日陰の『マダム・アルフレッド・キャリエール』
◇
霧のような小雨がしとしと降り続け、遠くの景色は霞んでいる。
窓から見える庭では、雨に濡れた薔薇の花々が皆一様にうつむき加減で佇んでいた。
――雨のち、くもり。
今朝の天気予報ではそんな風に言っていた。6月も半ばとなり、山に囲まれた土地では梅雨めいた日が多くなる。
「もう少しで止みそうなのに……」
水滴をたっぷりと吸い込んだ『ガートルード・ジェキル』や『ラ・レーヌ・ビクトリア』の枝は、枝ごと弧を描いて下を向いている。
雨に濡れたバラの花弁もまた風情がある。うつむき加減の花を下から覗き込んでみたい衝動に駆られる。雨上がりの光彩は、花弁が重なり合うことで見事なグラデーションを生む絶妙な光の加減ともいえる。
雨が止んだら庭に出よう。
憂鬱なはずの雨の日さえ、こんな楽しいことが有るなんて以前は考えもしなかった。
部屋で粘着ローラーをコロコロと絨毯の上で転がしながら、窓の外をときおり眺める紅葉。部屋は以前よりも綺麗になった。紅葉自身もジャージ姿から、少しはマシな格好に着替えるようになった。
やがて、霧のような小雨が止んだ。
グレー色の雲の隙間から明るい陽の光が見えはじめている。
「晴れた!」
粘着ローラーを置き去りに玄関へと向かう。長靴を履いて、玄関の扉を開け、南側の庭へと向かう。
むっとする気温、雨と湿った土の香り。
植物の葉によって浄化された空気が肺を満たし、僅かに混じった、薔薇の芳香に身体が喜ぶ。
けれど、一歩外に出れば辛い現実との戦いも待っている。濡れた玄関前の石畳の上を、ナメクジが這っていた。しかもやたらでかい。
「うっわ……!」
大股でナメクジを飛び越えて、庭へと向かう。
気温も上昇し湿気が上がるにつれ、庭では害虫が増える一方だった。頼りになるのは、ホームセンター・コメリンで購入したスプレー薬剤。
庭師の葵が選んでくれた二本のスプレー剤を、お守りのように握りしめる。
逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……。
紅葉は自分に言い聞かせて害虫と対峙する。
以前は毛虫を見かけては涙目で後退り。羽虫に追いかけられては退散していた。そのたびに葵に呆れられ、「やれやれ」と大きなため息を聞かされる。
けれど今は違う。
虫が怖いとか気持ち悪いとか、そんな泣き言も言ってもいられない。
紅葉にとって心の拠り所、薔薇庭師を目指す葵にとっても、大事な庭なのだから。
この大切な場所を守る。そのためには戦うしかない害虫と。一日に何度も庭に出てはやって来る害虫を見つけ次第、駆除するように心がける。
早速、薔薇から伸びた若芽の先端にアブラムシの大群を発見した。遭遇しても慌てず騒がず、ホームセンター・コメリンで購入したスプレー式の薬剤を構える。
「目標をセンターに入れて……スイッチ」
シュッと一吹き。
葉先で集会を開いていたアブラムシ達のコロニーに情け容赦なく噴霧し、制圧する。
次は背後から飛んでくる羽虫の気配。ごくごく小さな羽音がする。羽音からして、チュウレンジハバチか。空間を縦横無尽に機動する三次元座標を頭の中で認識しながら、右から左にスプレー薬剤を振り向きざまに噴霧して迎撃する。
「――そこ!」
くるくるっと指先でスプレー剤を回して、腰のホルダーに戻す。気分はすでに覚醒した新人類である。
自宅警備員から、すっかり庭園警備員へと昇格。庭の平和を守る一員となっていた。
「よし」
これでようやく、庭を見て回れる。
嵐のような開花ラッシュを過ぎた6月の庭は、一層緑に深みが増し、開花する薔薇の花々も日々増えつつあった。雨の日の薔薇たちは、命の恵みを浴びてほっと一息といったところ。
まず目に飛び込んできたのは個性的な花。花弁の一枚一枚は白地だが、ピンクの濃いストライプの斑が入る品種、『ヴァリエガータ・ディ・ボローニャ』だ。紅白の花がとても個性的なオールドローズ。まるでストロベリーアイスのような感じで、見ているだけで楽しくなってくる。
庭の中央へと進むと、純白の花が主役のように咲き誇っていた。それは『フラウ・カール・ドルシェキ』の巨大輪。花弁は雪のような白さで、凛とした美しさがある。まるで雪の女王のように儚く繊細かと思いきや、病気にも負けない丈夫さはドイツ生まれだと聞けば納得する。
雨粒を載せた緑色の葉も綺麗。水滴が雲間からの光を受けて輝いている。
と、庭の端まで来たところでふと、視界の隅に淡い桜色の花が目に入った。
「あれ……? こんなところに薔薇?」
そこは今まであまり足を踏み入れなかった場所。家の西側から北側にかけて、決して日当たりの良いとは言えない場所にあった。鉄製のアーチは幅1メートル、高さ2メートル。長さ1.5メートルほどの大きさで、昔からそこにあったのだろう。上部は半円形にアーチを描いている。
絡まっている「つるバラ」は一種類。枝は細くて丈夫そうには見えない。近づいてみると枝にはほとんどトゲも無い。
花は繊細で、優しい色合い。淡い桜色の花がほっとする。花数は多くもなく、ぽつぽつと垂れ下がるように咲いている。やや不揃いの花弁は気取らない自然な優しがある。
「香りもいいね」
花に顔を近づけると、ふわりと。爽やかな紅茶のような「ティー系」の香りが鼻孔をくすぐった。
何という名前なのかしら。
葵もここに薔薇があるなんて言わなかった。
本来、薔薇は太陽を好み日陰ではあまりうまく育たない、と葵が言っていた。
けれどここは、午後に光がわずかに入る北西に位置している。地面にはホスタなど日陰を好む多年草が生えている。
アーチの下を潜るように進んでゆくと、アーチの支柱に四角いプレートのような小さな札がぶら下がっていた。覗き込んでみると、手書きポップのような説明が書かれていた。
『マダム・アルフレッド・キャリエール
ノアゼットローズ。日陰でもよく育つ強さを持つ品種。
優しい色合いと甘い香りを、隠れキャラを見つけられたご褒美に』
「葵さん……」
思わずくすりと笑いが零れる。
どうやら、この薔薇の存在は秘密にされていたらしい。
紅葉が自分で広い庭を歩き回り、見つけることが出来た時に、品種名がわかるようにしてくれていたのだろう。
人目につきにくい場所で密やかに咲いていたのは、修道院で慎ましやかに暮らす訳あり貴婦人のような薔薇だった。引きこもって暮らしていた自分と重ね、何とも言えない親近感を覚える。
光に満ちた南の庭は華々しい表舞台。素敵な薔薇たちが共演するステージ。けれどこんな舞台横のような日陰でも、しっかりと力強く花を咲かせられる事に励まされた気がした。
「こんにちは、マダム・アルフレッド・キャリエール」
思わず声をかけると、貴婦人が微笑み返してくれた気がして、紅葉は暫くの間アーチの下で佇んでいた。
<つづく>




