番外編「最期の夜明け」
「それは、我らに裏切りを働けということですかな」
族長はブルーグレーの目を細めた。彼らは信義と仲間を重んじる部族だ。その彼らに、このような誘いをかけてくるとは。
族長は侮辱だと感じる反面、警戒心を押さえきれなかった。彼らが属する国と、北方に国境を接する隣国は、長年領土を巡って争っている間柄である。しかし、隣国がこのような申し出をしてくるのは初めてだ。
そして申し入れをしてくる時期も妙だった。今は晩秋、停戦の季節である。冬ともなれば、このあたり一帯は深い雪に覆われる。出兵をするような時節ではないのだ。開戦をするなら雪解けを迎えてから。春から夏にかけてと相場は決まっている。
それなのに、今、裏切りの呼びかけだと?
族長はちらりと、同席させた息子の様子を確認した。
息子は無表情のまま、黙ってその場に控えていた。同じ疑念を抱いているのか、いないのか。自分にさえ読み取れないほど冷静な様子に、族長は満足した。
自慢の息子だ。
自分と同じブルーグレーの瞳と、鋼色の髪。妻譲りの端整な顔立ち。まだ若いが、部族内からの人望も厚く、腕もたつ。次代を任せるのに、何の不安もない若長である。
隣国からの使者は、族長の威圧にも、動揺を見せなかった。
「貴殿方の実力を、我らが国王陛下は高く評価しておられます。また、そのように、内応に嫌悪を抱く部族柄も好ましい、と。故に欲しい、と仰せです。我らに与して頂けるなら、勿論そちらの国と同様に、貴殿方の自治をお約束しましょう。また、爵位と金銀を、望むままに与えると仰せです」
にこやかに述べる使者。
族長は頭髪と同じく鋼色の顎髭を撫でながら、はてどうしたものかと考えた。だが、すぐに結論は出た。答えを引き伸ばしても、良いことはない。
「お断りいたします。我らはこの国と盟約を結んでおりますのでな」
彼らには自治を。その対価として、彼らは戦力を。それが彼らと、国との間に結ばれている約定だ。
幸いなことに国は彼らを重宝しており、これまで理不尽な要求を突き付けられたこともない。盟約によるものとはいえ、戦や蟲の討伐などに動員された際は、相応の報酬も支払われる。
裏切る理由は何もなかった。
「そのようにお答えを急がれなくても宜しいでしょう。ぜひ、ゆっくりとご検討頂きたい。そう、一冬をかけて。来年の春、またお返事を伺いに参ります」
「無用です」
族長は言下に拒絶した。
「爵位など、我らには無用なもの。金銀は不要とは申しませんが、現状に不満などありませぬ。そして何より、仮に我らが裏切ったとして、次はどうなります。我らを放っておいていただけるのですかな? 恐らくそうはなりますまい。次はそちら側の先鋒として、これまで肩を並べて共に戦ってきた、この国の兵士たちに、弓を引けと言うのでしょう」
使者は無言を通した。そのことが、族長の台詞が正確に未来を言い当てていることを示していた。
使者と族長は、色鮮やかな敷物の上に、向かい合って座していた。
里の冬は、厳しく長い。防寒のためにも、室内には厚い敷物がしかれ、彼らは屋内では靴を脱いで過ごす。そして冬の間外に出ることができない無聊を埋めるかのように、敷物や帳には鮮やかな図柄が縫いとられているのだった。
彼らは王宮の座す中央とは異なる、独自の規範を持っている部族なのだ。その生活様式は勿論、その考え方にも、強い信念と誇りを抱いている。
故に、族長は返答を躊躇わなかった。
「我らは信義と、何より仲間を重んじます。裏切りはお断り申し上げる。そう貴殿の主君にお伝えくだされ」
そう言うと、族長は静かに立ち上がった。話は終わりだ、という合図だ。若長が無言のままそれに続く。
二人の様子に、使者の笑顔の仮面が剥がれた。酷薄なほど温度のない眼差しで、族長と、その息子を見上げる。
「それが、最終回答ですかな?」
「その通りです。お帰り頂きたい。そして、もう来ないで頂きたい。次回からは、我らは使者を生かして帰しは致しませぬ。国との無用な軋轢を回避するためにも、切り捨てさせていただく」
使者もゆっくりと立ち上がった。
「後悔致しますぞ」
脅しめいた言葉だったが、族長は、既に返答する必要性を感じなかった。
後悔などしない。彼らは信義を、仲間を裏切ることなどしない。絶対に。
使者が里を立ち去るのを見届けてきた息子に、族長は手甲を差し出した。手甲の中央には、冴えざえとした光を放つ陽石。族長一族に代々受け継がれている武器石である。
「此度のこと、中央に黙っておくわけにはいくまい。王宮へ行き、仔細を説明してきてくれるか」
事情が事情だ。滅多な者を使者に立てるわけにはいかない。息子なら適任である。
息子は手甲をすぐには受け取らなかった。ブルーグレーの瞳が、族長を真っ直ぐに見据えた。
「今から旅立てば、雪が降るまでには戻れません。一冬、里を空けることになります」
本格的な雪に覆われてしまえば、彼らと言えど里に出入りすることは不可能になる。
「構わぬ。来春まで放置しておくわけにはいかん問題だ。それに、良い機会だ。お前もそろそろ、王宮を見てくるが良い。特にレイノルド王太子殿下をな。お前の盟約相手は、あの方になるのであろうから」
