夏空とベイサルシュート
◆
梅雨も終わり、世の中が海だ山だ、夏休みだと浮かれる夏がやってきた。
庭に強烈な紫外線を含んだ光が照りつけている。
今、外に出たら間違いなく溶ける。
「……あぢー」
ぐったりとエアコンの無い室内に転がった紅葉は、ごろり、ごろりと寝転がりながら少しでも風通しの良い場所を求め、日差しを避けるように移動する。
都会の熱せられたコンクリートから生じる殺人的な暑さではないにせよ、緑の多い田舎でも暑いものは暑いのだ。おまけにジージーという暑苦しいセミの大合唱に鳴り止む気配はない。
窓から見えるのは成長中の大きな積乱雲。空との境界線が純白に光輝いている。
縁側の軒下では、葵が植えたアサガオが麻ひもを伝い成長していた。蔓の先には今朝咲いたばかりの青い花が、早速萎れてぶらさがっていた。
庭の薔薇たちは葉を青々と繁らせ元気だが、花はほとんど咲いていない。開店休業、ぽつぽつと暑さに強い品種が花を付けているばかり。
この構図を切り取って絵にしたら、さぞかし綺麗な夏の風景となるだろう。
紅葉はそんな事をぼんやり考えながら、空に向けて手を伸ばし、「何か」を求めるように掴む。
けれど、指先は空を切り、腕は力なく畳の上にだらりと落下。
「……」
ふと、心地良かった6月の爽やかな季節を思い出す。葵との出会い、薔薇の花を見たときの感動が蘇る。
あの時間が永遠に続けばいいのに、と願う。永遠を願うのは愚かな行為だとわかっていても、朝露に輝く薔薇の一番花を見た感動を、繰り返し味わいたいとさえ思う。
いっそ、時間がループすればいいのに。
無情にも時間だけが過ぎてゆく。
気がつけば季節は、夏。
これでいい訳はないのだが、なかなか働く気になれない。
無職状態も半年を越え、失業保険も切れた。
働かねばいけない。貯金はまだあるけれど、これから先を考えると心許なくなる。これでは冬が越せない、なんて事態になりかねない。
けれど今は暑くて動きたくないし、働く気力も起きない。
ここで誰か素敵な王子様が現れて、都合よく結婚を申し込んでくれないかしら。紅葉はもう何もしなくていいから、エアコンの効いた部屋に居て微笑んでいて、なんて言ってくれて……。
「ぐふ……ふふふ」
暑さで半分腐りかけた脳が、バラ色の妄想を垂れ流し始めた。
と、馬の蹄ならぬ軽いエンジン音が聞こえてきた。夏の暑さも関係なく健気に働く軽トラの気配が、近づいてきて停まる。
やがて庭先のほうに足音が移動して来て、開け放した縁側の前で止まる。
「……生きてるのか?」
「死んでる。暑くて……」
「ったく、不摂生な」
白馬の王子様ならぬ、葵の聞き慣れた声だった。呆れたような、安堵したような、そんな風にも聞こえた。
少しは心配してくれているのだろうか。
「安否を気遣ってくれてありがとう。熱中症で死んだら庭に埋めていいわ」
「アホなこと言ってないで、起きろ。いい話を持ってきた」
いい話、とは?
