欲望
「あなたの飛んでいった心を無理して探さなくてもいいのよ。あなた自身から出たのは確かだけど、その心はあなたがおばあさんと築き上げてきた人間関係を形成するラポール(信頼感)の塊で、あなたは介護従事者として利用者の認知世界をありのままに受け入れ、その意思、感情、考え方を共感的に知ろう知ろうと苦悩してきた証。そしてやっと手に入れたラポールの塊がおばあさんの死の受容に際して慟哭のように深くなりすぎて、心の奥底に沈殿し、その沈殿したラポールの塊は重すぎてあなたの心の溶液では溶かしきれずに心の奥底のさらに底まで沈み込んでいった。あなたは一生懸命に心の溶液で再沈殿を繰り返すラポールの塊を薄めよう薄めようとしたけど、結局はあなたの心を溶解し、突き破って出ていってしまったの。あなたは頑張ったわ。十分頑張った。そして早めに解放され、わたしに癒しを求めてここにいるの。ここまでの話は理解できた?」
佐々木さんはソファーに腰を下ろしながらビールを手に話をしている。アルコールで頬を赤らめながら、うっすらと色目を使い、隣のぼくを誘惑する。感情の火照りをビールの冷感で冷やしながらも、もっと熱い火照りを欲してぼくを挑発する。言葉の端々に理解できない感情を混ぜながらぼくを幻惑する。
白いバスローブから柔らかい乳房が見える。足を組み替える時に見える太股の滑らかな曲線を意識的に披露しながら、恥じらいの仕草をし、何でもないようにバスローブの裾を直したりする。隣にいるぼくの耳元に、あたるかあたらないかの吐息をかけながら、ふっと吐息を外して天井を見上げ、ぼくの視線を誘導する。
佐々木さんとは三年の付き合いになる。ケアマネージャーの研修会で隣に座っていたのが佐々木さんでそこで知り合った。ぼくはケアマネ一年生の右も左もわからない若輩者の存在で地域包括センターが主催するケアマネ連絡会において、先輩ケアマネと事例検討会と称するカンファレンスを緊張しながら聞いていた。
佐々木さんはそんなぼくの存在をチラッと横見しながら、話しかけるタイミングを見計らっていたと後々になって教えてくれた。
だから、最初からぼくは佐々木さんの欲望の対象だった。
佐々木さんの欲望とは手に入れた対象を破壊して自己を確立するという欲そのものに攻撃性がなく、攻撃性がないから対象を破壊することなく維持管理し、ぼくという存在は佐々木さんの支配域に置かれながらも自由に泳がされ絶対食べてはいけないもの、食べた途端に自らの欲望が満たされ、ようやく手に入れた対象がなくなってしまう恐怖、絶望を兼ね備えたものとして存在している。
だけど、佐々木さんの欲望を満たしてくれる存在なんてぼく以外にたくさんいると思うし、欲望の対象を飲み込んで咀嚼し、栄養分を吸収したら排泄物として処分し、また新しい対象を見つける行為そのものにダイナミックな欲望の原点があるんじゃないかと、ぼくなんかは思う。最初の頃の佐々木さんはそんな感じだった。
でも、佐々木さんはぼくにとどまり羽を休め、羽ばたかなくなった。居心地がよさそうに眠ったり、風に揺れたりしている。そんな佐々木さんの弱さというか甘さ、対象を吸収して同化させ、他者に対して絶対の存在、いつでもあなたなんか捨ててあげるわという傲慢な女王様の姿はなくなり、労わり、慈しみ、弱さを共有する存在になった。
佐々木さんの欲望が持つ弱さ、甘さにはもう一つの側面がある。佐々木さんは結婚していて二人の子供を持つ母親で、別段、二人の子供、旦那に愛情があるわけではないが、欲望と家庭どちらを取るかという二者択一の選択では、二人の子供、旦那との家庭生活一択のみを絶対のものと考え、選択し、自らの欲望は自制される。そんな自らの欲望を自制してまで家庭生活を維持させることが弱さ、甘さであるのではなく、家庭生活を維持することでおきる様々なストレス、ジレンマ、軋轢を内に溜めることにより、自らの欲望がより増大することを喜びとして捉えていることに弱さ、甘さがあるのである。
これはぼくが考える佐々木さんの欲望であり、佐々木さん自身が考え、感じる欲望はまた違った形のものであるはずだが、「共有してよ」と無言の声が内に届いて、肉体的に教え込まれたり、精神的に享受したりする。
「あなたは子供を欲しくないと言うけど、わたしとの子供ができたらどうするの?」
「たぶん、あなたはその事実を隠してぼくの目の前から消えていくよ。そして残されたぼくという存在はあなたが消えたという出来事に困惑せず、何もなかったように生活していると考える。願望として。もちろん、その時点でぼくはあなたに子供ができたことは知らないし、子供ができたと知っていてもあなた自身が何らかの処分を秘密裏にして、ぼくに負担をかけさせないように消えたのだと思うだろう。願望として」
「あなたの言う願望としてはズルイわ。まるでわたしがそうしなくちゃいけないように誘導されているみたい。でも、別にいいの。何の真実味がない会話だから」
「ぼくの心とおばあさんの死の受容についての話は終わりなの?」
「もう終わり。あなたはあなた自身の心がどうなろうと、それほど関心があるわけでないし、わたしに話している内容ほど真剣でもない。でも、何処かでわたしの癒しを求めている。そうでしょう?それだけいいの。女はそれだけでいいのよ。お風呂に入りましょう」
温かいお湯に沈み込んで、涙を流しながら、ぼくはお湯に溶けていくのを感じる。佐々木さんはいろんな色の風船を膨らましている。湯気と浴室の淡い光のなか、色とりどりの風船が空中に跳ね上がり、空間を幻想的な丸い曲線で埋める。
ふわふわと浮く風船
ふらふらとおちる風船
そんな風船をパチーン、パチーンと叩きながら
「つぎは何色の風船を膨らまそうか?」なんて嬉しそうに聞いてくる。
ぼくは湯船から顔を出し、佐々木さんの嬉しそうな顔を見る。だけどぼくの涙はとまらずにポタポタと湯船におち小さな波状をつくり、す~と消えていく。
そんな涙の波状を人差し指で遮りながら、ゆっくりと佐々木さんはぼくを抱きしめる。
浮遊したいくつもの風船が湯船におち、色とりどりの小さな防波堤を作る。そんな僅かな抵抗を壊しながら、我を忘れ、佐々木さんの乳房に安らぎを感じる。滑らかな乳房の曲線に薄っすらと汗がにじみ、ぼくの舌が敏感に佐々木さんの塩分を感知して舐める。
幾つもの屈折した感情は佐々木さんの裸体に吸い込まれ、清く淡い期待に裏切られたぼくの幼稚さは、佐々木さんが優しく拾い上げる。
黒い女の陰部を舐める男の舌が狂う。
だからって女はそんな微妙な仕草を無視して、抱きしめた男の頭に力を加える。
黒い固まりになったビー玉がコロコロ転がって二つに割れる。割れたビー玉の断面に透き通った心が映る。
そんな心を憐れに思い、手を差しのべて。
優しそうな手を選んで、満足そうに笑みを浮かべて。




