますので、折返しのお電話で宜しいでしょうか?」
『……いいわ。じゃ頼んだわよぉ』
プツンと電話は切れた。
電話番号を聞かなかったが、おそらく常連なのだろう。
メモには「女、25日希望」とだけ書き入れた。
かなりムカつく感じの女だった。もう伝票打ちどころではない。
鬱憤を晴らすように、おもむろに事務室の端にあった箒を掴むと、両開きの扉を開け放ち外に出る。
「あーもう!」
店の前を勢いよく掃き掃除。
自分の家の玄関前でさえめったに掃き掃除なんかしたこともないのに。せずにはいられなかった。
やがて見慣れた軽トラが戻ってきた。
角を曲がり、駐車場へと滑り込んで停車する。
中から葵と店主――葵のお父さんが降りてきた。相変わらず「松が」と「薔薇が」という噛み合わない会話を交わしている。
「おっ? 紅葉ちゃん、早速働いてくれてるな、ベリーナイス」
葉巻が似合いそうなアメリカンな笑顔を向けてくる親父さんに、笑顔で頭を下げる。
「掃き掃除より伝票入力はどうしたよ」
「半分ぐらい進みました!」
紅葉は葵の足元を狙うように箒で掃きまくった。ザシュザシュと斬りつけるような勢いで。
「な、なんだよ? パソコンの使い方が難しかったのか?」
「違います!」
「じゃぁなんだよ」
「お電話がありました。二件」
「電話? あ、そう。で?」
作業着に付いていた松の葉をつまんで、紅葉に向き直る。
「一件目はお爺さんで、名前を聞きそびれたんですけど」
「ポンコツか」
「すみません……久し振りだったもので」
「まぁいい。何ていってた?」
葵は想定内なのか怒る様子はなかった。
「はい、そい『いつもの生け垣を剪定してほしい』って。あと、茜さんにホームセンターでお世話になったって言ってました」
「あぁ田中の爺さんか。そろそろ来る頃だと思ってた」
「わかるんですか?」
「まぁな」
それだけのキーワードで特定できるとは流石である。ビッグデータとAIもびっくり。ちょっと関心してしまった紅葉だが、キッと表情を引き締める。
「で、もう一件は?」
「女の人で、コザキさんといってました。25日の昼に薔薇の手入れをして欲しいって」
内心モヤモヤとしたものを感じつつ、バイトなので淡々とした口調で告げる。どんな反応を示すのか、そこが気になる
「……狐崎さんか。25日の昼……?」
「はい、折返し電話がほしいって」
「わかった」
「あの……」
ホワイトボードの予定のことを言うべきか、勝手に見て「予定がある」と判断したことはよかったのだろうか。今更ながら自分の判断に自信が持てなくなる。
「その日は、紅葉のところに午前中、予定を入れていたはずだ」
「……!」
「午前中の涼しい時間帯に水やりと剪定、ベイサルシュートの誘引をしたいからな。そっちが優先だ」
優先。その一言が嬉しかった。
「でもその、コザキさんのほうは……」
「昼に来い、と言ったのか?」
「えぇ、はい」
「なぜそこで『バカめ……』と言ってやれない」
「えぇ!? 言えませんよ、なんでですか!?」
葵は何故か呆れたような表情を浮かべる。
「ったく。あそこは大苗を今年植え付けたばかりで、剪定も必要なければベイサルシュートも出ていない。フロリパンダ系の小型種が多くて、鉢植えだ。それなのに昼に来いだと? バカも休み休み言え。……どういうことかわるか?」
ずいっと険しい顔つきで迫ってくる。これでは背の高いヤンキーに絡まれている図そのものだ。
「い、いえ……あっ! 暑い昼だと嫌……だから?」
葵とて真夏の昼間に働きたくなどないだろう。だから25日の涼しい午前中にウチに来ると言ったのだ。
「そうだ、正解。薔薇の水やりは、早朝がベスト、あとは涼しくなった夕方がいい。真夏の真っ昼間に水やりなんて根が茹で上がっちまう。だから狐崎さんのところには25日 、それも夕方に行くってことにする」
「あっ? なるほど……」
ちょっと解釈が間違っていたけれど結果オーライ。真夏の昼間に薔薇の手入れはご法度、ということらしい。
「勉強になったか? バイト」
「はいっ」
<つづく>




