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勝(1)

 その日はお客様があまり来なかった。天気のせいもある。外はなんだかジトジトしていて、夜に従って雨足が強くなってきていた。たぶん、もう人は来ないのではないかな? そんな気がして、もう店じまいの支度を始めていたころ、戸部勝が店にやって来た。

グループホームで一緒に暮らした奴だ。あたしより二歳年上で、ホームでは一番仲が良かった。

 ドアを開けて入って来た瞬間に目が合って、あたしはドキリとした。だけどすぐにカウンターに目を戻して

「いらっしゃいませ」

 と低い声で言った。声は震えてはいなかった。でも、すごく嫌な感じが心に充満していた。

 ホームでのことを消し去ろうとは思っていないし、そんなことが簡単にできるとも思っていない。でも、そこを出る時には、一緒に暮らした人たちと縁を切りたかった。

 勝のことは、ずっと本気で好きだった。

 でも、あたしの心の中には誰かを本気で好きになってはいけない、というような、警戒心がいつもある。

 人に優しくされるとすぐに好きになってしまうところがあるので、そんな自分の心を監視して、なるべくクールにしていたいという、その願望にかなった自分になろうとしている。

 勝はあたしのことを本気で好きだったのだろうか?

 わからない。でも、あたしたちは、グループではそれなりに仲良くして、そして二人だけの時間ができるともうたまらなく求め合った。それは綱渡りのような時間で、そうだったからよけいに、その綱からそれないように、落ちないように、注意深く渡り、そして渡っている間はスリルを満喫した。

 勝はずるい奴だ。

 それはわかっていた。複数の人と上手にバランスを取りながら、自分を傷つけずうまくやっていこうと思ったら、どうしてもそうなってしまう。そういう部分は私の中にもあったので、勝のずるさを許すことができた。

 でも、そのずるさに引っ張られることをあたしは恐れた。

 

 勝はあたしの弱点を知っていて、あたしにうまいこと言って、あたしに付け入ってくるだろう。だからずっと隠れていたかったのに、見つけられてしまった。

 仕事に集中しようとしても、知らず知らずのうちに緊張してしまって、そんな自分の弱さに自分で腹が立った。

 それをおもしろがるように、勝があたしを見ていることがわかった。

「あの! なにがおすすめですか?」

 とわざとらしく聞いてくる。声が笑っている。

「特におすすめはないのですが、どのようなお好みですか?」

「うーん、すっきりしたいな」

 と勝は言った。

「ソルティドッグはいかがでしょう」

「へ? なに気取ってるんだよ…」

 と勝が鼻で笑った。

「すっきりしたものが良いとおっしゃったので…」

 あたしは勝なんか知らない、ただのバーテンダーになり切ろうとしていた。

「じゃあいい、普通のウィスキーをロックでくれれば」

「どちらの物がよろしいでしょう? 日本の物でよろしいでしょうか?」

「へん、酒だったらなんでもいいよ」

 と勝はふてくされて言った。

 店には日本のものは、わりと人気のある漢字の名前の物、一種類しか置いていない。

 開いている物はなかったので、封を切って用意した。

「ずいぶんといい店だな。いい場所だし…」

「ありがとうございます」

 とあたしは冷たく言った。

 と、そこへ武実が入って来た。

 あたしはそれを望んでいたような、来なければいいと思っていたような、どうでもいいような、投げやりな気分になってしまっていた。

 武実はカウンターの一番奥の端に座って

「ダイキリね」

 と言った。

「かしこまりました」

 と答えた。

 そのまま時間は止まってしまったように思えた。

 勝は虚ろな目を泳がせていたけれど、それきりあたしに話しかけることはなく、突き出しで添えたオリーブの実をゆっくりと味わいながら、ただ飲んでいるようだった。

 このまま店に客が来なければ、今日は武実と一緒に帰りたい、と思い、それを願った。その願いが通じたのか? 三十分ほどして、

「お勘定…」

 と勝が言い、私が代金を告げて、それを支払おうとしながら、

「ほんと、世の中氷のようだな」

 と言った。

 勝のぼろっちい財布が見えて、その中にお札が入っているのだろうかとふと心配になった。あたしは、なんだか、胸が痛くなった。

 だけど、ここであたしが優しくなったら、また来てしまうかもしれない。冷たくしても来るかもしれないけど…。

 勝は財布の中をしばらく見つめていて、

「つけにしてもらえますか?」

 と言った。

「申し訳ございませんが、初めてのお客様の場合、それはできません。いくらでもけっこうです。お支払いいただける代金をいただきます」

 とあたしは言った。

「じゃ、これで」

 と勝は十円玉を置き、あたしはもうたまらなく悲しくなったけれど、今日は武実と帰るんだ! と自分に言い聞かせて、それを受け取り、

「ありがとうございました」

 と言った。

「ちぇ、おれには運は回ってこねーな」

 と勝は言い捨てて、店を出て行った。

 勝が出て行った直後に入り口を締めた。それは珍しい行動だったと思うから、武実は何か気が付いたかもしれない。でも、武実は何も言わなかった。

「申し訳ございませんが、今日はもうお店を締めさせていただきます。お客さま…、よろしかったら、今日はご一緒していただけませんか?」

 あたしは武実の方を見ずに、シンクを掃除しながら言った。武実はしばらく黙ったまま。

「まあ、それもいいだろう」

 と言った。こんなに安心できたひと時はなかった。


 店から出て、地下鉄の駅に向かってしばらく川沿いに歩くと、勝がベンチに座っていた。たぶん、そうじゃないかとあたしはどこかでわかっていたのかもしれない。だから、武実に一緒に帰ってとせがんだのかもしれない。

 あたしは何も言わなかったけれど、武実と腕を組んでいて、武実の腕をぎゅっと握った。武実はあたしの様子で何かがわかったのかもしれない。勝のわきを通る時に、札入れから数枚の一万円を抜き取ると、それを勝に渡して、

「この場所を忘れてもらえるかな?」

 と言った。

 それはあたしにとっても、たぶん、勝にとっても心にぐっと何かが心に刺さるような一瞬だったと思う。

 勝は無表情でただお金を受け取り、何も言わず、そこに座ったままいて、武実とあたしは表通りまで歩いてタクシーを拾った。

 この先、勝はどうするのだろう。

 できれば、強くなって、しっかり自分の足で立って歩いて行って欲しい。

 勝と一緒に過ごした日々があたしを責め立てて、思い出したくもないのに、あたしの頭の中をかきまわした。

 あたしはいつもの陽気なあたしには簡単に戻れなかった。武実は、やれやれというようにあたしの機嫌を取り、マンションに帰ってからは、一人放っておいてくれた。


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