息子は頷くと、手甲を受け取った。長旅になる。信頼できる武器は必要だ。この息子になら、家宝を預けることも躊躇いはない。
ふと思い付いて、族長は笑った。
「せっかく長逗留になるのだ。色々と見聞も広めてこい。ついでに王都で、嫁を探してきても構わんぞ。どうやらこの里に、お前の眼鏡にかなう娘はいないようだからな。こんな辺鄙な北方へ嫁いで来てくれる、物好きな娘が王都にいればだが」
からかう口調の族長に、平静な表情のまま、息子は分かりました、と返した。これは駄目かもしれん、と族長は天を仰いだ。
里の娘たちから熱い視線を浴びているにも関わらず、息子は色恋方面に淡白なのだ。どうやら心を動かす相手が里にはいないようだと、族長は踏んでいる。
しかし、同じ部族内にこだわる必要はない。政略的な事情もない上に、将来は部族を背負う重責もある。せめて息子には好きな娘と結ばれて貰いたい、と族長は考えていた。
この息子の男ぶりなら、王都でももてるだろう。本当に連れて帰ることができるくらい惚れさせることも、不可能ではあるまい。いい出会いがあればいいのだが。
そう期待する自分は、ただの一人の馬鹿な父親だな、と、族長は内心で呟いた。
そして今、族長は。
その結果を見届けることは、どうやら出来なさそうだと思っていた。
息子を王都へ送り出してからほどなく。
今冬初めて、腰まで埋まるほどの積雪があった夜明け。
里を突如として、蟲の大群が襲ったからだ。
襲ってきたのは、『雪走り』と呼ばれる、大型で獰猛な肉食蟲だった。深い雪の上でも素早く移動することができ、獲物を熱で感知して、どこまでも追いかける。
雪の上で雪走りに狙われると、人間は無力だ。逃げてもあっという間に追い付かれ、ろくに身動き出来ないところを貪り喰われる。
雪走りは、本来もっと標高の高い場所に棲息する蟲だ。それがなぜ、こんな山裾に大挙して現れたのか。
夏眠から目覚めたばかりの雪走りは飢えている。建物の中に獲物がいることを感知し、その鋭い牙と顎をもって壁を食い破ろうとしていた。立てこもることはできない。そう遠くないうちに破られる。
族長は予備の手甲を利き手にはめた。そこに輝くのは陽影石。息子に預けた家宝ほどではなくとも、業物の武器石である。
「お前は逃げよ」
いつの間にか、すっかり身支度を整えて付き従う妻に、族長は声をかけた。
そして、妻が首を横に振るのを見て、ああやはり、と思った。妻の右手にも、武器石が輝いていた。
「私も戦います。逃げるなら、皆で共に」
彼らは、女も子供も戦うことができる部族だ。今恐らく里中の家庭で、似たような会話が繰り広げられているのだろうな、と族長は瞑目した。
「そうか」
族長は議論の無駄を悟り、ただ妻の頬を撫でた。一人だけ逃げろと言われて、頷く部族の者はいないことを知っていた。彼らは仲間を重んじる。裏切らないし、見捨てない。決して。
うっとりと、妻が目を閉じる。族長は妻の感触を全力で心に焼き付けた。これが最期となるかもしれないことを理解していた。
「出るぞ!」
族長夫妻は、まず薪小屋に火をつけた。冬籠もりのために大量に蓄えられた薪が、白い煙を上げて燃え始める。
例え救援が来る可能性は低くとも。これで外部に異変を伝えられる。熱を感知して襲い来る雪走りを、惑わせることもできるだろう。
里のあちこちから、戦闘の気配がしていた。苦痛の声が聞こえる。断末魔の叫びも。腰まで埋まるほどの雪が、彼らを大きく阻んでいる。助けに行きたいが、その余裕がない。
炎の熱につられ、集まってくる雪走り。十体を超えたところで、族長は数えることを放棄していた。こちらに集まった分、他の皆が楽になると考えるしかない。
右奥から這い出してきた雪走りの顎から、誰かの手がだらりと垂れていた。族長は叫んだ。
「皆! 逃げよ!!!!」
どこまで届くかは分からない。しかし、あらん限りの声を張り上げずにいられなかった。
逃げよ。
雪走りから逃げ切ることが、難しいと分かっていても。
仲間を置いて逃げる者など、いないだろうと分かっていても。
逃げよ。──全滅する前に。
族長の武器種は槍だ。陽影石に魔力を通し、具現化させる。手をかざすと、刃に宿る雷と炎。隣では、妻も武器に属性の光を纏わせている。
「皆の救援に行かねばならん」
この雪走りの囲みを破れるとは思わなかったが、族長は太い笑みを浮かべた。諦めはしない。力尽きるまで。
妻も凛々しく頷いたが、小さく小さく呟くのを、族長は聞き逃さなかった。
「……あの子がいなくて、良かった」
返事はできなかった。
族長は黙殺した。里の皆が、恐らく今この瞬間も次々と倒れている中、部族を束ねる長として、同意などできる発言ではなかった。
しかし族長にとっても、それは偽らざる本音だったのだ。
この死地に。息子がいなくて良かった。
族長は、先頭の雪走りの顎を凪ぎ払った。雪走りは、行儀よく一匹ずつ襲ってきてなどくれない。そこに少しでも隙間があれば、体を捩じ込ませ、貪ろうとのしかかってくる。
雪走りを倒すのだ。力尽きるまで。
皆を救うのだ。力尽きるまで。
生きるに値する理由と死ぬに値する理由を、その手のひらに握りしめて、族長は王都の方角に祈った。
全てを失う息子に。
──どうか幸いあれ。