お見送り
おばあさんが葬儀屋に運ばれて玄関を出て行く時には新しい日にちが来ていて、葬儀屋はテキパキと自らの仕事をし、ぼくらは葬儀屋が持ってきたキャスターにおばあさんを臥床させたりを手伝いながら、深夜帯に慌ただしく流れていく空気を察して起きてきた他の入居者の心の動揺を鎮めながらも、本来ならここでの生活を共に過ごしてきた他の入居者の方々にも最後のお見送りをさせてあげたい気持ちは物凄く感じていて、しかしながら深夜帯ということもあり、ぼくと親父、夜勤職員で最後のお見送りをしたのでした。
玄関から葬儀屋がキャスターを押しながら出ていきカラカラとキャスターの車輪の音が静かな夜に響いて停車中の車のなかに収まり、そのまま車のエンジンと共に暗闇の中に消え、ポツンと残された三人の影が玄関の明かりによって際立ち、それも終わったと三人の影が建物の中にゆっくり消えて、ふっと溜め息をついたぼくはおばあさんが残していった家族的な哀愁を擬似家族として感じることに違和感を覚え、
「いけない、いけない、そんなに深い感傷を感じてはいけない。擬似家族として冷静に客観的に哀しむのが礼儀だよ」って。
キューブラーロスによる死の受容は否認、怒り、取引、抑うつ、受容の五段階あるとされ、ターミナルにおける代表的な考え方とされており、おばあさんが自分の死をどう受け入れたかは本人しか分からないところだけれど、ぼくらは一人の人間が死を迎える時を冷静に受けとめ、おばあさんの精神状態を客観的に把握しなければならない。
だけど、死という曖昧で漠然としていて、でも絶対のものに対して抱く不安を否定してみることにより、おばあさんの死期が近くないと考えたり、こんなに優しくて素敵な人が苦しんで煩悶しているご様子に怒りを感じてみたり、「神様お願いします。助けてあげて下さい。本当に良い人なんです」と空虚な何者かに取引をしてみたり、それでも一向に上向かないおばあさんの状態に共有しすぎて自らの精神を抑うつ状態にしてしまったり、そんなこんなを繰り返すうち、おばあさんの死をなんとなく受け止めて、心の中に受容する。
そう、ぼくら自身がおばあさんの死の受容を擬似体験して深く結びつくと擬似家族ができあがる。
「ねぇ〜あなたは煙草を吸わないのかしら?珈琲いれたから飲んでいってちょうだい」って夜勤の職員。
この人は病院の療養病棟で働いていたこともあり死の受容を心のなかの静かな風に変えて周りに流す。そんな風は程よい優しさに包まれて気持ちよさそうに浮遊する。
擬似家族の一人が熱い珈琲の湯気に嬉しそうなジェスチャーで応えて笑う。ぼくも涙ぐらい流して応えたいができない。その代わり煙草を吸って煙を吐きだし夜空に苦笑して熱い珈琲を飲み込む。