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勝(2)

 今、あたしは武実という浮き輪みたいなじいさんにつかまって、広大な海を漂っている。武実だけ見ていればなにも怖くない。でも、武実に穴が開いたら? 武実が浮かんでいられなくなったら? それだけだって怖いのに、海の底から得体のしれない怪物があたしの足をものすごい力で引っ張ったら? あたしはなすすべもなく海に引きずり込まれてしまうだろう。

 その得体のない怖さはいつもあたしに付きまとっていて、あたしを開放してくれることはないのだ。

 その日、母のそばで泣くことも知らず、感情もなく、ただ息をするだけだったかわいそうな小さいころのあたしが、あたし中からひょっこり顔を出してきた。でも、あの時はかわいそうではなかった。かわいそうという言葉を知らなかっただけだ。今はその言葉を知ってしまったから、もうかわいそうなあたしに戻りたくない。


 それから、ひと月に一回くらい勝が来るようになってしまった。奴はなにを考えているのだろうか。何もしゃべらないし、いつも「この間のやつ」と言って、同じウィスキーをロックで一杯だけ飲んでいく。最低十円のお金は置いて行く。その十円を受け取る時、たまらなく情けない気持ちになる。武実が来る日と重なることもあったけれど、あたしに絡むこともなくて、黙って帰って行く。

 

 ある武実の休みの日に武実が聞いた。

「なあ、あの、ときどき見かける、しょぼくれた若いのは、ホームで一緒だった友達?」

「そう」

「どんなことがあった? 話してくれるかな?」

 いつもバーでのお客様とのやりとりなら、すんなり話せるのに、その話はしたくなかった。あたしが何も話そうとしないので、武実がいらいらしているのがわかった。

「君に何か、説教とか、うるさいことは言ったことがないだろ?」

 と武実が小さい子をあやすように、あたしの頭をぽんぽんとたたいた。

 あたしは駄々っ子のように、口を真一文字に結んでいた。その唇に武実が自分の唇を重ねてきた。

「別に怒ったり、そんなことはしないから、本当のことを言ってくれればいいから」

 と武実が耳元で言った。

「でも、忘れちゃったの」

「ふーん」

 武実の機嫌が悪くなっているのがわかる。だけど、あたしは、話したくないんじゃなくて、話せないのだ。誰だって簡単に話せないことはあるんじゃないのかな? 武実は自分のことは話さないくせに。と、あたしも不機嫌になった。

「まあいいさ」

 武実はふてくされたみたいに、さっと立ち上がると、外に出て行った。

 しばらくして、帰って来た武実に、

「ねえ、あたし、店の場所を変えたい」

 と言った。

 武実はうんざりしたように笑うと、

「そう簡単なことじゃないだろ? あの場所は君の誕生日にあげたんだよ。もしそうしたいなら、自分で稼いだ金で、自分で好きなようにするんだね」

 と言いながらも、武実はあたしを抱きしめた。

その時、「逃げたい」とまた思った。

あたしは運よくこんなゴージャスな生活を手に入れたけど、ほかの人はどうなのったのかな? そんなこと考えたってしょうがないけれど、そう思い始めると、チクチクと心がささくれ立ってくる。


それからほどなくして、勝は来なくなった。

最後に来た時、「おれ、だれかを不幸にしたくて生きてるわけじゃねーし」

 と言って、その日はまとまったお金をカウンターに置いて、

「これ、あのじじいに返してくれよ。おれからってことで」

 と言い捨てた。袖口がすれている、薄い黒のスーツが目に焼き付いた。

あたしは勝の言葉を全部信じたわけではない。この場所がわかってしまった以上、またいつかふいに現れるかもしれない。

まだまだ弱っちい自分の心をもっと鍛えなくちゃ、と思った。

馬鹿みたいだけど、あたしはそれから、ジムに通って、本当に身体を鍛えている。エアロビやボクササイズの先生が来る日があるので、それにも参加している。

武実はそれをおもしろがって、あたしの鍛えられた身体を点検する。

今はそれでいい。

勝が払ったお金は、別の封筒に入れて持っている。もし、あたしが武実とのところを離れる時が来たら、その時にそのお金のことは考えよう。

今は生っちょろくてもいいや。二十五歳になったら考えよう。


また花屋さんが来る月曜日、担当の人が変わった。

「あら? 新しい方ですね…」

 例によってナイティにスウェットのトップスだけはおって、寝ぼけた顔であたしは話しかけた。

「ええ。サキモトと申します、しばらくこちらの担当をさせていただくことになると思います。どうぞよろしくお願いします」

 と、そのサキモトさんは、厚手のタオルで手をぬぐって、腰に巻いたポーチからネームカードを探して、あたしに差し出した。

 オミナエシ、キキョウ、ワレモコウ、ススキと、すっかり秋めいた野の花が、サキモトさんの広げた包みの上に広がっていた。今日の花器は、白地の縦長の磁器で、紺と金のふちどりがある。

「この間の方は?」

「あ、ミスミは、退職しました」

 ふうん。ミスミさんて人だったのか。な~んて、どうせ名前なんか聞いたって忘れてしまうけど。

 武実は例によって新聞に目を通している。老眼鏡の上からジロリとあたしの方を見て、

「おいで」

 と言った。

 なんだか、今朝はじゃれつきたくて、サキモトさんがいるのも構わず、武実の横によりそった。

「ずいぶん、固くなったな」

 武実があたしの腹筋を押す。

「そうだよ。筋肉もりもりついてるから、だから、気をつけないと、あたしに簡単に殺られちゃうよ」

 あたしはボクシングのポーズをとった。

「ハハハ、本望だな」

 あまりあたしがまとわりついたら、武実はバツが悪そうに、

「おいおい、お客様が来ていらっしゃるぞ」

 と言った。武実もサキモトさんがいることが気になるらしい。

「え? だって、お客様はあたしたちだよ」

 武実の目は笑っていたけれど、じゃじゃ馬になっているあたしをたしなめるように「め」という目でにらんで、新聞に目を戻した。

 あたしはその横でただ武実の肩に頭をもたせかける。

 こんな朝が好き。

 こんな朝がずっと続きますように。

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