思わず上半身を起こす。
まさか、まさかである。さっきの都合のいい妄想が現実になるのかと胸が高鳴る。
ポニーテールに結ったはずの髪は、落ち武者のような有様だったので慌てて結い直す。
けれど葵は気がつくと庭の方に移動して、薔薇の樹を眺めていた。根本からいつの間にかのびた真新しい枝を、麻ひもで他の枝に縛っている。
「何してるんです?」
いい話とはなんだったのだろうか。それも気になるが、花が殆どなくなった真夏の庭で、葵は何をしているのだろう。
強い日差しを避けるように、葵は麦わら帽子を被っていた。腰に長袖のシャツを巻き付け、上半身は薄く白いTシャツ姿。袖から覗く腕は日焼けしていて細い。けれど引き締まった筋肉質で、節々が骨ばっているのがわかる。
まるで、小学生の時の記憶にある、あのときの夏休みの少年だ。ぼんやりと面影を葵に重ねている。
「ベイサルシュートがかなり伸びたからな。これらは来年の花芽がつく大事な枝だ、今のうちに縛って上に伸ばしておく」
「ベイサルシュート?」
「来春の花をつける新梢を、ベイサルシュートって呼ぶんだ。7月ぐらいから根本に伸びてきてただろう?」
視線は手元に向けたまま、丁寧な口調で説明する。
「でしたっけ? 花にばかり気を取られて……」
「根本もちゃんと見ておけよ。ベイサルシュートが虫に食われたら来年、花が咲かない品種もあるんだからな」
「すんません」
何故か弟子のように指導を受ける家主。
改めて眺めてみる。確かに全ての薔薇の樹の根元付近から、太くて勢いのある枝が伸びていた。葉も茎も若い色合いで、まさに成長期といった感じ。
株立ち性の薔薇やつる薔薇からもベイサルシュートが元気よく育っている。
「この後、台風が来てもいいように保護しながら、秋まで伸ばしておく。剪定はその後だ」
「はい。で……あの、いい話って何です……?」
「あぁ、そうだった。紅葉、パソコン使えるか?」
「パソコン、ですか?」
葵が唐突に口にした言葉を思わず聞き返した。
「そう。経理ソフトや表計算なんか得意じゃないか?」
「得意っていうか、パソコンは毎日毎晩肌身離さず使ってますし、ゲームならまかせてください」
閃いた。プロゲーマーになればいいんだ。世界は今やEスポーツ元年……だけどスポーツ系は得意じゃないのでネトゲで。アイテムを売って稼ぐなんてことも可能。これだわ!
「だれがゲームの話をした。経理だよ経理。パソコンでやるやつ」
暑さで短気に磨きがかかったのか、葵の声がややイラついている。
「あっ? 経理ソフトですか……まぁ、使えますよ」
社会人でOLやってましたし。日常的に表計算は使っていた。経理部門ではなかったけれど研修で経理ソフトの基礎は習った。
「よし。なら乗れ」
「は? 何にですか?」
「車にだ。今からウチの店に来い。短期バイトで雇ってやる」
「え、えぇええ!? そんな急に……!」
葵のいきなりすぎる提案に戸惑う。ていうか、同意とか説明とか、その前にすべきプロセスをすっ飛ばして「車に乗れ」って何なの。
「実は、日向園芸の経理担当のお袋が……ちょっと暑さで」
「まさか倒れたんですか!?」
「いや、2週間ほど避暑地に旅行に行くって置き手紙が今朝、机の上にあった」
「自由すぎるお母さんですね……」
「あぁ」
葵が深いため息をつく。
「でも、経費の計算やら伝票やら切らなきゃならんし、入金も支払いもある。俺はこの通り外回りだし、親父なんて論外だ。そこで……」
ずびし、と葵が紅葉を指差す。
白羽の矢が立った、と言うことらしい。
「私、ですか?」
「そうだ無職」
「無職って呼ばないでください」
「呼ばれたくなかったら車に乗れ。そして働け」
あまりの強引さに少しカチンとくる。人を何だと思っているのか。
「……うーん? なんていうかぁ私もぉ、いろいろと忙しいですしぃ」
唇の下を指先で支えつつ、スマホのスケジューラを起動してみる。当然予定は真っ白である。
「はぁ? 忙しいって、誰が?」
イケメンが本気で他人を小馬鹿にしたような顔をする。
「ぐぬぬ……。いっ、忙しく……無いですけど。でも、でも!」
「でもなんだ」
実は無職で暇で死にそうでした。将来に対する漠然とした不安に押しつぶされそうでした。それを認めた上、葵の強引さに簡単に屈するのも、なんだか負けた気がして癪に障る。
「時給は1000円」
「乗ります!」
「よし」
高々と右手を挙げた紅葉の瞳には、¥マークが浮かんでいた。
<つづく>




